ハッピーバレンタイン!
「なあ、いい加減帰ろうぜ。いつまでもそうやって待っていたって、仕方ないだろ」
窓から温かい夕陽が教室に差すなか、僕は机に向かってじっと座っているクラスメイトの将斗にいった。しかし将斗は、「いやだ」といって、目的を果たすまでは一歩もここから離れないぞという意思を貫いているようだった。
「ここで帰ったら、今までずっとこうしていたのが無駄になっちゃうだろ、悠太」
「だからってこれ以上時間を無駄にすることなんかないだろ。もう帰ろう、この期に及んで女子からバレンタインチョコが貰えるなんて期待をしたって、しょうがないじゃないか」
今日は二月の十四日。毎年おなじみのバレンタインデーの日だ。
とはいえ、僕のクラスの中で女子からチョコを貰っている男は殆どいなかった。たとえ貰ったやつがいたとしても、そいつが手にしたのは付き合っている彼女からの本命チョコで、そういうやつ以外は義理チョコでさえもまともにいただくことはできなかった。
いまどきのバレンタインデーは、女子と女子の間で交わされる友チョコだけで完結している。つくづく男には夢のない時代だよなあ、と思うばかりだ。
そんななかで夢を捨てきれなかった男がいた。それが将斗だ。
「今日は中学校生活最後のバレンタインデーだ。本命チョコなんて欲張らないから、せめて思い出に義理チョコが欲しい。一人じゃ寂しいから、おまえも一緒に教室に残って俺たちにチョコをくれる女子を待ってくれ」
ホームルームのあと、将斗にしつこく頼まれた僕はしぶしぶ彼の愚行に付き合ってやることにした。
そしてホームルームが終わってから三十分ほど経った。外の運動場から、「いっちにー、いっちにー」と運動部員の掛け声が聞こえてくる。しかし将斗にチョコを渡す女子は一向に現れそうになかった。
「なあ、将斗。いま思ったことなんだけどさ」
「何だよ」
「仮にだ。仮に、僕たちに義理チョコを渡すような女子が居たとしたら、そういう子は朝、学校に来た時にみんなに渡してくれていたんじゃないか?」
「……いるかもしれないじゃないか、恥ずかしくて俺に義理チョコをなかなか渡せない女子が!」
馬鹿じゃないのか、と僕は将斗には聞こえない声で小さく呟いた。
「くそっ、こんなことなら、もっと女子と仲良くなるべきだったな」
「いまさら何いったって遅いよ」
「俺も悠太のように吹奏楽部に入っておくべきだったな」
「どうして」
「だって男女混合で、加えて女子のほうが人数多いじゃないか。全く、男しかいない剣道部に入るんじゃなかった」
「吹奏楽部に入ったところで、部の女子とそういう仲になれるなんて保証はないだろ。そりゃあ、女友達はいたし、去年のバレンタインデーは女子部員から友チョコのおこぼれを貰ったりしたけどさ」
「貰っているじゃないか、チョコ」
「だから、友チョコだっての! ああ、もう、付き合ってられない」
「待て、帰るのか」
鞄を持った僕に向かって、将斗はいった。
「待っていれば、チョコをくれる女子が出てくるかもしれないじゃないか」
「別に僕はチョコなんていらないし、それよりいまは高校入試のほうがよっぽど大切だ。先に帰るからな」
そういって帰ろうとする僕に将斗が後ろから声を投げかけてきたが、僕は無視してそのまま教室から出ていった。
将斗にはああいったけど、僕だってバレンタインチョコがいらないってわけじゃない。当然、くれたら嬉しい。だからって将斗のようなみっともない真似をする気にはなれなかった。いるはずのない送り主をひたすら待ち続けるなんて、あまりにもみじめじゃないか。
だけれど、将斗と一緒に教室にいたあの三十分間に、僕も心のどこかで、バレンタインチョコを渡してくれる女子を待っていたのかもしれない。
たぶん、いや、絶対そんな子が現れるわけがないけれど、もしかしたら──
人のこといえないな、と僕は自分に向かってふっと笑った。
校舎の階段を下りて昇降口まで来て、下駄箱からスニーカーを出して帰ろうとした。その時だった。
「あの、悠太先輩ですよね?」
帰ろうとする僕に、誰かが声をかけてきた。振り返ると、そこには小柄な女子が立っていた。彼女の顔を見て、どうも見覚えのある子だなと思ったとき、「あっ」と声が出た。
「吹奏楽部の小原さん? たしか二年で、フルート担当の」
「そうです、覚えててくれたんですか」
「まあね。面倒見てあげた思い出があるから」
「あの節は、ほんとうにお世話になりましたっ」
部活にいたときのように、小原さんはぶんっ、とハンマーを振り下ろすように元気よく頭を下げた。
「どうしたの、いまは部活やってる時間なんじゃない?」
「ええと、抜け出しちゃいました」
「抜け出した? 先生にきつく叱られるぜ」
「それはそうなんですけど、先輩に渡したいものがあって……はいっ」
すると小原さんは僕に小さい袋を差し出した。
「これは?」
「開けてみてください。それじゃ私はこれで!」
「えっ、ちょっと、ねえ!」
小原さんは照れ笑いを浮かべると、僕が呼び止める声も聞かずに、走って昇降口から走り去ってしまった。
校舎から出ると、僕は小原さんから渡された、赤と黒のチェック柄の袋を慎重に開けた。すると中には妙に歪んだ形をしたチョコクッキーが何枚か入ったポリ袋と、一枚のメモ用紙が入っていた。
「……これは」
メモ用紙には”ハッピーバレンタイン! クッキー作ったので食べてください。心を込めたので、おいしいはずですすよ“というメッセージとともに、ラインのIDが添えてあった。
「まいったな」
渡されたクッキーとメモ用紙を見て、僕は苦笑を浮かべた。知らない間に後輩から好意を寄せられていたとは。僕としたことが、まったく気が付かなかった。
制服のポケットにバレンタインのプレゼントを突っ込むと、僕は「はあ」とため息をついて、教室の窓を見上げた。
この物語はフィクションです。