7 主演と脇役魅惑のステップ(恋人繋ぎ)
私はどうせ話の方は上手く楽しめないだろうと高を括り、水本さんへの返事に何と返すべきか、それだけは考えておかねばと精神統一、購入した指定席に座った。水本さんは大盛ポップコーンにコーラという如何にもな映画館セットで鑑賞に望むようである。私も飲み物くらい買った方が良かったのだろうか。
「いえ。一緒に一つのストローを使い、一緒に一つのドリンクを飲みましょう」
「間接キスなんだが」
「……間接、キス。間接キス……キス……」
私に改めて自分が提案した行為の名称を返されると、水本さんは軽く俯いて『キス』の部分を繰り返した。赤くなった顔を両手で冷やしつつ、私から一瞬、顔を背ける。しかし、その瞬間水本さんの右側の口元が、僅か二ミリほど緩んでいたことを私は見逃さない。暫くの間ぶつぶつ言っていた水本さんは急に勢い良く、私に向かって、いっそ開き直った風にこう言った。
「はい。間接キスです。今ならさせてあげても良いんですよ。私の可愛さに屈して、楽になっちゃいませんか? きっと素敵な気分に浸れますよ。良い匂いもしますよ」
「ふむ、平常運転に戻ったな。だがしかし私は飲み物よりも今はポップコーンの方が欲しいんだ。観ながらちょくちょく摘まませてくれないか」
「おやおや知らないのですか。映画を観る時ポップコーンと一緒に飲み物を飲めば尿意を抑えることが出来るのです。ここはせっかくなので、一石二鳥を狙うべきですよ。是非とも間接キスしましょう」
最後に魂胆がバレバレである。
「――――」
水本さんがかねてより観たかった映画というのは、所謂ラブロマンスと呼ばれるジャンルにカテゴライズされるべき代物であった。堅物の主人公がヒロインの気持ちに気付けず、その後ヒロインは誘拐魔に拐われてしまうといったベタな冒頭から繰り広げられる青春冒険活劇である。鈍感系主人公は無意識にヒロインの恋心を否応無く炎上させ、その付かず離れずの絶妙な距離感が我々観客の内心を弄んだ。
「――中島さん」
私は、非常に驚いた。
喉元で出かかった言葉を必死に留める。
左肩に、暖かい何かが触れたのだ。
暑く熱い夏のような息遣いがすぐ傍、モノラル音声で私の左耳をくすぐっている。恐る恐る目をやると、やはり私の左肩には精一杯、甘えるような姿勢で水本さんの頭が寄りかかっていた。私が見ても一切視線を逸らさずスクリーンを凝視している辺り、突っ込みは受け付けない方針を採っているようである。
水本さんは意に介す様子もなくドリンクを口内に運んだ。そして暗闇の中で寸分狂わぬ手捌きでポップコーンを拾い上げ、食べた。また映画に集中している。動揺しているのは、私だけだ。
『どうして――どうして気付いてくれないの! こんなにも私は頑張って、言い続けて、それでも貴方は解ってくれない!』
『気付いてるさ。解ってるさ。しかし、俺にはお前の言う「恋」という気持ちが、何なのか、見つからない』
私はせめて気を紛らわせるべく、前方にて上映されている映画に目線を逃がすことに決めた。物語も終盤に差し掛かり、主人公の大活躍によって誘拐魔の脅威は去った。しかし海を渡り山を越え空を駆け、どれほど窮地に立たされようと精神を追い詰められようとヒロインを助け出そうと躍起になっていた主人公は、かのヒロインへの想いを自覚していなかった。ヒロインは主人公――自身を命懸けで救出してくれたヒーローを涙目で見上げていた。水本さんも、隣で同じように鼻を啜った。
これほどの堅物では最早手の施しようもあるまいと、私は呆れ果ててしまった。そして焦れったくなった。どうか気付いてやってくれ。解ってやってくれ。お前は幸せな奴だ。勇気があって、挫けなくて、一人の女の子の為に命を惜しまない、私なんかよりもずっと出来た人間なんだ――人間失格とは程遠い、素晴らしい男なんだ。お前は何故その女の子を救おうと思ったのだ。何故自身を顧みず救いたいと渇望したのだ。何故、救えた時あれほど安堵の表情を浮かべたのだ。
『――好きってことなんじゃ、ないの?』
『これが――恋、だと言うのか……?』
「――!」
私はもう一度、非常に驚いた。
何にかと言えば、それは物語を楽しんでいる自分自身にである。共鳴した――正しく、今の私は完全に物語に同化していた。気分は一登場人物、一モブと言ったところか。水本さんが寄りかかってきていることなど今だけは忘れて、私はただ単純に、映画から提供されるリアルな感動を噛み締める。
「……こんなにも、良いものだったのか」
手に汗を握った。汗が出た。喉が乾いた。春も終わりかける今日この頃、衣替えはまだ行っていなかった。オレンジの香りが鼻腔を駆け抜けた。私は自然と一つしかないストローに口をつけ、コーラを飲んだ――水本さんは目を見開いてげふんげふんと咳き込んだ後、唇をきゅっと結ぶ。明らかなる、絵に描いたような動揺である。不意に見せる慌てた表情も可愛いと思う私に、更に自分で驚いた。映画に創られたこの世界には、元カノとの確執やトラウマ等微塵も存在しない。この状況の全てが赤崎の掌の上だなんて暴論も、映画館の外で待ってくれているだろう木村も、最早私の思考の片隅にも残されていない。
今更、気付く――私は、水本さんに、とっくのとうに惚れていたのである。
『そうだよ。恋だよ』
『……気付かせてくれて。解らせてくれて。ありがとう』
クサい台詞を紡いだ主演二人は手を繋いで踊った。
私も水本さんと手を繋いだ。恋人繋ぎで。
途端に、彼女の手が熱を帯びる。
さっきは何でもないみたいに涼しげな顔をしていたから、今、水本さんはどんな顔でいるのだろうと、私はスタッフロールの流れるスクリーンの朧気な光を頼りに隣席の主を覗き込んだ。
私は彼女のあの表情を、ずっと覚えていたいと願う。