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化物の狂気

 階段の下に当たりをつけた少女は、


 「そっちにいるんですか?」


 虚空に呼びかけながら段差を降りて行った。コツ、コツと革靴が床を叩く音が遠ざかっていくのを聞いてそっと胸を撫で下ろす。


 「……行ったか?」


 消火器の粉での目眩ましに乗じて身を隠した近くの病室から廊下の様子を覗いていた俺は、僅かに開いていた戸を閉じて背中を預ける。何気なく投げた視線の先に、ベッドの上で眠る患者の姿を見つけた。希望と言うには随分と心許ない感情をいだきながらボロボロの身体を引き摺って近寄る。


 「あの……すみません」


 寝具に横たわるその姿を揺さぶってみるが、やはりと言うべきか、目を覚ます様子はない。だが、それでもその胸が呼吸で上下に動いてるのは確認できた。どうやらただ眠っているだけのようだ。


 「って言ってる場合じゃねぇか」


 今は関係の無い他人よりもまずは自分の身を案じなければいけない。頼りに出来る物が無いと分かった以上、ここに長居は無用だ。

 付近にあの少女がいないことを確認して病室から身体を引っ張り出す。

 彼女が下階へ注意を向けている以上、下に行くのは自殺行為だ。どうにかして別にこの状況から脱する道を見つけ出さないと。震える心と体に喝を入れて、殆ど気合だけで、最早脱出のかせとなった肉体を持ち上げた。


  *


 逃げた少年を追って病棟の4階を歩いていた少女は、中々対象を見つける事が出来ない事に首を傾げていた。


 「可怪おかしいな、そんなに遠くには行けない筈だけど……」


 フロアを大方見回って先程降りてきた階段まで戻ってきていた彼女は、更に下の階を見下ろし、もう一度上の階を見上げた。

 もしかして、と少女は呟いて5階へと足を向ける。

 階段を登り切った先で少女は視界に捉えた。


 「――まったく、やってくれましたね」


 近くの病室からポツポツと続く、赤い血の跡を。



 「みつけた」



 薄暗い病院の廊下に少女の歪んだ唇が浮かんだ。


  *


 「…くそ、行き止まりか」


 命を狙う少女から逃れる活路を求めて身体を動かしていた俺は、小さく毒吐どくづく。

 何も下の階に降りる階段が1フロアに1つしか無いと言うことは無いだろう、と少女が降りたものからなるべく遠くの階段を見つけようと廊下を這っていた訳だが、何しろ重症人の俺はこの一日で数えるほどしか自分の病室を出ていない。加えて、明かりの落ちた病院内は昼間とはまるで別の空間のようだ。見事に道に迷った俺は、廊下の突き当りに行く手を阻まれていた。

 仕方ないので引き返そうかと考えていたところで、



 カツン、と。



 床を叩く硬い音が静かな建物内をこだまする。これは、革靴の音。その足跡は迷いなくこちらに近づいてきているように聞こえる。

 そんな……そんなはずは。

 焦る心とは裏腹に、一定のリズムで床を打つ音は小気味よく刻まれ続ける。


 「ど……こか」


 どこかに、隠れないと。

 そんな焦燥に背中を押されるように、俺は目についた掃除用具入れに自らの身体を押し込む。先客の箒やら塵取やらが全身のあちらこちらに突き刺さるが、今ここで叫び声を上げれば一貫の終わりだ。光の入らない暗い箱の中でグッと声を押し殺し、呼吸を押し鎮める。


 ――――コツ、コツ、コツ――――。


 恐怖は着実に、そして確実に近づいてくる。その距離は今やその体温を――いや、冷たさを――肌身に感じるまでに迫る。

 どうかこのまま通り過ぎてくれ……!

 切なる願いは聞き届けられることはなく、目と鼻の先で絶望の呼び声が響く。


 「やっと、追いつきましたよ」


 脅しや当てずっぽうの類ではない。明らかにこちらを認知し、その息の根を手中に収めている。目の前の闇と薄い鉄の扉さえも意味を感じさせない程の物理的な圧力をも帯びた気配。

 それが、スッと弱くなる。

 一歩、二歩と床を打つ革靴の音が遠ざかる。

 意図せずに止まっていた呼吸をゆっくりと吐き出そうとした次の瞬間、



 ダンッ!!



 空間すら押し潰さんばかりの轟音とほぼ同時に横腹に感じる熱。いつの間にか、真っ暗だった密室に光が入り込んでいる。それは俺の横腹辺り。そこに空いた穴から、小さな刃と共に。


 「が……あ。あ、あ、あ……アアアアアアアアアアああああああああああああああああッ!?」


 薄っぺらい鉄板を貫いたナイフが俺の横腹をその鋭利な刀身がえぐっている。遅れて『痛み』と認知された熱に肺の中の空気ともどもありったけの叫び声が口から溢れ出した。外側から引き抜かれた凶器に身体を引っ張られるように掃除用具入れの扉に寄りかかり、体重がかかったことで開いた鉄の箱から吐き出される。少しでも刺客から逃れようと足を前に踏み出そうとするが、全身にまとった苦痛に脚が絡み反対側の壁に背中を叩きつけられる形で倒れる。

 無造作に投げた視線の延長上では赤い液体のしたたる刃物を手に少女がにじり寄るのが見えた。息も絶え絶えの獲物を前にして、少女はそれでも口元に笑みをたたえている。


 「ば、化物……ッ」


 口を衝いて漏れ出した単語に、徐々に距離を詰めながら一層可笑しそうに口元を歪める。


 「フフッ、そうですね……化物。『死のう』なんて決断が出来てしまった時点で、いえ、もしかしたらもっと前から……私の心はもうとっくに普通じゃ無いんですよ」


 そう述べた少女の何とも表現し難い表情に言葉が漏れ出す。


 「どう、して」


 ここまで追い込まれて尚も言葉を発する俺に彼女は微かに眉をひそめる。


 「どうして、お前はここまでする……!?」


 死が間近に迫って、その感覚を身を以て知って。余計に彼女の事がわからなくなった。

 痛いのは嫌だ。死ぬのは怖い。生きていたい。

 当然だ。それは生き物としての当然の本能なんだ。それなのに、目の前の少女はその本能に討ちって線路の上に身を投じた。それを邪魔されて再び死の恐怖に縛られて未だ、死を望む少女。

 どうしても、俺には彼女が理解できなかった。

 理解不能の対象に怯え叫ぶ俺を不憫に思ったのか、少女は立ち止まり口を開く。


 「あなたは、楽しそうな人や幸せそうな人を見て『死ねばいいのに』って思ったこと、ありますか?」


 唐突な問いかけに答えられないでいると、


 「私はありますよ。可怪しいですか?可怪しいですよね?わかってます、私は普通じゃない。それを自覚したときに思ったんです。『こんな奴は生きているべきじゃない』……って」


 何かのたがが外れたように言葉が溢れ出してくる。


 「昔はこんなんじゃ無かったんですよ?辛いことには胸が痛んで、苦しいことがあれば泣きもしました。自分の不幸を呪って、いつかは幸せになれる事を夢見ていた。周りにいる人達が全部敵に思えて、誰にも頼れなくて。訳もなく突然涙が溢れてくるようになったときは、私の心は壊れちゃったのかと思いました」


 だけど、と少女は一歩前に足を動かす。遠ざかっていた冷たい死が一気に肉迫する。


 「それは間違ってました。涙が流れる内はまだ正常だったんですよ。涙も枯れて、何も感じなくなって……やっと気付きました。『幸せ』なんて言葉は私以外のためにある言葉だって。この世界は私のためにあるものじゃないんだって。私は、ここにいるべきじゃないんだって」


 化物は決定的な一歩を踏み出す。


 「……だから」


 しっかりと両の手で握った凶器を振り上げて、言葉と共に振り下ろす。



 「私は私を殺すことにしたんです」



 十字に重ねた両腕で少女の腕を受け止めると、激痛が走る。壁や床に押し付けられた身体から軋む音すら聞こえるようだ。叫び出したいのを飲み込んで奥歯を噛みしめる。眼前の刃が俺を噛み砕かんとばかりにカチカチと震えている。


 「あなたも、協力してくださいよ『化物退治』に」


 あくまで平坦に、冷淡に、言葉が並べられる。


 「それが私の邪魔をした、あなたの責任です」


 俺は今更になって理解した。自分の命を狙うものの正体を。

 それはただ、生きることの辛さから逃げ出そうとした弱い少女ではない。……紛れもない、化物なのだと。


 「――――分かったよ」


 観念したように呟いた俺の声に、伸し掛かる重圧が小さくなる。

 こちらの次の発言を待つような少女の瞳をまっすぐに睨みつけて、噛みしめるように言葉を発する。



 「責任、取ってやるよ」



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