夜中の来客
困惑、不安、恐怖。
様々な感情が渦巻いて眠くなる所では無かったが、投与された薬剤の副作用もあってかいつの間にか微睡みの底に沈んでいた俺の頬を生暖かい風が撫でる。ゆっくりと瞼を持ち上げると、風で舞い上がる白いカーテンが目に入った。そして、その風が収まり視界の大半を覆っていた布が所定の位置へと帰ったその先。
開けられた窓から外の景色を臨む制服姿があった。
「ッ――――!」
釘付けになっていたこちらの視線に気付いた彼女は振り向いて笑う。
「こんばんは」
明かりの落ちた病室で、月明かりを反射した瞳が暗闇に妖しく光る。
……これは、悪い夢か?
少女は俺の反応など意に介した様子もなく言葉を続ける。
「約束通り来ましたよ?」
「どうやって……ッ?」
言いたいことは沢山あったが、何とか口に出来たのはそんな台詞だけだった。
疑問に対して、
「窓からですけど」
先程まで自分が体を預けていた物を指差して臆面もなく告げる。
「な……!?」
自分の入れられている部屋が何階にあるのかは知らないが、窓からの景色から察するに少なくとも1階や2階ではないはずだ。
余程俺のリアクションが面白かったのか、お腹を抱えて笑う少女。笑いすぎて目の端に浮かんだ涙を人差し指で拭いながら弁明する。
「冗談ですよ、冗談。だってここ、5階ですよ?」
この状況で冗談を言える精神が理解できない。会話のノリに付いていけない俺は「じゃあ……?」と中途半端に質問を返すのが関の山だった。
「普通に入り口から入ってきたんですよ」
「こんな時間に?」
正確な時間は把握しかねるが、どう控えめに見ても今は真夜中だ。簡単に病室に入れてもらえるとは思えない。
返ってきたのは、会話の繋がりを読み辛い答えだった。
「看護師さんたちって、結構甘いもの好きみたいですね」
俺が眉を潜めたのがどこまで伝わったかは不明だが、彼女は言葉を補足する。
「私、ナースステーションの人たちにお菓子を差し上げたんです。そしたら、とっても喜んでくれて」
「まさか……!」
「はい。少し、混ぜさせて頂きました」
言いながら少女が左のポケットから取り出したのは茶色の小瓶。ナースステーションへの差し入れに毒物を混入させた、ということだろうか。
包帯の下を嫌な汗が伝うのを感じる。
「心配しなくても大丈夫ですよ。私、こういう薬使ったのは初めてなので良く分かりませんけど、眠っているだけの筈です」
「なんでそんな薬持ってんだよ!?」
思わず声を荒らげた俺に、何でも無いように小首を傾げて返答する。
「嫌だな、ここが何処だか忘れちゃったんですか?」
つまり、病院内から薬品を盗み出したという訳か。
……こいつは、本気でヤバい……!
一連の彼女の行動は俺にそう確信させるのに充分以上だった。殆ど反射的に枕元の子機を手に取ろうとするが、包帯の巻きつけられた状態では上手く行かない。空虚な音を立てて機械が床を転がるのを少女は無感情な笑顔で見つめて、
「だから、どっちにしても無駄ですって。誰も来ませんよ」
その様子を鑑みる限り、看護師さんたちに意識が無いというのはハッタリでは無いらしい。
焦りを募らせるばかりのこちらを他所に、少女はスカートの右ポケットから折り畳みのナイフを取り出して、手首のスナップでその刀身を露わにさせる。
「さあ、覚悟は決まりましたか?」
少女が軽く宙を泳がせた刃が、暗い空間に月色の弧を描いた。
柔らかな笑顔と共に立ち上がる明確な殺意。一気に喉が干上がる。
「待……ッ!?」
「待ちません」
振り下ろされた凶器が、ギリギリで体を捩った俺の顔のすぐ横に突き刺さる。枕に詰められていた白い羽根が漆黒の中に舞い上がる。
「ほらほら。死にたくなかったら、頑張って私を殺してくださいね?」
暗闇に浮かぶ眼光から逃れるように、痛む体を無理矢理に引き摺ってベッドから転がり落ちる。
「が、ああああああ……!?」
床に打ち付けられた四肢がバラバラになるような激痛が全身を支配する。それでも止まる訳には行かない。ここで逃げなければ、死ぬ。のたうつようにしながら病室の出口を目指す。
「駄目ですよ?逃げないでください」
羽毛を撒き散らしながらナイフを抜いた少女は、俺から視線を逸らさずにベッドを乗り越え追ってくる。
「これは、殺すか殺されるか、どちからかなんです。それ以外の選択肢は存在しないんですよ」
軋む身体に鞭を打ちながら膝立ちになって引き戸を押しのける。倒れ込むように部屋の外に出ると、目一杯に声を張り上げる。
「だ、誰か……!!」
しかし少女は悠然と歩み寄りながら告げる。
「残念ですけど、誰にも聞こえないと思いますよ?」
迫る狂気を遠ざけるように叫ぶ。
「助けて……助けてくれ!!」
「あなたの部屋に来る前に、他の患者さんにもよく眠れるお薬を射って来ましたから」
絶望に押し潰されそうになりつつも、言うことを聞かない肉体を必死に動かす。床の上に投げ出した腕が、蹴り出した脚が、砕け散りそうだ。
「く……そ……ッ」
暗がりの病室から少女が姿を現す。非常灯の明かりでボンヤリと明るい廊下に、その微笑が映し出される。
「ねぇ、いい加減諦めましょうよ。じゃないと……」
憐れむように、慈しむように見下ろす少女は物静かに言う。
「本当に死んじゃいますよ?」
なんで……何でこんな事になってんだよ……!?俺はただ、死のうとしてる女の子を助けようとしただけだろ!?それがどうして、命を狙われないといけないんだよっ!?俺が助かるには、もう、こいつを殺すしか無いのかよ……ッ?
両手で大きく振りかぶって、緩慢に振り下ろされた刃を横に転がって回避する。勢い余って壁に衝突し、体中を襲う意識を削ぐような痛みを抑え込んで、それでも前へ。
「ずいぶん頑張りますね」
この先まで逃げ切れれば、他のフロアに繋がる階段がある。だからどうしたと問われればそれまでだが、今はその僅かな希望に縋る外にこの体を動かす方法がない。
廊下の床を引っ掻いた獲物を持ち上げながら、貼り付けた微笑みで俺を睨めつける。
「言っておきますけど、私。そんなに優しくは無いんですよ?」
言い放って、彼女は容赦なく手にした凶器を這いつくばる獲物の背中へ突き立てんとする。
「ッ…………!」
咄嗟に仰向けになって受け止めた右腕に、包帯を貫いて刃物が刺さる。
「あああああああああああああああああッ!?」
痛い。痛い痛い痛い痛い!!
全身を苛んでいる苦痛とは違う生の痛み。冷たい死の感覚。
胸の内から衝動的に湧き上がる拒絶に従うまま、ナイフの食い込んだ腕にもう片方を重ねて両手で押し返す。一瞬驚いたような表情を浮かべた少女はバランスを崩して尻もちを着く。その隙になるべく離れるために四肢を蠢かせる。
無我夢中で進んでやっと右手に階段が見えたところで、やはり追いつかれる。
当たり前だ。こっちは初めから満身創痍でまともに動くことすらままならないのだから。
「本気で逃げ切れると思ってるんですか?」
血も凍るほど冷淡な声。このまま階段へ逃れても、待っているのは最悪の結末だけだ。
何か、手は……!?
視線を投げた廊下の端に一つの可能性を見つける。力を振り絞って上体を起こし、据え付けられた消火器を手に取る。少女が迫るよりも早く、抱えるように手繰り寄せたボンベから黄色い線を咥えて抜き取る。
「こっちに……来るなぁあああああああああああ!!」
外したホースのノズルを目の前の危機に向け、レバーを引き絞る。
轟音とともに吐き出された薬剤が視界を白く染める。恐怖に支配され、腕で押さえつけるようにして引き金を引いていた装置が鳴りを潜める。
「に、逃げないと……」
我に返った俺が空になった容器を横に放ると、視覚の外で下階へ続く段差を転がる重い金属音が響く。
「けほ、けほ」
少しして、廊下を覆っていた霧が晴れる。身を引いて距離を取っていた少女は制服の白を払いながら廊下を見渡し、
「もう……往生際が悪いんだから」
見失った目標を探して、消火器の転がる階段の踊り場へと視線を投げた。