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10 約束された祝福の豪華クライマックス

「間違いないよ。突然、しかも人づてに呼び出して申し訳ない。ただ、どうしても君にはここにいてもらいたかったものでね」


「……中島さんをここに連れてきたのもあなたですか?」


「その通りだとも」


「そうですか。それで、何かご用でしょうか。わざわざ押し入れから古いドレスを引っ張ってきたんです、それなりの用件だと嬉しいのですが」


「ああ、それはもう少し待ってやってくれよ。そこの中島くんが今、大脳辺縁系フル回転で推理しているところだ」


 水本さんは不審げにしながら首をちょこんと横に傾げた――確か、初めて私とあの喫茶店で会ったときもしていた仕草だったはずだ。

 数日前に映画館ロビーで、何と言ったら良いものか、契りの様なものを交わしてから、水本さんのそのビシバシと冷静に物を言うスタイルも鳴りを潜めるかと思いきや、付き合う前と後で、あまり私への扱いが変わっているとは言えなかった。多少甘えてくることこそあるものの、水本さんは映画デートの時に見せた、私へアピールする用に拵えたデレデレな態度を「恥ずかしい」と思っている節があり、あれ以降は映画館内で起こったアレコレに触れられることを避けている印象である。それが心の壁になっているのか、私と水本さんは恋人同士という関係に相成ったものの今まで『恋人らしいこと』を何一つとして成し遂げていなかった。私が言うのも何だが、彼女も別にデレデレになりたくない訳ではないのだと思う。ただ純粋に恥ずかしいだけで、あと一歩必要な勇気が出せなくなっている。それだけなのだ。

 誰が言ったか、恋は人生を変えると言う。

 しかし恋では変えられないこともある。

 故に、恋というものは非常に厄介なものである。


「中島さん。これは一体どういうことなのです」


「私にもわからん。赤崎に聞け」


「聞いて解らなかったから中島さんに聞いたんですが」


「へえ、中島くんって水本さんの前では一人称『私』なんだね。誰にでも『俺』って言ってるかと思ってたよ」


「…………」


「…………」


 赤崎、やってくれたな。

 水本さんは「まさか!?」と口走った後、目元に複雑な感情を湛えて私を見据えていた――私が水本さんに一人称を使うとき、『俺』と言ったことは喫茶店で初めて会ってから一度もなかった。年下、しかも女子高生という立場もあったし、あの時はまだ彼女を色濃く赤崎の刺客だと疑っていたものだから、私は一線を引いておくという意味で、あまり馴れ馴れしい態度は取らないように心掛けていた。

 しかし――貴方にお伝えしている通りだ。

 正直に言ってしまえば、一人称を改めるタイミングというものを完全に消失していたのである。一度鋳造した刀が別の刃物へ成り得ないのと同じで、始めにこうと決めたことは後になっておいそれと変えられるものではない。様々な言い訳を廃してもっと単純に述べるとするならば『気恥ずかしかった』のである。いつかいつかと心積もりを済ませていたつもりだったが、赤崎が物の見事にそれをぶち壊しにした。

 やはり赤崎は私の敵である。

 最早天敵と言っても過言ではない。

 どうせ今だってニヤニヤしているのだ。私は分かっているぞ。


「……私にも、俺って言って下さいよ」


「そ、それは……いや、ホントに済まなかったと、思っている」


 私の苦し紛れに述べられた謝罪をジト目で受け止めた水本さんは、暫くの間訴えるような目付きかつ、私を睨むでも睨まないでもない表情でじっと見ていた。


「…………ズルい」


 たった三文字の、恐らくは嫉妬からきたと思われる水本さんの言葉が私の心臓をチクチクつつき、私はどうしようもなく俯いているしかなかった。後で覚えていろよ、赤崎。しかしそれと同時に、タメ口で率直に不満を口にする彼女がとても新鮮にも見えた。たった三文字に申し訳ないと思う気持ちと共に、ほんの少しドキリとしてしまったのも事実である。


「――時間切れだよ、中島くん。今回は、僕の勝ちだね」


「あっ……おい」


 私と水本さんのやり取りを興味深そうに見物していた赤崎は、カップ麺を調理する際に三分待った人の如く、我々にタイムアップを言い渡した。


「何だい? あまりこの店を自由に使える時間は残っていないんだ、悠長に構えてはいられない。いくら普段君とのミーティング費用を二人で折半しているからって、僕も無限にお金を持っているわけじゃない」


「……使う? まさかお前、この店を貸し切って!?」


「それにすら気付いていなかったのか、やれやれ君には幻滅だね。もう少し頑張りたまえよ、ワトソンくん」


 赤崎がおどけた調子で私をワトソンと呼んだ時、先程赤崎に推理してみろと言われたのを脳内でホームズの様だと例えたことがフラッシュバックし、私は顔を意図してしかめた。しかし赤崎は私に背を向け、丁度此方を見ていない。一々ムカつく野郎である。二年前からちっとも変わらない。

 彼は自ら貸し切ったレストランを我が物顔で闊歩し、フロアの中央まで来て、ピタリと停止した。水本さんと一緒に身構えていると、赤崎は何やら息を吐き出している――そして、大きく空気を吸い込んだ。


「さあ者共――位置に着け! 時は来た! 場は整った! 満を持して、我らが親友中島の、成就された恋路を盛大に祝い尽くすべし!!」


「「「――おおーっ!!」」」


 赤崎が発したその号令は、これまでに聞いたことのない程の声量であった。どんな時も、いつ彼をミーティングに呼び出しても、彼の声は常に落ち着きを孕んでいた――これから未来に起きる全ての災厄を丸ごと暗記している様に、振る舞いがどこか達観していたのだ。そんなことはない、赤崎は何処にでもいるような普通の青年なのだと、そう解っていても。

 店の中を人が、人が、人が埋め尽くしている。

 さっきまで水本さんが付近に立っていた入り口から裕に百を越える人数が突入してきた。中で優雅に食事を楽しんでいたはずの客がカツラを外し眼鏡を捨て口髭を取って立ち上がると、突入してきた者達を合わせてその総数は二百人近くにはなるのだろう――今まで何故気付かなかったのだろうか。

 私は彼ら彼女らの友人失格である。

 澤田はその丸刈りにされた頭から見て分かる様に野球サークルの主将で、巻口は文章を書くのが好きで何度か賞も受賞することからアダ名は文豪、神山はハイキングマニアなことが祟って年中筋肉痛、山岸は寝坊が非常に多い厄介者、厚木は好物がカニ味噌、新ノ口は心配性、原は一人っ子、只野は笑顔が良い、鈴木は強欲、西川は、植田先輩は、石村は、湊は、桃山は、武内は、野口は、沼尻は、江藤は、小岩井は、熊田先輩は、平田は、雪谷は、菅井は、西本は、若林先輩は、森は、室伏は、小泉は、吉村は、佐々木は、相崎は、辻本は、千賀先輩は、鍵谷は、梶原は、浅井は――木村は、食欲が凄まじい。

 そして、水本さんは彼女である。

 これほどの数の人間がいるのだ、この中の誰かが水本さんの連絡先を得るため赤崎に奔走させられていてもおかしくはない。もしそうだとすれば赤崎はとんだ鬼だが。

 ともかく、赤崎は波乱の大学生活で私が作った友人の全員を呼び出した。何のためにと推理してみれば、今度はすぐに答が出た。赤崎の思惑は先の号令通りなのだ。

 別に、粋なことだとは思わない。

 しかし少ないとも驚かされたことは間違いなかった。

 私が思うほど悪事でも悪巧みでもなかった。

 それだけは確かなのである。


「――あっ」


 私が開いた口を塞げずにいると、悪酔いから回復したらしい木村が水本さんの手を取って彼女をフロアの奥側まで連行してしまった。それは決して達者なエスコートとは呼べなかったが、私は圧倒的な状況に何も言い出せず、ただ呆然としているしかなかった。赤崎の作戦は、極めて順調である。

 正体を現した二百人余りの友人たちは店の中でも一際目立つ、ステージの様なスペースを中心に集合していた。普段は音楽を演奏したり歌を歌ったりする場所なのであろう――そこへ木村によって水本さんが連れてこられると、彼女を囲んでわっと場が沸き立つ。


「――ウェイター、例のものを」


 まだ一人ステージとは離れた位置、つまり私の側にいた赤崎が店員にキザな合図を送ると、それは銀色の台車に乗って速やかに厨房から運ばれてきた。


「……これは、ケーキか?」


「祝いの品だよ。僕からのプレゼント。餞別と言っても良いかな」


「先程から気になっていたが、祝いとは何のことだ。なあ、おい、赤崎」


「――水本さんは、僕とは全くの無関係だ。君と出会い、思い出を積み重ね、恋仲にまでなったのは、君ら自身が掴み取った正真正銘の運命なのさ。素晴らしいことだね……それを、僕は祝いたかっただけだよ」


「――――」


 そのケーキは、素人目に見てもすぐに分かるほど、それはそれは豪華なものだった。正にウェディングケーキかと思うほどの体積を誇らしげに照明に当てるその天面には火の灯った蝋燭が何本も刺さっていて、外壁に塗り込まれた生クリームには一点の色ムラも見られない。トッピングに使用されている色とりどりのフルーツも相まって、周囲の空間に絶大な存在感を放っていた。

 何より私を驚愕させたのは――、


「赤崎……お前、お前、お前ぇ……」


「ふふ。驚いてくれたかな、中島くん?」


 ――ケーキのど真ん中に乗ったチョコプレートにでかでか『中島くんと水本さん お付き合いおめでとう!! Since 2021.6.6』と、面白いほどピンポイントなメッセージが綴られていたことである。


「全部解って聞いてたのか赤崎ぃ――っ!!」


「あはははははははは!! そうそうそれそれ、中島くんのその表情が見たかったんだよ! 企画した甲斐があった!」


「貴様ぁ!!」


 要するに赤崎は、私と水本さんとの間にどういった出来事が起こったのかを知っていたのだ。あの雨の日、確かに私は万全を期すよう木村を護衛に付けた。何を隠そう、それは赤崎に事の次第を掴まれないための策である。その時点で木村が裏切っていたとは考えにくい……時系列的に考えても、木村が私から離れて赤崎側に付いたのはもう少し後のことだろう。よって赤崎はあの日、木村の監視を掻い潜り、独力で完全な尾行を達成したというわけだ。私の不器用なお返事からそれを受けた水本さんの想像を絶するはしゃぎっぷりまで全部、見られていた――想像するだけで戦慄を隠せないが、こんな状況になってしまっているのだから、悔しいが納得するしかなかった。

 私をつけて恋人が出来たという情報を入手した赤崎は、私を羞恥で、所謂《恥ずか死》させるために友人一同を貸し切ったレストランに集合させ、その計画の核として水本さんにもコンタクトを取った。先程までのらしくない態度は、今になって解る、どう考えても赤崎の個人的な余興である。残念ながら趣味が良いとは言えない。


「捕まえられるものなら捕まえてみなよ!」


 ホームズのお次はルパンか!

 私が赤崎に掴みかかろうとすると彼はひょいと身を翻して店内を逃げ回り始めた。それは子供が行う鬼ごっこを更に幼稚にしたかの様な、低レベルかつ大人げない児戯である。テーブルの合間を縫い、八の字型の逃走経路で赤崎は高笑いを押し隠すこともせずに逃げる。私は八の字どころか遺伝子を構成する螺旋構造の形をなぞるように赤崎を追う。水本さんを囲む友人たちは「良いぞ良いぞー!」「捕まえろー!」等と安全な場所から無責任な野次を言いたい放題である。


「見せ物ではないぞお前らぁ!」


 赤崎を追いかける中ふと気になって水本さんを見ると、彼女は焦ったように、心配するように、その海色の瞳で私の足取りを追跡していた。

 その時、私はカーペットの床に転がったワインボトルに足を捕られて盛大にすっ転んだ。剥き出しの地面に転がった訳ではないので、擦り剥いていない。血も出ていない。しかし、確かにこたえる、じんわりとした痛みがあった。その痛みは熱――真夏に燃える太陽を思わせる熱となって私の全身を包み込む。


「何やってるんですか中島さん! お店がぐちゃぐちゃになってます! 早く赤崎さんを止めてください!」


「――止めるさ。止めるとも……赤崎は、止めなきゃダメだ。それはずっと解ってる。ずっと気付いてる……」


「……中島さん?」


 今赤崎を追いかけるのを止めてしまえば、そのまま赤崎はどこか遠い所に行ってしまいそうで――怖かったのだ。外面でいくら赤崎に憤怒していようと、その時の私の心はみっともなく泣いていた。悟っていたのだ、察していたのだ、この祝賀会が終われば、彼はきっと今後二度と私に関わらないつもりなのだと。

 それでも、しかし、赤崎は止まらない。

 私が本心から彼を止めようとしなかったからである。

 心のどこかにある本心は詰まらない意地を張って、彼との戦いを終結させることを拒んだ。

 ワインボトルがまた一つフロアに転がる。

 また私は転び、熱が痛みを脳髄に訴える。

 水本さんの気配が、すぐ側まで近付いてくる。


「――よくぞ招待に応じてくれた、中島くん。改めて歓迎の意を示そう。ようこそ」


 気が付けばとうとう私は赤崎を捕まえることが出来ず、水本さんと我が大学友人第一号~二百号程度の待つステージの中心にまで誘導されていた。

 彼ら彼女らは左右に分かれ、まるで花道のように私の進む道を示していた。奥には、華麗な姿でシャンデリアの光を浴びる水本さんがただ一人、佇んでいる。その少し斜め後ろに構える赤崎は手を大仰に広げてみせた――ケーキが、私と水本さんを結ぶ線分の丁度真ん中に設置される。『中島くんと水本さん お付き合いおめでとう!! Since 2021.6.6』。

 赤崎は静かな足取りで私の元まで歩いてくると、私に包丁を差し出した。勢いに気圧されてやむを得ず受け取ると、それはパン切り包丁とでもいうのだろうか、とても長く、刀身がギザギザとしていた。


「これは何だ。今からラスクでも作るのか」


 解っていても、気付いていても、赤崎に尋ねずにはいられなかった。


「ケーキ用の包丁さ。水本さんと二人で持って、ゆっくり入刀するんだ。そう、初めての共同作業というやつだよ。あ、下手すると崩れるから気を付けてね」


「お前のやってる事は徹頭徹尾滅茶苦茶だ……」


「こんなの……まるで、結婚式……」


 私は予想通りの答に首を振って呆れ返り、水本さんは小さく、しかし確かな緊張を携えて呟いた。赤崎はニヤニヤと笑う。友人たちは歓喜にざわめき、私や水本さんの名を叫ぶ者もいる。特に私を呼ぶ声が大きい――赤崎を通じて繋がった者たちは、百パーセント良いヤツである。私も愛されたものだと、ちょっぴり思う。

 改めてケーキを見れば、やはりそれはとてもではないがたかだか数千円で購入出来るような代物には見えなかった。この店のレンタル費を合わせて考えれば赤崎にとって結構な痛手だったはずである。どうしてそこまで――と、考えれば考えるほど、嫌な予感が私を蝕んだ。『人間失格』を読み終えた時よりも、ずっとずっと暗い気持ちになった。頭の中で不吉な鐘が鳴る。ウェディングベルなんてとんでもない。脳内でこだまするそれは、とても凄惨な音色だった。


「――やりま、しょう。中島さん」


「――――」


 ケーキの前を通り過ぎて私の正面に立った水本さんは、私の握る長細い包丁を見つめていた。

 鐘が鳴り止む。彼女の声が聞こえる。


「このまま突っ立っていても埒が明きません。赤崎さんやあの方々を大人しくさせるには、私と、あなたが二人でケーキを切れば良いだけの話、なのでしょう。ええ、そう、そうなのです……な、なな、中島さんも、そうは、そうは思いませんかっ!?」


「え!? あ、ああ、そうだな……」


 水本さんは、隠しきれない緊張を晒け出して私にそう言った。水本さんだってこんな、まるで結婚式紛いのサプライズをされるとは夢にも思わなかったろう。これは私に対しての羞恥攻めであると同時に、水本さんへの試練でもあるのだ。赤崎はそれを狙ったに違いない――私を堕とした人物の、私への愛が如何なるものか、見せてみろ。とでも言ったところか。

 私が水本さんの提案に押されつつも承諾すると、場の雰囲気は更に熱を帯びた。それは非常に耳障りな声援であった。お前らが水本さんの何を知っているというのか。どの面を下げて喚いているのか。赤崎に仕向けられた以外に、お前らがここに集まる理由すら本来はなかったのだろう。


「理由ならあるぞぉ!?」

「そうだそうだ! 俺と、中島が、友達だからさ!」

「友達の恋を応援して何が悪いんだ! ああ!? 言ってみろよー!」

「全く同感だわ! 何よ、赤崎に誘われなかったら私ら全員ここには来なかったって言いたいの!?」

「あり得んな! 俺なんかチャッピーの世話すっぽかしても来たね! 絶対だ!」

「ていうかこんなパーティーあるんならお前から告知しとけよなー!」

「飲み食いタダとか赤崎様々だよなぁ!」

「中島、赤崎が友達で良かったよね! 水本さんとの関係、ここまで祝ってくれるんだもの!」

「まだ解ってなかったのか!? 馬鹿につける薬はねぇな!」

「中島ぁー、一回でも赤崎くんにお礼言ったのー?」

「ありがとうって、言わなきゃ伝わらんぞ! てか、それ赤崎にも言えるな!」

「そうだね、赤崎、難しいこと散々言ってたけど結局何が言いたいわけー?」

「ていうか、もう、お前らキスしろ!!」

「え、お前唐突だなぁ!? よく本人らの前で!」

「でも、ウチ、見たい。キスシーン。見せろ」

「私もサンセー!」

「俺にもキス見せろ!!」

「水本さん、頑張れー!」

「中島、男気見せろ! 男だろ! 女には格好つけろ!」

「キースッ! はいキースッ!」

「キースッ! キースッ!」


 私は膨れ上がる友人たちの語気に当てられ、頭を抱える他なかった。どんどん勢力の増すキスコールは尚も私と水本さんに投げつけられ、留まるところを知らない。もう拍手が合奏に加わっている。


「……どう、しましょう」


 水本さんが、不安そうな目付きで私を見上げた。

 そのまま視線をスライドさせて赤崎を見ると、彼はコールには参加せず、例の微笑で状況を静観していた。

 許せん。

 私だけに飽きたらず、何も知らない、無垢なる水本さんすら己の作戦の為に利用するとは――もう、知るか。やってやる。お前ら纏めて、心の底から満足させてやる。とっととこの馬鹿げた祝賀会を終わらせて、赤崎にみっちり説教してやらねばなるまい。そうと決まれば、私に躊躇う気持ちなど皆無だった。


「キスしよう、水本さん」


「え、で、でも」


「俺と、キスしてくれ。夏海」


 その一言が熱くなった空間に放り込まれると、店内は深夜の町中の様に、一瞬で静まった。赤崎が微笑を止め、僅かに驚いた表情を浮かべる。

 私は水本さんを抱き寄せ、彼女は「きゃっ」と、実に少女らしい悲鳴モドキをあげた――自分の言動に、一点の迷いも無かった。

 これから赤崎が何処に行こうとも、何処にも行かずとも、私のこれほど勇気ある選択を見届けさえすれば、私に対する悪行も少しは減るだろう。何より赤崎は安心していられる――俺だって、やる時はやるんだ。そんな人間に、変われたんだ。お前が仕組んだんじゃない、私自身が掴み取った運命の恋が私を良い意味で滅茶苦茶にした。友人が増えることなど、一切憂慮に値しない。

 赤崎は確かに私に勝利した。

 しかし、最後に勝利したのは私である。

 これで一勝一敗万分け――私と赤崎の、人生を賭けたこの戦いは永久にドローで決着だ。


「――わかり、ました」


「愛してる、夏海」


「……私もです。愛してます。あ、ちょっと待ってくださ、えと、まだわた、わたひ、心のじゅん――っ」


 我が友人たちはその時、一際大きな喝采をあげた。

 私は水本さんとの初めての『恋人らしいこと』を、詳細に描写するつもりは毛頭ない。何故なら、この大切な記憶は私の中だけで大事に大事に、仕舞っておきたいからである。埃を被って、いつか朽ちようとも、それでも私は、誰にもこの事を語りたくはない。


「――おめでとう。君のことは、きっと忘れない」


 誰かが切なげに、掠れるような冬の息に乗せて、そう呟いた気がした。それも多分、本当に気のせいに過ぎないのだとは思うけれど。

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