奈々子の危機
その翌日から、佐久間商事の後処理が始まったが、さすがに経営の傾いた学校法人を引き継ぐものは松島グループ以外にはなかった。
明子は、松島の家で三年間メイドとして仕えてくれた高野綾を理事長にすえることを考えていた。
この高野綾は現在四五歳で、もともと中小企業の社長夫人であったのだが、会社が立ち行かなくなったのを機に、個人的負債を抱える前に会社更生法の適用を受け、養子であった夫はどこかに消えてしまったにも拘わらず、彼女は年老いた母親と二人の子どものため人生の再出発を期して、この松島の家で働くことを決意した女性だった。
経済学で博士号まで取得した人であったが、それまでの贅沢だった生活にけじめをつけ、メイドとして一身に働く彼女の姿はたか子や明子の心に響いていた。
たか子自身も彼女のことを常に気にかけており、彼女の才能を生かせる場所が無いかと考えていた。
「会長、私が理事長になればいいのですが、正直やや負担でもあります。もしご理解をいただけるのであれば、綾さんに理事長になっていただいてはどうかと考えております。どうでしょうか?」
「あなたの思うようにやって…… もし学校経営が厳しくなれば、私の個人資産をいくらでも使って! それより綾さんにいいポストが見つかってとても嬉しい。どこかいいところがないかしらって、いつも考えていたのよ」
「私もここが良い機会だと思いました。それではこれで進めさせていただきます」
最初、綾は懸命に辞退したが、最後にはたか子が説得にあたり、涙をながしながら、彼女に感謝し快く受け入れた。
前校長も、一度スイッチを切ってしまった人間だからと、受け入れを渋ったが、それでも、今いる子供たちのために、学校を立て直すことができるのはあなただけですという、明子の強い説得に、意を決してくれた。
当然のごとく、現校長には再採用の意思がないことを伝えた。
学校は、平和を取り戻し、生徒たちの明るい声が充満していた。
二学期も半ばになると、奈々子は車での送迎を断ろうと考えていた。
心身が安定し、心が満たされてくると、少なくても放課後はもう少し自由に動きたいという思いが強くなり、彼女はそのことをたか子に話した。
それを聞いたたか子は顔を曇らせて悩んだ。
「困ったわねー、奈々子ちゃんの思い、かなえてあげたいけど……」
たか子のこんな困った様子を見るのは初めての奈々子には、何が問題なのかわからなかった。
「ママ、奈々子はちゃんと一人で帰ってくることできるよ、子どもじゃないんだから……」
「それはわかっているんだけどねー」
ちょうどそこへ明子がやって来て、たか子から話を聞くと、
「奈々子さん、気持ちはわかるけど…… ちょっと難しいわね」
「えっー、どうしてなの、奈々子、全くわかんないよー」
「こんなこと言いたくないんだけど…… もう会長の娘だっていうことが、世間では定着してしまっているから、一人でいたりしたら危険なのよ、誘拐される可能性があるの」
ついに明子が懸念を打ち明けた。
「えっー、びっくり、でも…… 」さすがの奈々子も言葉がでなかった。
(こりゃ、無理だわ)
そう思った彼女は半ば諦めかけていた。
「でも、学校帰りに、お友達と出かけたいこともあるわよねー」
「困りましたねー」
「さすがの明子さんにも、いい案がないのかしら…… 」
「そうですねー、奈々子さん、とりあえず、週に一日で始めてみない?」
「えっ、いいの?」奈々子が少し微笑んだ。
「でも、曜日を決めて、定期的にするのはだめよ、週によって曜日を変えないと、ねっ」明子の苦肉の策だった。
明子の考えていることが何となくわかったたか子は微笑んで、
「とりあえず週に一日で我慢できるかしら?」やさしく尋ねると
「できる、できる…… 大丈夫、ありがとう!」彼女はとてもうれしそうに笑顔で答えた。
その翌週から、奈々子の一人帰りが始まった。
一人といっても、必ず真紀と裕子は途中まではいっしょで、彼女は、週に一度の自由奔放を満喫した。 ある時はカフェで、ある時はゲーセンで、そしてカラオケで女子高生らしい放課後を楽しみ始めた。
ただ週に一度のこの日は、必ず、少し離れた所から彼女を見守るボディーガードが配備されていた。
たか子自身、子どもの頃に何度か誘拐されそうになった経験があり、身をもってその恐怖を知る彼女は気が気ではなかった。一人帰りの日は、奈々子の顔を見るまで不安で、ふとそんな時に生まれる悪い思いは彼女の胸を苦しくするほど襲いかかってきた。
それでも、
「ただいまー」奈々子の明るい声が聞こえると、たか子は胸をなでおろし、玄関まで出て、彼女を抱きしめるのであった。
奈々子はそのたびにたか子の深い愛情を感じ胸が痛んだが、それでもこの週に一度の楽しみは捨てがたく、彼女はいざと言う時のために、携帯の電源を切れば、家のパソコンが鳴り響き、自分が誘拐されたことと、その位置を知らせることができるように仕掛けを整備した。
一一月の第一週、水曜日のことである。
今日は、奈々子が自由奔放を楽しむ日で、裕子に付き合って、下着を買った後、カラオケで歌いまくる予定だった。
バスで一〇分ほどの中心街へ出向くと、裕子お気に入りのランジェリーショップがあり、そこへ入った三人は見たことのないようなセクシーな下着を前に、キャッキャ言いながら楽しそうにいろんなことを空想していた。
しかし、裕子が手に取ったものを見た真紀は、私も試着してみる、そう言って同じものを手にとると二人はそれぞれ試着室入ってしまった。あまり興味のない奈々子は鼻歌を歌いながらあたりを見まわしているとOL風の若い二人の女性が店員に外を指差し何か言っているようだった。ふと外を見ると道路の向こう側でこの店を見つめている男が居ることに気がついた。
店員がその男の方に見とれている間に、 二人の女性は奈々子に近づくと
「警察です。外に不審な男がいます。 危険なので裏口から出ていただけますか?」と言って、脇に抱えるようにして、あっという間に外に連れ出された奈々子はワンボックスカーの中に乗せられてしまった。
「えっ、えっー! 何なんですか?警察なんでしょ!」
「お嬢さんすみません、多田奈々子さんですよね! 私は総理大臣直轄の研究施設レスクの所長で中川と申します。ぜひあなたに助けていただきたいことがあって、一緒に施設に行ってくれませんか?」
五〇歳前後の人の良さそうな男の言葉に、奈々子は
「ママは知っているんですか?」と尋ねたが、
「いいえ、誰も知りません。内々であなたにお願いしているんです 」
その男は訴えるように言ったのだが、
「じゃ、ママに聞いてみます……」奈々子が言うと
「それは困ります、ぜひ来ていただかないと困ります」その男は必死だった。
「これって誘拐なんですか?」
「いえ、誘拐ではありません。お願いしているんです。」
「じゃあ帰らせてください」
「それはできません、来ていただかないと困ります」
「誘拐じゃないですか、ママが知ったら怒りますよ」
「いやそれは困ります、お願いします、来てください」
「だから、ママが心配するから、ママに断ってからにして!」
「すいません、来て頂きます」
この人たちは決して誘拐犯のようには見えなかった。
何か困っていることがあるのだろう……
奈々子はそう思ったが、それでもたか子が心配する様子が目に浮かぶと胸が苦しくなって
「あなたたち、悪い人じゃないのはよく分かるけど、誘拐するんだったら携帯の電源をつけたままでもいいの?」
「いやそれは……」
「お粗末な誘拐犯ね、電源切るわよ。ママに見つかったらあなたたち殺されるわよ。美人で優しそうに見えるけど、怒ったら怖いのよ 」
一方松島の家では、ボディーガードや真紀から連絡を受けたたか子と明子は顔色を変えて大慌てしていた。
その時だった。
奈々子の部屋のパソコンがけたたましいサイレンをあげて、奈々子の声で叫び始めた。
「ママ、助けてください、奈々子はここです。ママ、助けてください……」サイレンと奈々子の叫ぶ声が交互に大きなボリュームで流れた。
画面では奈々子の位置が星印ではっきりと示されていた。その印は国道六―三号を東へ向かって少しずつ動いていた。
松島の家で待機していたガードマンがその情報を本社へ転送すると既に出動していた三台の車がその情報をもとに、奈々子を誘拐した車を追跡した。
たか子と明子も家の車でその位置を追ったが、 二人は血の気が引いてもう生きた心地ではなかった。
しかし一〇分もしないうちに警備会社から出動した三台の車が路上で奈々子を誘拐した車を取り囲むように停車させた。
そこにたか子と明子がやってくると、 三台の車から九人のガードマンも出てきてワゴン車のドアを開けさせた。
中から「ママ、有難う!」と言いながら手を広げてでてくる奈々子を見たときたか子は涙がこぼれおちるのどうすることもできなかった。
「私は、総理大臣直轄の研究施設レスクの所長で中川と申します。ぜひ、奈々子さんに……」と言いかけた時に、
「何が総理大臣直轄よ、人の娘をさらっておいて、ただで済むと思わないで!私の持てるもの全てを使ってあなたたちを抹殺してやるから!」
こんなたか子の形相は誰も見たことがなかった。目を見開き所長を睨み付ける彼女は、まるで別人のようになっていた。
「気持ちはわかります、でも私達は民間の方にご協力をいただく権限を持っています。この件につきましては総理大臣の許可もとっております。どうかご理解ください」
所長は懸命に協力を依頼するが、たか子は彼を睨みつけたまま一言も話さなかった。
明子は直ちに総理大臣秘書に電話を入れたが、現在総理は会議中で電話に出ることができない旨を聞くと
「あなた、民自党は松島を敵に回すのね、わかりました。電話を切った彼女は幹事長へ電話を入れて、詳細を説明すると、 五分して総理大臣秘書から電話があった。
「本当に申し訳ありませんでした。すぐにやめさせますので中川所長に変わっていただけますか?」
電話の取った中川は「はい、はいわかりました」そう答えると再び電話を明子に戻してきた。電話を耳につけた明子はひたすら謝る総理大臣秘書に向かって
「はっきり言っておきますよ、今回の件で松島はこの上なく憤慨しております。自分の命よりも大事な娘を誘拐されようとしたんですから、秘書のあなたが電話で詫びてすむような問題ではありませんよ、松島は今後、民自党とは関わってまいりません、そのことをしっかりと総理にお伝えください」
そこまで言うと、相手の対応も聞かず、電話を切った。
「さぁ奈々子ちゃん、帰りましょう」
総理の秘書から諦めるように言われてうなだれている所長を横目で見ながらたか子が奈々子の肩に手を回した。
「ママね、あの人たち本当に困っているみたいなの、どうもならなくなってこんなことしたんだと思うの。車の中で話をしている時、みんな本当にいい人だったの。もし奈々子が力になれるのなら助けてあげたい…… 話だけでも聞いてみたいの、だめ?」
「奈々子ちゃん怖くなかったの…… 」驚いたようにたか子が尋ねると
「全然大丈夫! あの人たちいい人だったから、車の中でも助けてください、お願いしますって、だから本当はそのまま行って助けてあげようかとも思ったけど、ママが心配するから、そう思ってとりあえず合図を送ったの、ごめんねママ心配かけて…… 」
「いいのよ、奈々子ちゃんが怖い思いをしたんじゃないかと思って…… それが心配で…… 」
たか子はそう言うと両手で奈々子を抱きしめた。
そして涙をぬぐって我を取り戻したたか子が
「ほんとに話を聞いてあげるの? 大丈夫? 」心配そうに尋ねた。
「ママ、大丈夫よ、それよりもママが怒っていないのなら話を聞いてあげたい!」
「わかったわ……」
そばで聞いていた明子は、急いで中川所長のところへ行った。
ワンボックスの中でうなだれていた所長に
「松島の家まで一緒にお越しいただけますか?」
「えっ……」
驚いて目を見開いた所長に
「奈々子さんが、お役に立てるのなら力になりたいと言っています 」
明子は静かに奈々子の思いを伝えた。
「本当ですか、お邪魔してもいいんですか…… 」
所長は嬉しそうに満面に笑みを浮かべて尋ねかえした。
「かまいませんが、所長一人にしていただけますか」
「あっ、はい、ひとりで大丈夫です 」
松島邸へ帰る奈々子を乗せた車の後を黒のワンボックスカーが続いた。
会議室に通された中川所長は、
「あんなことをしてしまったのに、話を聞いていただけるなんて…… お礼の言葉もありません。本当にすいませんでした……」
「所長さんごめんなさい、私もこの娘が怖い思いをしたんじゃないかと思って取り乱してしまいました。でも話を聞くと優しく接していただいたみたいで、誘拐されておいてお礼を言うのもおかしいんですけど、ありがとうございました」
奈々子はにこにこしながらそう言うたか子を見つめていた。
「それで所長さんは、奈々子さんに何を見てほしかったですか?」
明子が切り出した。
「実は五年ほど前から小細胞がんのがん細胞を収集する物質の研究を進めています。要はがん細胞を吸いよせる磁石のようなものです。一年ほど前にほぼ完成に近づいたのですが、プログラムを策定する過程でどうしてもエラーが生じて、回答まで結び付けることができません。そのプログラムをチェックして欲しかったのです」
「難しいお話ですね、それは答えが分かっているけどその答えに持っていけないということなんですか?」たか子が不思議そうに尋ねた。
「そうなんです。がん細胞を惹きつけることができる物質はもう分かっているんです。だから後はいかにしてその物質を作るかということなんです。多様な物質を分解したり、融合したり、様々な化学変化を起こさせて、最後にその物質ができるようにプログラムを作っているのですが、どのようにしても出したい答えが出てきません。もう一年以上そのことを検証しているのですがわれわれではどうにもなりません。そんな時、博多の松島薬品での噂を聞きまして、なんとかお力をお借りしたい……このように思った次第です 」
「そんな難しい事がこの娘にできるんでしょうか?」
「私にはわかりませんが、もうお嬢さんにお力をお借りするしかありません」
「そのプログラムは今あるんですか?」
黙って聞いていた奈々子が目を輝かせて尋ねた。
「はい、打ち出ししたものとメモリは常に持ち歩いてます」
彼はそう言ってまず打ち出しした資料を取り出した。A四サイズで三〇〇枚を超えるものだった。
たか子と明子は、それを見ると顔を見合わせ目を大きく見開きため息をついた。
奈々子はその莫大な資料に一枚ずつ目を通して一〇ページ目あたりにさしかかった時、
「一つ、見っけ……」そう言うと顔を上げて所長に微笑んだ。
「えっ、もう何かわかったんですか? 」
「これ時間かかるわ……」奈々子はそう言うとしばらく考えた。
「ご連絡いただければまた改めて出直してまいりますが……」
「えっ、いくらかかっても、そこまではかからないと思いますよ」
「えっ……」所長も驚くというよりは呆気に取られている感じだった。
「奈々子ちゃんどのくらいかかりそうなの、ちゃんと教えてあげないと所長さん驚いてばかりじゃないの……」
「テヘェ、ごめんなさい所長さん、でも一時間はもらわないと……」
「えっー、そんなに簡単にできるんですか、大の大人が何人もかかって、一年かかってもできないのに、それをたった一時間で……」
「所長さん、まだできたわけではないですから、期待しないで待ちましょう」
「はい……」
「期待してても大丈夫だよ」奈々子がウインクして自分の部屋へ行くと、たか子が所長に尋ねた。
「でもどうして、今日奈々子が一人で帰るって知ってたんですか? 」
「えっ、どういうことですか? 」
所長は不思議そうに尋ねかえした。
「あの娘は、 一週間に一日だけ友達と一緒に帰るのです。その他の日は車で迎えに行ってます。何かあるといけないので、 一週間に一度だけ不定期であの娘の自由にさせています。どうしてそれが今日だとわかったのか不思議なんです」
「えっー、そんなことは全く知りませんでした。いつも友達と帰っているのかと思ってました」
「そうなんですか、じゃあ少し離れたところにいたボディーガードのこともご存知なかったんですか」
「えっー、そんな人がいたなんて全く知りません」
「でもよくそれで誘拐できましたねー」たか子は微笑ながら話した。
「いや、素人が四人で出たとこ勝負でしたから…… 三人が下着の店に入ったので、うちの女性二人がチャンスとばかりに店に入って、怪しい男がいるから一緒に裏から出ましょうって言って…… 今思うとその怪しい男ってボディーガードの人だったんですかねー」
「所長さん楽しいですね、あの子が力になってあげたいって言うはずです」
明子もそばで微笑ながらその会話に耳を傾けていた。
四〇分ほどすると、奈々子が帰ってきた。
「できましたー、プログラム三つほど追加したのでちょっとかかっちゃいました。プリントするのにも時間がかかっちゃいましたー 」
笑顔で彼女がそう言うと
「ほんとにできたんですか」
疑っているわけではないのだろうが所長は目を見開いて尋ねた。
「はい、どうぞ」奈々子はそう言うとプリントアウトした三〇〇枚以上の用紙を所長に渡した。
最後の一ページを見た所長は、
「本当だ、答えが出ている…… ありがとう、本当にありがとう、この恩は一生忘れません。これでたくさんの人たちを救うことができる、本当にありがとうございます」
所長は涙を流しながら何度もお礼を繰り返した。