6 オレンジの旬は冬だが今は春で夏である
生憎その日は雨日和だったので、私は傘を持って高田市駅前に集合した。駅前は日曜日特有の、学生、社会人問わない有象無象が入り乱れ、ちょっとした動物園の様な騒がしさが私の緊張を揺さぶっていた。
「……デート、か」
そう、デートだ。
誰あろう、お相手は水本さんである。
先日私が常連として通う喫茶店にて出会った水本さんとは、この数週間で異常なほど距離を詰めてきた。否、詰め寄られたと言った方が正しいのかもしれない。何でも聞くに、彼女はこの春から我が住み処が佇むこの町に越してきたばかりの身だと言うのだ。私と初めて会ったあの喫茶店も、地域を知る一環として偶然入ったに過ぎないらしい。元々常連になるつもりはなかったと言うのだから、今や定期的に店に来て、私と雑談にかまけてくれる水本さんの姿は彼女自身にも想像出来なかったことだろう。私だって想像出来なかった。
「水本ちゃん今日も鬼可愛くねぇか!? なぁ中島ぁー、お前も思うだろ!? な!?」
「…………」
「私の可愛さ故に放心状態なのです。そっとしておくとその内治りますよ」
「そういうことかぁ! 納得だ納得! 中島……流石にレベルが違う。俺ぁ、俺ぁお前を見くびってた! 見くびってたんだ、許してくれぇ!」
朝から無駄にハイテンションかつ男子中学生ムーブをかます店長は無視である。
そもそも可愛いと思ったら素直に言う女好き店主と自身の可愛さを武器として扱う自信過剰女子高生の相性が絶望的にマッチしてしまい、ほとんど毎朝私はその日の体力の三分の一程度を消費しなければ大学に行くことさえ難しくなった。
とは言え、一度仲良くなってしまえば話は早い。まだあまりこの町に詳しいとは言えない水本さんに対し、数週間前、私は快く案内を引き受けた。それが何日にも重なり、探検回数も共有する時間も長くなると、当然水本さんからはなつかれる。好意を向けられる。
「…………」
好意を向けられるのだ。
「中島さん、好きです。あなたのことが、大好き」
それは数日前、毎朝の如くモーニングを食べる喫茶店での事だった。あまりに唐突な展開に脳の処理が追い付かず、私は大脳CPUを冷却すべく氷枕を全面的に欲した。しかし店長にそれを頼む時間も余裕もなかった。ちらと横を窺うと店長はモーニングセットの小鉢を作っていて此方は見ていない――何気なさを装っているが、しかし手は震え、トッピングのマヨネーズをケチャップと間違えていた。相も変わらず分かりやすいヤツである。
水本さんの目はキラキラ海色に輝きつつも、頬は赤く染まり、誤魔化す様にコーヒーをスプーンで遠慮がちに掻き混ぜる。渦の出来たコーヒーの中心を瞬き多目で見つめるその海色の瞳は、私の目には急に美しく可憐に見えた。
私は狼狽しつつも、何とか言葉を紡ぎ出す。
「み、水本さんは勘違いをしている。そりゃ、慕ってくれるのは嬉しい。好意的に見てもらえることは人間にとって最大級の喜びと言って差し支えないだろうが、えとえとえとえと」
「勘違いじゃなくて、大マジです。優しくて気遣いが出来て友達を大切にしてくれる。そしてちょっぴり抜けていて頼りないところも放っておけません。私の母性を萌え殺す気ですか。あなたの一挙手一投足が目に入る度に私は気が狂いそうになる程いとおしかったというのに」
萌え殺すというパワーワードに気を取られ、私は水本さんが本気であるという事実を受け止めることに時間をかけた。そのような態度が彼女を焦らしたのか、水本さんはまるで人格を降臨させたイタコかのように普段の調子に戻り、
「良かったですね中島さん。これで夜のお相手に困らずに済みますよ。コンドームとか買っといて下さい」
「待ってくれ、本当に待ってくれ……」
水本さんから飛んで来る驚異的かつ圧倒的な好意の全てをキャッチ出来ず床にぽろぽろ溢している中でふと、赤崎の微笑が脳裏を掠めた。
これまで赤崎を介し数え切れないほどの人間と繋がってきた――その経験の幾つかで、恋人が出来そうになったことも、白状してしまえば一度や二度は有った。だがそれも突き詰めてしまえば大枠は赤崎が仕組んだことであると推測出来、私は彼に対して本気の本気でマジギレしたことがある。何がしたいのかと。恋人を遊びで作ろうとするなと。赤崎は私が激怒したところで悪びれる素振りもなかったし、自分は関係ないの一点張りだったが、一応約束は取り付け、それ以降は普通の友人紹介に規模が縮小された――筈だった。筈だった矢先、この水本さん事件である。
「待つとは何でしょうか。保留ということですか、コンドームを買うことが」
「保留ってか、コンドームってか、いや、整理させてくれ! 私だって色々あるんだ、赤崎とか、ほら、元カノのアレコレとか! そう、整理しなきゃ! 」
「生理ですか。周期を教えましょうか」
「君はもっと自分を丁重に扱え!!」
自尊心高めキャラが変態キャラに成り下がっている。
落ち着け。
落ち着かなければ脳内で餅でもつくが良い。
この件の何が恐ろしいかと言えば、私自身も、水本さんに対して恋愛的にとまではいかずとも、女性として好ましく思っていたことは事実だったからである。先に述べた前例その一とその二はあからさまな誘惑があったのでカチンと私の心に障るものがあった――しかし今回はどうだ。町案内という言わば正統派なイベントを積み上げ、毎朝の食事を共にする仲にもなり、それで、その上で好意を向けてくれている。もしこんな盤面を全て赤崎が組み上げたというのならば最早お手上げである。どの様な目的を持って私に恋人を作らせようとしたのかは友人同様は定かではないが、赤崎は相当な策士と言えよう。
但し、もしも、の話である。そんなことは有り得ない。有り得て堪るものか。まだ私の人生には希望が残されていたのだろうか――縋っても、良いのだろうか。
「……煮えきりませんね。では、今度デートに行きましょう。そのデートの最後に、お返事を頂きます。しっかり一日、考える時間をあげますからご安心を。……次の日曜日に、市駅前に集合で良いでしょうか。その、えと、とある映画が観たくてですね」
「映画!? 映画……映画か、その」
「嫌……でしょうか」
自分に告白してくれた美少女高校生にその様に悲しげな顔をされては、此方もトラウマを記憶の隅に押しやって、渋々デートを承諾せざるを得なかった。
ここで時間は現在に戻り、雨の降る高田市駅である。
群衆の騒々しさは尚も変わらず私の緊張に拍車をかけていた――かなり久しぶりの、具体的に言えば三年以上間の空いたデートである上に、その内容が映画というのだから尚更だ。水本さんに意図するところはないだろう――私が勝手に、映画に対して振り切れない苦手意識を抱えているだけ。私の我儘で、彼女が観たいという作品を台無しにしたくはなかった。
「というわけで、お前の出番だ。木村」
「何で俺? 中島お前デートすんだろ? だったら俺なんかいたら邪魔に決まってるじゃん」
人混みの中から青いレインコートを羽織って現れたのは、我が大学友人第一号の木村である。私は本日のデートに出発するに当たって、数多い友人の中から彼を頼った。選考基準は信頼出来ることと、買収しやすいこと。最大公約数的な思考で選別した結果、木村が最も適任だったのだ。
「何も俺と水本さんの間に挟まれと言っているわけではない。警戒すべきは、赤崎だ。それだけが気がかりなんだ」
「赤崎ぃ? アイツが何かあんの?」
「ああ。実のところ、ここだけの話、赤崎は人と人の関係を影から操って楽しむ悪魔なんだ。俺も狙われている」
「ほーん、そりゃ大変だな。それで、俺は何をすれば良いの?」
「遠くから赤崎が俺と水本さんの周りに潜伏していないか探し回っているだけで良い。さしもの奴も、バレるようなリスクは犯すまい」
「おけおけ。で、報酬は?」
「俺が一週間ほどマクドを奢ってやろう」
「いよぉし乗ったね!」
爽やかな掛け声で笑った木村は、手を振りながら意気揚々と雑踏の中へ溶け込んでいった。私はそれを見送ると、一安心とばかりに息をつく。これで水本さんに迷惑をかけることはないだろう――彼女が赤崎の差し向けた人間でないとは、まだ言い切れない。言い切れないが、今水本さんに裏切られれば、私は今度こそ正真正銘の廃人になってしまってもおかしくはなかった。それくらい頼りない柱で、私は今この駅前に立っている。
「――いました。あの、濡れてますよ」
「ひうっ!?」
急に後ろから声をかけられたので、私は仰天して飛び上がった。そのまま後ろを振り向くと――いつもより可愛い水本さんが、そこにいた。平日の朝に彼女と会う時、彼女は必ず学校指定の制服を着用していた。しかし今日はドキドキワクワク日曜日。女子高生ならば、それは、おめかしもするだろう。英字のプリントが入った薄手の長袖パーカーに、プリーツのついた膝丈のスカート。そこから伸びる白く細い足の先には蛍光イエローのスニーカーがくっついていた。ほんのり、ショートヘアーから良い匂いがする。これは、オレンジだ。柑橘類の王様、オレンジの放つ甘酸っぱい匂いが、水本さんを纏って離れようとしない。
それは初恋の香りに似ていた。
「では行きましょう。……お返事のことは、お忘れ無く」
「き、肝に命じます」
「変な語彙ですね……」
水本さんは極めて、極めて自然な動作で私の手を握った。恋人繋ぎで。
どうやら恋する乙女のアピールは既に始まっているらしかった。