佐久間親子、報いの始まり
話はガン特効薬のことに戻るが……
佐久間商事は、厚生労働省の《単価を適正にするように》という再三にわたる指導にも従わず、会社の経営危機を理由に現状の高値を維持していた。
このことについては、弱者を守れない厚生労働省が、マスコミで叩かれるなど、大きな世論を巻き起こしていた。
その頃、これまで中山製薬株式会社が申請を行おうとしていた新たなガン特効薬については、松島グループが共同申請者となり、様々な審査が行われていた。
これまでも非臨床試験の成果は十分に期待できるものであったが、臨床試験へ移行できない唯一の課題であった企業の安定性という問題が、松島グループの参画によりクリアされたこと、加えてその開発者が、サクマを開発した多田秀樹であること、この二点により臨床試験へ向けた動きが急ピッチに進みだした。
これは指導に従わない佐久間商事と世論への対応を急ぐ厚生労働省の思惑が大きく関与したためでもあった。
そのため一ヶ月後には中山製薬株式会社、松島グループの共同申請によるガン特効薬ナカヤマの臨床試験が開始される運びとなった。
このことは全国でもトップレベルのニュースとして取り上げられ、サクマを開発した多田秀樹の、「サクマを大きく上回る効果が期待できるはず」というコメントも載せられ、臨床試験での協力を希望するガン患者が後をたたなかった。
サクマを常用していた者でさえ博士のコメントに大きな期待を寄せ、臨床試験に申し出てくるものが多かった。
その結果サクマの売り上げが急激に落ち込んだ事は言うまでもなく、佐久間商事は再び、倒産の危機に陥った。
真紀がすべてを打ち明けた日、佐久間商事株式会社は不渡りを出し倒産することとなった。会社更生法の適用を受ける間もなく、あっという間の出来事であった。
その翌日、明子の予想通り佐久間信子は学校へ来ていなかった。
朝一番で全校集会が行われ、校長から経営者が変更になる可能性があるが、学校の教育自体は何の影響も受けないので心配しないようにとの説明があり、その日は休校となった。
真紀は、直ちに担任の藤原恭子のもとへ行き、昨夜の松島家での出来事を全て話した。
一安心した藤原ではあったが
「私の戦いはまだ済んでいないの、あの校長を道連れにして、私も止めるつもり……」
鋭い目つきで意を決したように話す彼女に
「先生、経営者が松島に変わったら、あの校長だって、いられないですよ、だから、もう少しだけ待って、お願い!」
真紀は懸命に語りかけた。
「ありがとう、何もしてあげられなかったのに、ありがとう……」
信子の父親であり、亜美の夫である佐久間商事の社長、佐久間遼一は、前日の夜ひとりで姿をくらましてしまった。
残された亜美は、信子にそのことを話し、翌日には家を出ていかなければならないこの二人は、頼るあてもなく途方にくれていたが、亜美は、松島グループのたか子なら何とかしてくれるかもしれない、そう思って二人は松島邸を訪ねた。
預金は全て凍結されてしまい、手元に残ったわずかなお金と小さな荷物を持って二人は三〇分の道のりを歩いてようやく松島邸へたどり着いた。
それは、真紀がすべてを打ち明けた日の翌日のことであった。
佐久間母娘が訪ねてきたことを知った明子は、 二人をメイドの控室へ通させた。意識して待たせたわけではないが、彼女は休校になって帰宅しているはずの真紀とその母親が来るのを待っていた。
これは佐久間親子にすれば酷なことであったかもしれないが、明子は、あまりにも理不尽な、言うに言われない屈辱を受け、持っていき場のない怒りをどうすることもできない真紀親子を、この場に同席させて無念だけは少しでも晴らさせてやりたい、そしてできることであれば、真紀親子の怨念を断ち切るきっかけにしてあげたいと考えていた。
明子が、 二人を伴い、佐久間親子が待つ部屋へ出向いたのは三〇分後のことであった。
明子に続いて、真紀と彼女の母親が入ってきたのを目にすると、亜美は驚いて唇をきりっと閉じると目を見開いて俯いたが、信子はそのまま俯いて顔を上げなかった。
二人は明子に促され、彼女の隣に座った。
しかし、気を取り直した亜美は明子に目を向けると毅然とした態度で
「松島の家では、客をこんなところで待たせるの。お茶も用意しないで…… 非常識にも程があるでしょ!」
彼女を睨みながら上位に立とうとしていた。
「あなた方を客と言われても困るのですが、どういったご用件でしょうか? 」明子が顔色一つ変えずに機械的に尋ねると
「たか子さんに会わせてほしいの…… 」
亜美は再び、威厳を装って用件を述べたが
「ですから、どのようなご用件でしょうか? 」
明子は冷静に重ねるだけだった。
「あなたでは話にならないわ、たか子さんに会わせて!」亜美は必死だった。
「何のご用事かもわからない人を会長に会わせるわけにはいきません。まず私が用件をお伺いいたします 」
明子はあくまで冷静である。
「あなたは何様なの? 佐久間亜美が、たか子さんに会いたいって言っているの、それがわからないの? 」
(財界では、佐久間亜美の名前を知らない者はいない)
そんな身勝手な独りよがりの自負が、会社を失ってしまった今も『佐久間亜美が』という言い方を無意識の内にさせてしまう。
依然として強気を装ってはいるが、明子にはその亜美の様子が滑稽にしか見えなかった。
「私に話せないというのであれば、お引き取りください 」
明子が真紀親子に目配せして、静かに立ち上がって部屋を出て行こうとすると
「ちょっと待って、いいわ、わかったわ、あなたに話すわ……」
観念した亜美は、弱々しい声で懸命に明子を引き留めた。
明子は振り向くと再び静かに椅子に座り、腰を上げかけていた真紀親子も座りなおした。
しばらくの沈黙があった後
「実は会社が大変なことになって、助けてほしいの…… 」
余りにも惨めであった。
「会社が不渡りを出したのは存じておりますが、何を助けてほしいのですか?」冷たい口調で明子が続けた。
「資金援助をお願いしたいの……」
亜美は、真紀親子にちらっと目を向けたが、思い切って言葉にした。
「お金を借り入れたいと言うことですか? 」
明子の機械的な話し方が続く。
亜美は、再び真紀親子を目にしたが、もう必死に
「そうなの、屋敷も差し抑えられてしまって、行くところがないの…… 以前たか子さんとお互いに何かあったら助け合いましょうねって、話したことがあるの、だから助けてほしいの」すがるように話した。
「それは、昨年の新年互礼会で、あなたが何かあったらいつでもお助けしますよって言ったことに対して、松島がお礼を言った…… その事を言っているのですか? 」
「そうよ、そのことよ、もし逆であれば、私はたか子さんに手を差し伸べるわ、でもいまは逆になってしまった、だから助けてほしいの!」
悪行を重ねてきた人間でも、自らが落ちてしまうと、他人の善意を求める。
人である以上、仕方ないことではあるが、彼女たちは重ねた悪行が大きい分だけ惨めさが大きく、その落差が計り知れない分だけ、そこに渾身の思いがあった。
まさに藁にも縋る思いであった。
「何か大きな勘違いをされていますね。あなたは松島グループと佐久間商事が同格だと思っていたのですか?」
「えっ」亜美が驚いて目を見開くと
「当時の佐久間商事の資産はたかだか五百億程度でしょ。松島の個人資産がどれだけあるか知っていますか。佐久間の資産の一〇倍以上ですよ。しかも個人資産ですよ」
「……」亜美は驚いて言葉が出なかった。
「本当なら笑われても仕方がないようなあなたの発言に対して、松島は笑いもせずに笑顔で礼儀正しく応えただけです。そばで聞いていた私はおかしくてしかたありませんでしたよ。まあそれはいいとして、もし資金をお貸しした場合に、返済の目途はあるのですか?」
明子は尋ねた。
「今はないわ、でも必ずお返しするわ。佐久間亜美を信じて欲しいの 」
佐久間亜美がその悪行ゆえに有名であるなどということは考えたこともない。
佐久間亜美は、佐久間商事をあそこまで大きくしたすごい女性、世間からはそうした敬意にも似た思いで見られているということを信じて疑わない彼女の独りよがりな自負がまだ続く。
「申し訳ないですが、これまでのあなた方の行いを見ていて、何を信じろとおっしゃるのですか?」
正にこれまでやって来たことを思いだしてみなさい、と言わんばかりであった。
「でも、私はこれまで会社を大きくしてきたわ…… その実績を信じて欲しいのよ……」
「ですから、どうやって会社を大きくしてきたのか、そこをよく思いだして下さいって言っているんですよ、ご理解いただけませんか?」
「でも……」
「大量発注をするからと、設備投資を持ちかけられ、多額の借り入れをして設備を増設した途端に発注を打ち切られ、会社を失った方の奥さんがうちでメイドをされていますよ」
「私にメイドになれって言うの!」
「誰がそんなことを言っているんですか。でもあなたに会社を奪われたその方は、立派だと思いますよ。負の財産を背負う前に会社を手離して、人生の再スタートを切ったのですから……」
「……」
亜美には返す言葉がなかった。
「目途のないあなた方にお金をお貸しすることはできませんよ 」
答えは決まっていたのだが、真紀親子のために哀れな佐久間親子の姿をここまで引き伸ばしたのである。
しかし
「たか子さんに会わせて、たか子さんならきっとわかってくれるわ」
さすがに亜美はしつこかった。
「それはできません。あなた方のような人達を会長に会わせるわけにはいきません。どうかお引き取りください 」
機械的に、しかもけだるそうに明子が言い放つと
「あなたは昔のことを根に持っているのね…… 」亜美は唇をかみしめながら、明子を睨んでいた。
「あなたはまるで子供ね、昔と全然変わっていないわ。どうかお引き取りください 」明子は呆れた様に重ねた。
「家をなくして、お金もなくして、私たちにどこへ行けと言うの…… 」
先ほどまでの勢いはなく、ただ俯きながらそう言うのが精一杯であった。
「それは私たちがお答えすることではありませんね。むしろ債権者の所へ行ってお話をなされてはどうですか? 」
明子は、哀れな親子を目の前にしても心を乱すことなく、正論を突き付けた。
「せめて一ヶ月でいいからここにおいてちょうだい、本当に行くところがないのよ」
明子は、一変してすがるような亜美を侮蔑の念を持って見つめたが、
「真紀ちゃんのお母様、第三者の客観的な目で見て、どう思いますか? 」と静かに尋ねた。
しばらく沈黙が続いた。
真紀の母親は、スカッとするどころか、むしろ気の毒な思いの方が募ってきて、できることであればこの場から立ち去りたいという思いがあったが、ふと娘の真紀を見ると、彼女は口を一文字に結び、俯いたままの信子を冷たい視線で睨み続けていた。
(竹刀で何十回も叩かれたこの子の悔しさは想像がつかない、だから同情だけは絶対にしてはいけない)
そう思った彼女は意を決したように静かに話し始めた。
「世の中には、破産したり、借金をしたり、大変な方がたくさんいらっしゃいますよね。この家でその人たち、みんなの面倒を見ていたらきりがないですよね。このお二人が松島にとって特別な方であれば話は別ですが、そうでなければこの方々だけに手を差し伸べるのは、ある意味おかしいですよね」
彼女は佐久間親子よりもむしろ明子に向かって話をした。
「おっしゃる通りですね。どうしてあなた方の面倒を一ヶ月も見なければならないのですか。 頼ってくるところを間違っていませんか?」
明子は口を荒らすことなく、機械的に亜美をあしらうことしか考えていなかった。
この二人のこれまでの悪行を考えれば人として腹立たしいことは言うまでもなかったが、彼女は常に冷静であった。
(この二人に罰を与えるのは私ではない、それはこの二人のこれまでの行いが決めること、それが結果として報いという形で現れるだけのこと……)
「お願いだからたか子さんに会わせて、彼女の答えは違うはずよ!」
亜美はたか子に会わせてもらえないことで苛立っていた。
(あの気のいいたか子なら丸めこめる、とにかく彼女に会わなければ……)
そう思った亜美は、突然立ち上がると部屋を出て、
「たか子さーん! たか子さーん!」大きな声で叫び始めた。
驚いたのは居間で奈々子と楽しそうに談話していたたか子であった。
慌てて近寄って行った彼女は
「まあ佐久間さん、どうなさったの? 」
彼女は佐久間親子が来ていることを知っていたが、そのことを奈々子には伝えていなかった。
驚いた奈々子も立ち上がったまま、呆然としてその光景を見守っていた。
「会社が大変なことになって困っているの! 行くところがなくて困っているの、助けてください、お願い!」
うっすらと涙を浮かべた亜美は懸命にたか子にすがろうとした。
「ええ、伺っているわ、大変だったのね。明子さんとしっかりお話ししてね 」たか子が優しく微笑むと
「あの人は話にならないの、お願い助けて!」
「申し訳ないけど、私はこうした話はよくわからないの、すべて明子さんが対応してくれるの、だから、ちゃんと彼女と話をしてね」
たか子はなだめるように静かに話した。
「あの人は昔のことを根に持っているの、だから私を助けるつもりはないの! ここで私を見放したら、松島グループは世間の笑いものになるわよ! だから助けて、せめて一ヶ月でいいの、 一ヶ月だけでいいからここに居させて、お願い!」
もう恥も外聞もなくした彼女は
(ここで見放されたらもうどうにもならない)と、渾身の思いでたか子にすがった。
「世間の笑いものになったら大変ね、でもそれが明子さんの判断なら仕方ないわね。この家はね、あの人でもっているの。あの人の判断が全てなのよ。だからあの人の決断を私が曲げる事は絶対にないのよ、分かって下さるかしら……」
哀れな女の一生懸命はあっという間に打ち消されてしまった。
後に来ていた明子が、静かに
「部屋へお戻り下さい、これ以上恥をさらすのは良くないでしょう 」
冷たく言い放つと、亜美は俯いたまま部屋に戻っていった。
部屋では真紀が、依然として俯いたままの信子を睨み付けていた。
「真紀ちゃんとお母様、ちょっとよろしいかしら?」
明子に促され二人が別室へ移動すると明子は静かに話し始めた。
「あんな人達でも、あんな哀れな状況を見ると、お二人ともあまりいい気はしないでしょう。本日、同席頂いたのはお二人に決してスキッとして欲しい、そういう思いがあったからではありません。でも何かきっかけがなければ、お二人はあの悔しさをいつまでも引きずって生きていくことになります。だからせめてその思いをここで断ち切っていただきたいと思って……」
二人には明子の温かい思いが胸に沁み込んでくるようであった。
「もう私は充分です。これ以上同席すると、自分が罪を犯しているようで辛いです。もう彼女たちの事は綺麗さっぱり忘れてます。本当にありがとうございます。明子さんのおかげです」
母親は目頭を熱くして頭を下げた。
しかし、
「私は嫌です。気がすまない、抑えつけられて竹刀で何十回も叩かれて、絶対に許さない! 」真紀は一点を見つめたまま強い口調で思いを語った。
明子の思いは十分に理解できたが、持っていき場のない憎しみが疲れ果てた彼女をまだ突き動かそうとしていた。
明子と真紀の母親は顔を見合わせるとお互いに悲しそうに目で頷いた。
「真紀ちゃん、あの二人が今後どのような生活をしていくか想像ができる? 」
優しく明子が尋ねたが
「…… 」真紀は明子を見つめ、わからない……と言うように、無言で頭を小さく振った。
「あんな生き方をしてきたから、誰も助けてくれる人はいないわ。家もなくして、お金もなくして、どんな人生が待っているんでしょうね。どんなところで働くのかしら…… これからどんなところに住むのかしら…… どこか日も当たらないような一間を借りて、食べるものもなくて、人として最低レベルの生活をしていくんでしょうね」明子は静かに話した。
「……」真紀も静かに聞き入っていた。
「場合によると身体を売って生きていくことになるかもしれないわね。でもそれは、結果として報いを受けた彼女たちが何処へ落ちていくのか、ということだと思うの! それは私たちが決めることではなくて、願うことでもなくて、彼女たちのこれまでの罪が彼女たちの行き着く場所を決めてくれるのだと思うの……」
やさしい明子の言葉に、真紀の心に住み着いていたやり場のない激しい怒りが少しずつその色を薄めようとしていた。
彼女が止めどなくあふれ出る涙を両手で覆いながら立ち尽くしていると、明子は両手で彼女を抱きしめ、
「大丈夫、あなたなら大丈夫、この怒りをいつか人生の糧にすることができる。だからここまで…… 彼女たちに対する憎しみはここまで! ここから先はあなたが自分を見失ってしまう…… だからここまで!」
明子は彼女をさらに強く抱きしめ、優しく頭を撫でてやった。
もう彼女の怨念は明子に吸い取られるかのように静かに消えていった。
明子はさらに続けた、
「大学を出たら私のところへ来なさい、私は、あなたにもっと色々なことを教えてあげたい……」
真紀は、明子から少し離れると涙でぐしゃぐしゃになった顔で微笑み、
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。いつまでたっても消えない悔しさをどうしたらいいんだろうって、胸が苦しくなって、何もかもわからなくなって、でも…… もういいです。もう関わりたくない! 支配人のおかげです。本当にありがとうございます」
明子はその様子を見ていた真紀の母親に優しく微笑んだ。
「あの佐久間親子は、今夜一晩だけは泊めてあげて、明日の朝には出て行ってもらおうと思います。それで良いですよね 」
二人は静かに頷いた。
そして翌朝、二人は小さな荷物を抱えて、寂しそうに松島の家を後にした。
それを聞いたたか子は、
「でもあの二人は借金を背負っているわけじゃないんだから、財産がなくなっただけだから、まだやり直すチャンスはあるわよね……」
そう言ったのだが、明子は、それは難しいと思った。