堕ちて行く佐久間親子
話は、松島の家を出た佐久間親子のその後に戻るのだが…
彼女達は、バスで二時間ほど揺られ亜美の出身地に向った。
ここで生まれ育った亜美は、かつてこの地域の田辺興産という企業の事務員からスタートしたのだった。
父親を早くに亡くし、母親も高校に入ったばかりの彼女を置いて男と消えてしまい、食べることにも苦労した彼女は、どんな仕事でも文句ひとつ言わずに懸命に取り組んだ。
学歴もなく貧しい育ちの一〇代の娘だった亜美の、負けん気の強い根性が気に入った先代の社長は、彼女に様々なことを教育し、実践に強い人間に育て上げた。
田辺興産を一代で築き上げた先代は、家族もなく、たった一人でがんばってきた人だったので、亜美の苦労が解っていた。
そのため、彼は彼女を娘のようにかわいがり、秘書のような仕事もさせていた。
彼女が三〇歳を過ぎた頃、なかなかいい話のない彼女に、佐久間商事の社長の後妻にならないかと打診したのも彼であった。
「年は離れているが、気のいい男だ、奥さんになれば、そのうち会社は君の思うがままだ、権力と金、君が望んでいるものだ。できれば、初婚の相手を、と思っていたが、なかなか難しい、これが私にできる精一杯だ、考えてみるかね?」
こうして彼女は後妻におさまったのだが、その後、彼女は彼の忠告を全く聞き入れず、ただ走り続けた。
しかし、先代は、いつかこういう日が来るだろう、でも、もう一度だけチャンスを与えたい、と考えていた。若くして、自らの子どもを身ごもり、その命を守ってやれなかったこの男の償いの思いがそこにあった。
動けなくなった先代の部屋へ案内された亜美は、涙が出た。言葉を自由に操ることもできず、不自由な体で喜びをいっぱいに表した先代は、息子の嫁に、用意してある一億円をだしてやるように言った。
しかし、傍で聞いている者には、その言葉の意味は全く不明であった。
部屋を出た息子の嫁、聖子は、先代が「少しでも貸してやれないか」と言っているので考えたが、担保もないので難しい。でも
「娘さんをここで一〇年メイドして働かせてくれるのであれば、三六〇〇万円の税引きで三二四〇万円を先払いしてもかまいませんが……」そう提案した。
(なんでこんな人に一億円も払うの、ばからしい!)
聖子はそう思ったと同時に、かつて悔しい思いをした兄の子、たった一人の姪の恨みを晴らしてやりたいという願いもあった。
決してこのチャンスは逃したくない、なんとしてでも娘はここで働かせたい、そして姪の気のすむようにしてやりたい、そんな強い思いが、勝手な提案をしてしまった。
それは信子が、一年生の三学期も終わりに近づいたころであった。卒業式を終え三年生がいなくなった後、陰で学校を仕切り始めたのは、二年A組の才女、筋木亜子であった。
やや吊り上がった大きな瞳が魅力的で、小柄な少女ではあったが、他校の男子生徒の中にも多数のファンがいて、彼女自身も自分のためであれば直ちに駆け付ける男の子はたくさんいると自負していたので、決して怖いものはなかった。
一方、信子は自分を目の敵のように注意ばかりしてくる校長が、三月末で退職になり、四月からは母親の腰ぎんちゃくみたいな副校長が校長になることを知っていたので、ただ一人の仲間である林節子を連れて、父親が佐久間商事に勤めている中野洋子を仲間に引き入れようと第二体育館の裏で彼女を脅していた。
しかしその時、運悪く筋木亜子に見つかってしまい、彼女とその取り巻き五人に囲まれ、
「お前は何様のつもりなの? 一年のくせに!」と亜子が言いかけたところで、
「私は佐久間…」と信子が名前を言おうとしたが
「うるさい!」亜子は《どすっ》と腹に一撃を食らわした。
「ううっー」息ができなくなった信子は顔を歪めその場にうずくまってしまった。
「誰が口を聞いて良いって言ったの?」私が話している時は最後まで黙って聞くのよ!」亜子は大きな瞳をさらに吊り上げて信子を片足で踏んづけてしまった。
「うっ」
信子は、ここはしたいようにさせてやる…… そのかわり何十倍にもして返してやるからな! そう思い顔を伏せて耐えた。
「一年坊主がふざけたことするんじゃないのよ…… 私が仕切る学校だよ、お前みたいな鼻たれのブスが大きい顔するんじゃないよ!」
「……」信子は俯いたまま懸命に耐えた。
「今度こんなことしたら、許さないよ!」
「すいませんでした」信子は全てを新年度になってからの楽しみにしておとなしく詫びを入れた。
「さっさと消えな!」
信子と節子は頭を低くして小走りにその場を離れた。
信子は一年生の間はおとなしくしていたので、亜子もその取り巻きも信子が理事長の娘であることを知らなかった。
「信ちゃん大丈夫?」節子が心配そうに尋ねると
「大丈夫よ、何十倍にもして返してやろうと思って、したいようにさせたのよ…… 新学期が楽しみだわ」
そして新学期の始業式の日、信子は節子を伴って校長室に出向くと、筋木亜子に暴力を振るわれたことを報告した。
「中野洋子さんと三人で話をしていただけなのに、突然罵倒されてお腹を殴られて、踏んづけられたんです。節子さんが全てを見ていました」
「わかりました。直ぐに対処します」
四月から校長になったこのもと副校長は、信子の母に感謝し、張り切っていた。
筋木亜子は、校長からの突然の呼び出しに不思議そうな表情で校長室にやって来た。
「あなたは先月、三学期の終わりごろ、第二体育館の裏で佐久間信子さんに暴力を振るいましたね」冷たく侮蔑したような校長の表情に、彼女は不安になったが、
「それは、彼女たちが同級生を脅かしていたからです」
「そんなことは聞いていません。暴力を振るったのですか?」
「はい、少しだけです」
「お腹を力任せに殴って、うずくまった彼女を下足で踏みつけたのが、少しだけなんですか?」
「……」彼女は俯いてしまった。
「この学校にあなたのように暴力を振るう人がいるとは思いませんでした。 退学処分を検討しますから、自宅で謹慎していなさい」
「そんな……」彼女は今にも泣き出しそうな表情で校長を見つめた。
「何か、不満ですか?」
「あのくらいで退学何て……」
「その考え方が間違っているでしょっ、『あのくらいで』とは何ですか!」
「本人はとても心を痛めています。彼女に謝って、彼女と保護者が許すというのであれば退学処分は考え直しますが、そうでない限りは、覚悟していて下さい」
「どうすれば……」
「さきほど言ったでしょっ、とりあえずお詫びに行かないことには話にならないでしょっ!」
うなだれて校長室を出てきた亜子に、節子が近寄って来た。
「バカだね、理事長の娘に手を出して…… 直ぐに第二体育館の裏に来て!」
(理事長の娘だったのか…… 校長も張り切るはずだ! 参ったなー、一発謝って終わらせるか……)
亜子はそう思って第二体育館の裏へ行くと、そこで待っていた信子は亜子を睨むと鼻で笑って、体育館の鍵を開け始めた。
「中に入って!」威圧的な言い方であった。
「この前はお世話になったわね……」信子が薄ら笑いを浮かべて言うと
「あれはあなた達が同級生を脅かしていたからでしょっ!」
「私達はただ話していただけよ、それにたとえ脅かしていたとしても、あなたは何の権利があって暴力を振るったの?」
「それは上級生として……」
「へえー、上級生として後輩に焼きを入れたわけ?」
「ごめんなさい、悪かったわ、謝るから許して欲しいの……」
「ねえ、節子、これが謝る態度だと思う?」
「馬鹿にしているんだよ、普通は土下座して謝るでしょっ……」
「そうね、退学になるかどうかの瀬戸際だもんね」
「……」
「謝りたくなければいいのよ、あなたのパパも近い内に首になるわ、親子三人でどこかへ行けばいいわ……」
「……」
「節子、行くわよ……」
「待って、謝るわ!」
「言葉を間違っているんじゃないの? 『謝るわ』って何よ、『謝ります』でしょ。三年のくせに言葉遣いも知らないの!」
「ごめんなさい。謝ります」そう言うと彼女は床に正座して手を突くと深々と頭を下げて、
「ほんとにごめんなさい、許して下さい」
「もっと頭下げて、床にこすりつけるんだよ」節子は亜子の前にしゃがみ込むと頭を押さえつけた。
「うっ、何するのっ!」亜子は節子の手を振り払うと、顔を上げて彼女を睨み付けた。
「信ちゃん、こいつ全然反省していないよっ、もっと厳しく躾けないと駄目だよ……」
(躾けるって、何よ)
「とりあえず、サクマーズの《パシリ》にでもしちゃう?」
「そうね……」
「だけど、サクマーズの総長に暴力を振るったのに、ただで許してやるの?」
「それもそうよね、まだお腹にあざが残っているのよ」
「お前さー、サクマーズの《パシリ》にしてやってもいいけど、罪は償わないといけないよ」
「償うって、どうすればいいの?」
「その机に手をついて、お尻を突き出すのよ」
「なっ、何ですって!」
「お前さあー、この前、何したか忘れたの?」
「でも……」
「でもじゃないよ、ふざけるんじゃないよ!」
「……」
ここまで腕組みをしたまま黙って見ていた信子は、薄ら笑いを浮かべながら節子の振る舞いに感心していた。
体育館に来るまで、信子には特に考えはなかったのだが、この節子の演出に気をよくして成り行きを見守っていた。
節子は黙ってカーテンの陰に立てかけてある信子の竹刀を手にすると、それを彼女に手渡した。
「これでやるの?」驚いた信子が尋ねると
「だって殴られて、踏んづけられたんだよ…」節子は少しせかすように言った。
「あんた、やっぱり面白いね」
「これぐらいやらないとあいつは懲りないよ……」
「わかった!」
「何をするの? それで殴るつもりなのね? 許さないわよ!」
「何言っているの、許さないのは私よ…… お前は許して欲しくてここに来たんじゃないの?」
「でも、そんなもので……」
「じゃあ、止めとく? 私はどうでもいいのよ」
「わかったわ……」
亜子は机に手をついて、お尻を突き出した。この上ない屈辱であった。
「そうなの?言い覚悟ね」信子はそう言うと
ばしっ…… 竹刀を一撃加えた。
「うっ」
亜子は悔し涙を懸命にこらえて、身体を起こすと振り向いて、
「気が済んだでしょっ! これでお相子よっ!」
「あんた、馬鹿?」
「……」
「何がお相子よ、この前の一発と下足で踏みつけたことが、これで済むと思っているの?」
亜子はなすすべもなく、さらに一〇回の屈辱を受けた後、
「これで、いいのよね、許してくれるのよねっ……」
訴えるように信子を見つめたが、
「とりあえずは、一学期が終わるまで、様子をみることにして上げる。一学期が終わるまでいい子にしてたら許してあげてもいいわ」
亜子は信子の信じられないような言葉に我を失ってしまった。
亜子は、その足で校長室に向うと全てを報告したが
「ちょと待ってちょうだい、あなたは暴力を受けたと言っているけど、それは自分から進んで受けたんでしょっ、それを暴力だというの?」
「でも、断ったら許してくれないし……」
「それ見なさい、納得していたんでしょっ、ちょっとおかしいわよ」
「でも、一学期の終わるまでって…… 無茶です」
「あなたの言っていることは完全におかしいわよ!」
「……」
「だって、それを受け入れるかどうかの判断をするのはあなたであって、他の誰でもないわ。理不尽だと思って受け入れないことだってできる訳でしょっ」
「……」
「それを学校側に訴えられても困るわよ」
「……」
「とりあえず、被害者の彼女がそう言うのであれば、学校としても一時、処分を保留しますけどね」
訳のわからない理屈に返す言葉もなく、彼女は翌日、そのすべてを担任である有信町子に相談したが、
「それは、校長先生のおっしゃる通りね、あなた自身で断ることもできる訳だから……」
(こいつもだめだ!)
諦めた亜子は、その後、二人から召使のようにこき使われ、何度も涙を流しながら屈辱の日々を過ごした。
お昼は、売店に買い出しに行かされ、遅いと正座をさせられ、望んだ物がなければ竹刀で殴られ、日曜日に呼び出されることも少なくなかった。
洋子が手下に加わってからは、亜子への虐めは少なくなったが、それでも屈辱の日々は続いた。
彼女は一学期が終わるまで…… そう思って懸命に耐え抜いて、やっとの思いでその一学期の終業式の日を迎えた。
放課後、いつものようにメールで呼び出された亜子が
「今日で終わるのよね、今日で開放してくれるのよね」すがるように訴えると
「はあー、あんたサクマーズを抜けたいの?」
「そんな……」
「《パシリ》がいないと、サクマーズが困るのよ、二学期が済むまで頑張りなさい」
その日の夜、亜子は全てを両親に話した。
父親も、佐久間商事副社長の関連会社をだますようなやり方に愛想をつかしていたこともあって、一家は父親の妹である聖子の夫が経営する田辺興産を頼ってこの街にやって来た。
妹の聖子夫妻は、佐久間商事のよくない噂を耳にしていたので気持ちよく三人を迎え入れてくれた。
高校についても、成績証明書は悲惨なものであったが、聖子の夫が知る地元の高校の校長に事情を理解してもらい転校はスムーズに行われた。
亜子は、両親には話し切れなかった一学期間の屈辱を叔母である聖子には全て素直に話すことができた。
たった一人の姪である亜子の話を涙ながらに聞いた聖子は腸の煮えくり返るような思いであった。
その佐久間親子が今、目の前にいる。
(絶対に思い知らせてやる)
娘をメイドとして働かせてはどうかという話は、こうした背景の中での提案であった。
「その場合残った年数分を返却すれば途中で契約を解除していただけるんですか?」
「もちろんです。 一年分は三二四万円として残った年数分のお支払いをいただければ、お嬢さまはその段階で自由になることができます。おそらくお嬢さまは自由気ままに育ってきたのでしょうから、ちょっと辛いかもしれませんがこういったところでメイドの経験をされるのも人生にとっては勉強になるんじゃないでしょうか……」
「ありがとうございます。お心遣い感謝します。それではそういうふうにさせていただいてよろしいでしょうか?」
「ええ、そうしていただけたら義父も喜ぶと思います」
こうしたやりとりの後、亜美は信子には会わずに三二四〇万円を受け取ってホテルまで送ってもらった。
それを知らされた信子は、驚いて涙を流したがどうすることもできず、三人の先輩のメイドたちに小柄れるようにメイド服に着替えさせられ、人生で初の屈辱的な服装に再び涙して義母を恨んだ。
その日から信子の辛い日々が始まった。
何も出来ない彼女は、先輩のメイドたちから命令されるたびに叱責され、厳しい体罰を受けながら一つずつ仕事を覚えていくしかなかった。
彼女が特に辛いのは朝食であった。
家の者達が食事を済ませた後から、メイドの食事になるのだが、お嬢様の食事にいつも時間がかかるので、メイドの食事も必然的に遅くなった。
無駄話ばかりして、なかなか食事を終えないお嬢様をにらみながら(早く食べろ、早く食べろ)と念じていたが、一向に効果はなかった。
やっとお嬢様の食事が終わっても、先に先輩たち三人が食べるお世話をして、彼女が食事にありつけるのは、九時を過ぎることが珍しくなかった。
朝六時から準備にとりかかり、三時間以上空腹に耐えながら立ったまま待たなければならないということは、彼女にとっては地獄にも落ちたような思いであった。
「奥様から、甘やかさないようにって言われてるんだからねっ、ぐずぐずするんじゃないよ」
毎日このような叱責を受けながらビクビクして日々を過ごしていた彼女だったが、自分の不運を嘆く事があっても、未だに自分の罪を悔いる事はなかった。
一方、ホテルに着いた佐久間亜美は、 三〇〇〇万円あれば何かできるはず、そう思って安堵していた。
(とりあえず今日はゆっくりと一日休もう。そして明日から本気で考えよう)
そう思った彼女は入浴を済ませ、ベッドの上でしばらく横になっていた。
(まだ、天は私を見捨てていない)そう思った時であった。
トントン、部屋のドアがノックされた。
「お客様、先ほどフロントに男性の方が来られまして支援をさせていただきたいのでこの手紙を渡してほしいと頼まれたのですが……」
支援と聞いた亜美は目を輝かせて大急ぎでドアを開けた。
その瞬間二人の男性と一人の女性が部屋に押し込んできて、 亜美は口を塞がれ、縛られてしまった。
突然のことに、何が何だか分からず、亜美は目をぱちくりさせて声を出そうとするが口はガムテープでふさがれものが言えない。
「旦那はどこにいるの?」黒いスーツに身を包んだ女性が亜美を冷たく睨み付けながら尋ねた。
亜美は恐怖のあまり懸命に頭を振って、知らないと言う意思表示をした。
その時一人の男がケースの中から三二〇〇万円を見つけた。
「お嬢さん、 三二〇〇万円ありますよ……」
「旦那はどこに行ったのよ?」
目を見開いて懸命に頭を振る彼女に、
「大きな声出したら許さないよ」そう言うと力任せに彼女の左の頬を殴った。《ばしーん》と言う音とともに、「うぐー」という声にならないうめき声が低く漏れた。
「いいかい、これを外してあげるけど大きな声を出したら許さないよ、わかってるね」
亜美は涙で濡れた瞳を懸命に見開いて何度も小さく頷いた。
「どうしてこんなひどいことするんですか!」
「ひどいのはお前の旦那だよ、 一億円借りてトンずらしてしまって…… どこにいるのよっ!」
この女性はまだ三〇歳前後なのだろうが、目は血走っていてその表情からは冷酷さがにじみ出ていた。
「ほんとに知らないんです。あの人は一人で逃げてしまって、家には帰ってこなかったんです」亜美も必死だった。
「この三〇〇〇万円をもらってもまだ七〇〇〇万円も足りないのよ、どうしてくれるの?」
「私は知りません、その三〇〇〇万円は私が借りてきたものです。主人とは関係ありません」すがるように訴えたが
「何を言ってるの、そんな都合のいい話が通るわけないでしょ、足らずはあんたに稼いでもらうわよ」
「お嬢さん、こんな四〇過ぎのババアじゃどこも引き取ってくれないでしょう」
「メイドぐらいはできるでしょっ、少しでも回収しないと…」
「そうですね」
( どうしてこんなことになったの…… 私はこんな目に合うような罪を犯したの?
貧しさの中から這い上がっただけなのに……
私だってもっといい所に生まれていたら、こんな生き方はしなくても良かったかもしれないのに……
私のやって来たことは罪だったの?
ただ一生懸命に這い上がっただけなのに……
もし私のこれまでが罪なんだとしたら、こんな目に会うことで罪は帳消しになるの……
無限の果てはどこまでも続くの?
地の果てまで行ってしまうのだろうか…… )
彼女が思う初めての人間らしい苦悩であった。
一方、信子は辛い日々を送ってはいたが、それでもひと月も過ぎた頃にはメイドとしての生活にも慣れ、知らない間に覚悟に似た思いも生まれ笑顔がこぼれることもあった。
この時を待っていた聖子は、ある日曜日の朝、姪の亜子に信子がメイドをしていることを伝え、家に来るように促したが、亜子の思いは複雑であった。
亜子はこの地で新たな一歩を踏み出してからまだ三カ月にもならない。
未だに悔しくてやり場のない思いに、夜、ふと目が覚めることもあるし、思いだせば竹刀で殴られている自分の哀れな姿は容易に瞼の裏に浮かべることができる。
しかし、自らも暴力を持って暴力を押さえつけようとしていたことは事実。
このまま何もなく時が過ぎれば、過去の辛い思いでの一つとして、恐らくいつの日にか処理することはできるのだろう。
現実にこの三カ月に満たない期間でも、その思いは徐々には薄れていた。
ところが、叔母からの話が、彼女の復讐心に灯を付けてしまった。
人としてそれはあってはいけないこと…… 彼女の理性が懸命に訴えて来るが、今日一日だけ、一日ぐらい、あいつを罵倒して、あざ笑ってやってもいいだろう……
彼女はこの地で芽生え始めた理性と、復讐に燃える本能の狭間で思い悩んだが、本能に打ち勝つことができず、とりあえず見て見よう、あいつのメイド姿を…… そう思って、午後になると、叔母の家へ足を運んだ。
客が来たことを聞いた信子は、先輩に命じられるままに、レモンティーを用意し客室へ向かったが、そこで亜子を見た彼女は固まってしまった。
「何をしているの? 早くしなさい!」いつになく叔母の言葉が厳しい。
「はい、奥様……」信子ははっとして返事をするとフロアーに膝をつき、震える手でカチャカチャと耳障りな音を立てながら、二つのカップをテーブルに並べた。
「何でそんなにカチャカチャ言わすの、お茶もまともに出せないの?」
「奥様、申し訳ありません……」信子は今にも泣き出しそうにか細い声で震えながら懸命に謝った。
「全然躾がなってないわね、もっと厳しくするように言わなくっちゃ、亜子ちゃん、ごめんね、無作法なメイドで……」
そこまで無言で信子を見ていた亜子は、かつては女王様のように振る舞っていた彼女が、メイド服を身に着け、俯いたままこんなに怯えている姿を目の当たりにして腹立たしさよりも哀れさが沸き上がってくるのをどうすることもできなかった。
「亜子ちゃん、うちで生活しない?」聖子が楽しそうに誘った。
「えっ」
「この娘をあなたの専属にするから、お世話してもらったら?」
それを聞いた信子の瞼から涙が流れ始めた。
「なにを泣いているの? 私の大事な姪の世話をするのが嫌なの!」
「すいません」信子の精一杯であった。
「自分が四カ月の間、この子に何をしたのか、よーく思いだしてごらんなさい! 私は絶対に許さないわよ、覚悟しておきなさいよっ!」
大好きな叔母の今までに見たことのない形相に驚いた亜子は
「叔母さん、ありがとう。でも…… もういいです。この人のこんな姿見て、こんなに怯えていて、哀れで仕方ない。それに、ここで復讐みたいなことをしたら、私もこの子と一緒になってしまう。私は罪を創りたくないし、叔母さんにも創って欲しくない。だから、もうここまででいいです」
「亜子ちゃん」叔母は知らない間に成長した姪に瞼を濡らし感動していた。
「信子さん、もう下がって下さい」亜子が優しく微笑んだ。
「すいませんでした。ほんとにすいませんでした」彼女は深々と頭を下げると肩を落として下がっていった。
彼女が人生で初めて自らの行いを悔いた日だったのかもしれない。
「あの子はね、私以外にもたくさんの人を苦しめていたの、当時の友達がメールで色々教えてくれてたんだけど、知らない間にグループは一三人になっていたんだって…… ほとんどの人が無理やり入らされたらしいの。それだけの人を苦しめたんだから、罰が当たっても仕方ないよね」
「そうねー」
「私も、あの頃は復讐することばかり考えていたの…… だけどここに来て、新しい一歩を踏み出してみたら、色んなことが違う角度から見ることができるようになって、ここに来る途中、あの子のことも考えてみたの……」
「……」
「私は、両親もいるし、叔母さんや叔父さんも大事にしてくれて、とても幸せだけど……」
「ありがとう」
「わたしこそ『ありがとう』よ、でもね、あの子の継母は、あの子があんなことをしていても叱るどころか、それをかばっていたのよ、校長だって母親の腰ぎんちゃくだからあの子には何も言えなかったの、父親だって、最後は実の娘を置いて逃げたらしいわよ。あの子は誰からも愛されたことがないのよ。私は両親だけでなく、叔母さんからもこんなに愛されている」
「亜子ちゃん……」
「あんなに好き放題して生きてきたあの子が、周りには誰もいなくなって一人ぼっちになって、今までに経験したことのない、考えてもいなかった現実に直面して、私を見たとたんにあんなに怯えて…… でも一瞬はいい気味だって思ったの、しばらくこのまま睨み付けてやろうか、そのくらいなら許されるに違いないって…… だけど今までに見たことのない叔母さんの様子を見て、『だめだ』って思ったの、私の悔しさが叔母さんまで巻き込んでしまった、って思ったの、ここまでにしておかないと、私だけでなく大好きな叔母さんにまで罪を犯させてしまうって思ったの…… 叔母さんのおかげです。ありがとう」
「亜子ちゃん、あなたは大きくなったわね…… 叔母さんもうれしい!」
彼女は涙をにじませながらやさしく微笑んだ。
聖子は、亜子に救われた思いだった。まだ一八歳の姪に教えられたような気がしていた。
(義父も、過去に何かあったのだろう…… だから一億円もの大金を亜美に渡してやろうとしたのだろう。なのに私は憎しみに任せて、とんでもないことをしてしまった!)
その後、彼女は懸命に亜美を探したが見つからなかった。
せめて、信子だけでも自由にしてやらなければ、と思い
「信子さん、もう自由にしてください。あなたのお義母さんに渡したお金はもう結構よ。だからあなたは好きにしてくれたらいいから、どこでも行きたいところへ行ってちょうだい。お義母さんにも渡したいものがあって探しているんだけどどうしても見つからないの…… 」
「でも……」
「いいのよ、それにあなたのお義母さんはあなたを捨てたのではないと思うわよ。出て行くときに、途中でもお金さえ返せば娘は自由にしてくれるのかって聞いていたから、あのお金を元手に何か商売でもして、早くあなたを迎えに来たいって考えていたのだと思うわよ」
「あの、とてもありがたいのですが、自由になっても私は行くところがありません。このままおいていただくわけにはいかないでしょうか?」
「えっ、誰も頼る人がいないの?」
「はい……」
「そうなの、じゃあ、このままここで働いてちょうだい、そのかわりにお給料はちゃんと払うから、それに自由なんだから、止めたくなったらいつでも止めていいのよ」
「ありがとうございます。亜子さんにあんなひどいことしたのに、ほんとにありがとうございます」
その後、三カ月が過ぎた頃、聖子は隣町の料亭で亜美が働いているという噂を耳にして店を訪ねた。
サラ金によってここへ連れて来られた亜美が五年間の奉公で一五〇〇万円を前払いしてもらっていることを知った聖子は、その支払いを済ませ、義父からだと告げて五〇〇〇万円を彼女に持たせた。
その翌日、亜美と信子はそのお金を持って田辺の家を出て行ったが、その後の二人を知るものは誰もいない。