佐久間商事、崩壊への序章
一方、佐久間商事では、多田秀樹の退職の報告を受けた社長夫人、副社長の佐久間亜美が怒りに唇を震わせていた。
彼女自身もまた、たか子と同様、博士の優れた才能を買っていた。ただ、彼女は彼の心理を読み、駆け引きを行いながら彼に対峙していた。
亜美は彼を極限まで追い詰め、身動きが取れなくなったところで、手をさしのべ会社に対してもっと大きな恩を感じるように仕向けたいと考えていたので、尾行を命じるなど、細心の注意を払って彼を見張っていたところであった。
彼女は、近いうちに彼が泣きついてくるのではないか、そろそろ限界にきているのではないか、彼が泣きついてきた時がチャンス、その時には借金をなかったことにし、一億円を研究費として提供する準備を整えていた。
そのことで彼の会社に対する恩義は絶大のものになり、今後は会社のためにさらに精進するはずだと考えていただけに、この松島グループのやり方に腸が煮えくり返るような思いであった。
博士に思う存分研究をさせたいと考えていた点において、彼女はたか子と何ら変わる事は無かったのだが、ただ違っていたのは、亜美の場合その目的が利益のことしか考えていなかったということに加え計算ずくで人を操ろうとしていたことと、心で人に接するたか子の差であった。
貧しい家庭に生まれた彼女は、人の心理を読み、常に駆け引きを行いながら、人に恨まれることを恐れず、佐久間社長の後妻に収まった人間であった。
彼女が佐久間商事の社長夫人になってから、会社が大きく成長してきたことは事実であったが、しかし苦労の末ここまでたどりついてきた彼女は、人を騙したり、人を落とし入れたりすることにはあえて目をつぶり、ただ利益のためにここまで走ってきた女性である。
したがって、彼女を恨むものも多く、会社の中では特に畏れられる存在となっていた。
もともと小さな商社であった佐久間商事は、亜美の手腕によって小さな製薬会社を買収し子会社化すると、それに味を占めた彼女は、ありとあらゆる手段を駆使して、多様な分野に手を広げていった。
時には、下請けの受注単価を下げるため、下請け企業に今後大幅な発注をお願いしたいと持ち掛け、設備投資をさせた後に、発注を停止し、泣きついてくる企業にさらに安価での受注を受けさすなど、こんなことは当たり前、さらには、金融機関から運転資金の借り入れを行おうとする下請けに、
「これまでお世話になったのだから」と、無利子での貸し付けを行い、「契約書上は、会社の決まりだから一年後の返済という形を取りますが、そんなことは気にしなくていいです。何年かかってもいいですよ」と……
まことしやかに説明し、相手に感謝させ、一年後には契約書に基づいてきっちりと返済を迫り、相手企業を買収するなど、こんなことも平気で実行する女性であったから、周囲の者は(いつか刺されるのではないか)と思っていた。
「何をしてたの、あれほど言っていたでしょっ 」
亜美は目を釣り上げて顧問弁護士をにらみつけていた。
「すいません、しかし用意周到で弁護士も三人掛かりで取り掛かっていたみたいです。いずれも完璧で、手の打ちようがありませんでした」
弁護士はなすすべもなく、俯いたまま言い訳を続けた。
「何のために高い顧問料払ってるの、全く役立たずねっ!」
腹立ち紛れに顧問弁護士にあたってはみるものの、もうどうにもならない状況になっていた。
夏休みも終盤にさしかかったある日、松島邸では
「奈々子ちゃん、明日はママたち九州まで行ってくるから、一晩だけ一人になるけど大丈夫よね」
夕食の時にたか子がそう言うと
「えっ、奈々子一人になるの、ママはいないの…… 」彼女が俯いて今にも泣き出しそうに表情を曇らせる。
「でもね、明日はお仕事でどうしても九州に行かないといけないの、だから一晩だけ我慢して……」
「いやっ、じゃあ奈々子も一緒に行く!」彼女が顔を振りながら、すがるように言うと
「えっ、どうしましょう…… 」たか子が困惑の表情で明子を見つめた。
「いいじゃないですか、一緒に連れていきませんか、学校の補修授業より良い勉強になるかもしれませんよ 」
明子が奈々子に目で合図しながらそう言うと、奈々子は少し安心して笑顔を取り戻した。
「そうね、ちょうど夏休みだし、じゃあ一緒に行く? 」
微笑んだたか子を見て奈々子は
「行く、行く」はしゃぎながらとても嬉しそうだった。
翌日三人は羽田から飛行機で福岡空港へ向かうと、到着したのは昼前であったが迎えにきていた車に乗り込み直ちに松島薬品に向かった。
ここは松島グループの製薬部門を担っている会社で、奈々子の父親によって紹介された中山製薬と共同で新たながん特効薬の臨床試験に向けた最終調整が行われていて、奈々子の父もよく顔を出している場所であった。
表向きはその視察ということであったが、コンピューターに異常が発生し、現在はホストコンピューターを停止している状況であるとの報告を受け、取り急ぎ明子とたか子が出向いた次第であった。
「どうも先日から様子がおかしくて、ホストコンピューターを稼働させると、少しずつウィルスが侵入のエリアを広げているみたいで、総力をあげて対応しているのですがなかなか解決策が見つからず参っているところです」
総務部長の報告に
「会長どうしますか? 」
明子が困り果てたようにたか子に相談を持ちかけた。
「プロが何人もかかってどうにもできないのでは仕方ないわね」
たか子も不本意ではあったが、直ちに解決策が見つからないとすればこの状態を維持することはやむを得ず、とりあえずはプロを集め対応を検討することとした。
しかし奈々子が突然口を開いた。
「ちょっとパソコン一台貸してもらえますか?」
「えっ、こちらのお嬢さんは? 」
対応していた総務部長が不思議そうに尋ねると
「私の娘です 」
平静を装って言ったたか子に総務部長が驚いた。
(げっ、結婚していないだろう) 内心そう思いながらも
「そうなんですか……」と静かに奈々子に目を向けた。
(ひょっとしたら奈々子が何とかできるかもしれない)
そう思った明子が
「誰かパソコン持ってきて!」
そう言って奈々子の前にパソコンを用意した。
パソコンを開いたら奈々子は、とてつもない速さでキーボードを叩き始めた。
五分ほど叩き続けた後、しばらく一点を見つめながら考えたかと思うと、再び打ち始めたその信じられないような速さに誰もが驚嘆した。
「ホストコンピューター、オンにしてください」顔を上げた奈々子が静かに言うと
「えっ」驚いた総務部長はたか子を見た。
「オンにして!」
明子が担当に言ってスイッチが入った瞬間、離れたところで監視用のパソコンの状況を見守っていた社員が
「あっ、止まりました。ウィルスが止まりました 」驚いたように甲高い声が響いた。
一瞬微笑んだ奈々子は、たか子を見つめてにっこり笑うと再び打ち始めた。
しばらくして顔を上げた彼女が
「このウィルス、どうしますかね?」
「ええっ、どういうことなの、もう大丈夫なの? 」
あっけにとられたたか子が、狐にでもつままれたかのような顔をして奈々子に尋ねた。
「大丈夫!」奈々子は彼女を見つめて再びにっこりと笑った。
その愛くるしい笑顔は、プロが何人かかってもどうしようもなかったこのウィルスをあっという間に止めてしまった、そんな大それたことをするような女の子にはとても見えなかった。
でもたか子は、そのとてつもなく大きなギャップが、そのギャップを生み出す奈々子が愛おしくてならなかった。
「ウオッー」と言う歓声とともに、大きな拍手がわき上がった。
奈々子は照れ臭そうに頭をかきながらとても嬉しそうだった。
「このウィルスね、いまここで止めているんだけど、どうしますか? 」
「どうすればいいの、どんな選択肢があるの? 」不思議そうに明子が尋ねた。
「最初に、破棄する場合、これは一〇〇%破棄できるかどうかはわからない、場合によったらとても少ない確率だけど、またどこかへ飛んでいく可能性がある。だからちょっと怖い気もする」
「他に案はないの? 」明子が少し慌てていた。
「発信元にお返しする方法があるけど、発信元のパソコンは済んでしまうね。ただ、発信者だからその対応は考えているかもしれないね 」
奈々子は静かに説明した。
彼女は、廃棄しても一〇〇パーセント問題がないことは確信していたが、しかしこの事件をそれで終わらすのは問題があると思っていた。
なぜなら、このウィルスは彼女自身が中学生の時に作ったもので、退職してしまった当時の佐久間商事の情報推進部長に上げたものだった。
これがどういう経緯で使われることになったのか定かでは無いが、このウィルスが佐久間商事から発信されたものであることが奈々子には容易に推察できた。
このため本心としては、佐久間商事へ送り返し、その報いを受けさせるべきであると思っていたが、露骨にこれを提案するわけにはいかないので、周囲の者が送り返すことを提案しやすいように二つの選択肢を話したのである。
「それは送り返すしかないでしょ」総務部長がそう言うと
「そうするべきですよ」と次々に送り返すことを勧める者たちが出てきた。
「皆さん、聞いてください 」明子が静かに話し始めた。
皆が静まり、彼女に向いたのを確認すると、
「このウィルスを送り返すことで、この娘に何か責任が生じるようなことになっては困ります。したがってここで皆さんの認識を明確にしておきたいと思います」
皆は真剣に明子に聞き入っていた。
「この子はウィルスを現在止めています。その処理方法として一つには破棄する方法があって、ただし、この場合は一〇〇%では無い、場合によっては、たとえ小さな確率であっても本社、あるいは他社へ迷惑をかける可能性が残っているということ、 二番目には、送信元へ送り返せば一〇〇%本社や他社へ迷惑をかける事は絶対に無い、と言う結論です」
明子がここまでまとめると、社員はみな頷きながら彼女を見つめていた。
「ここで我々の総意としては、本社あるいは他社へ迷惑をかける可能性が僅かでも残っている以上、送信元へ送り返すことを選択せざるを得ない…… そういう認識でよろしいですよね 」
明子は冷静に皆を見回しながら、この結論が会社の総意であることを皆で確認しようとした。
誰もがそのことを了解し、この愛くるしい娘に責任が生じるようなことがあっては絶対にならない、そう考えていた。
「会長、会社としてこういう結論でよろしいですよね 」
「会社として送り返すこと選択しましょう」たか子は大きな瞳を見開き、みんなに向かってはっきりと明言した。
「奈々子ちゃん、発信元に送り返してくれる! 」
彼女が続けて奈々子に話すと
「了解でーす」奈々子は嬉しそうに、すでにその準備をしていたのであろう、実行ボタンをクリックした。
このウィルスは発信元が解らないように、海外を経由して送られてきたのだろうが、発信元へ帰る場合、自らが通った道筋をたどることができるので、そんなことは無意味だった。
彼女は、ウィルスを止めるとともに、それによって破壊された部分が自動で修復を始めるようにプログラムを施していたため、それらが驚くような勢いで修復を開始した。
観察用のパソコンをモニタリングしていた社員が
「すごいです、すごい勢いで修復が始まってます、どうしてこんなことになったんですか、とにかく凄いです」
それを聞いた奈々子はにこにこしながらたか子に向かってvサイン送った。
結局この日は、明日に備えて博多での宿泊をキャンセルし、夕方の飛行機で東京へ折り返した。
飛行機の中で、奈々子は申し訳なさそうに口を開いた。
「あのねママ! あのウィルス、中学生の時に私が作ったの…… 」
「えっ、それじゃあ、あれは佐久間のものなの? 」驚いたたか子が尋ねると
「当時の部長さんに頼まれて内緒で作ったんだけど、その人はもう今は退職して佐久間にはいないの」 奈々子は申し訳なさそうに説明を続けた。
「その人が個人でこんなことをするなんて事は考えられないわね」
明子が横から口をはさんできた。
「私もそう思うの、だからそれを受け継いだ誰かが、佐久間から発信したとしか考えられない 」奈々子は冷静に分析していた。
「いずれにしても、ウィルスを送り返された発信者は、大変なことになるわね、明日にははっきりするでしょう」明子が付け加えると
「もう既に大変なことになっていると思うよ」奈々子は彼女に似合わない真剣な表情を浮かべ、ふっと遠くを見つめた。
「でも今日の一件は、本当に奈々子さんのおかげで助かったわ、皆もあんなに喜んでいたものね、ほんとにたいしたものだわ」
明子がそう言うと
「テヘェ、ママ誉められちゃった」奈々子が右に座っているたか子の左腕にすがり、照れくさそうに彼女を見つめて笑った。
その頃、佐久間商事では大騒ぎになっていた。
なすすべもなく全てのコンピューターが、自ら発信したウィルスによって破壊され、すべてのデータが消去されてしまった。
「どうして何もできないの、あなたが発信したんでしょう、どうしてこんなことになるの、何か失敗したんでしょう」社長夫人の佐久間亜美はヒステリックに怒鳴り散らしていた。
現在の情報部長は、将来自分の立場を守るために使うようにと言われ、前部長からこのウィルスに関するデータを引き継いでいたのだが、二日ほど前、亜美から「松島薬品を何とかしなさい」と命じられ、止む無くこのウィルスを発信したのだった。
彼はこのプログラムについては時間をかけて何度も検証してみたが、結局理解することができずに諦めてしまっていた。
したがって当然のごとくこのウィルスの威力もそれによる報いも全く理解できていなかったのが現状である。
翌日この事がマスメディアで大きく取り上げられ、テロの疑いなども取りざたされ、警視庁サイバー攻撃対策班が動き始めた。
しかし、当の佐久間商事は、あくまで当社の事故によるものと発表し、警視庁の介入を認めなかった。
そのため情報部長が事情聴取のため、警視庁に出頭を命じられたのであるが、彼はあっさりと事実を話してしまった。
そのことにより攻撃を支持した副社長の佐久間亜美も警視庁サイバー対策班から出頭を命じられた。
警視庁から問い合わせのあった松島グループ支配人の高島明子は、攻撃した犯人が佐久間商事と言う事を聞いて驚いては見せたが、特に被害を訴える意思がないことを申し出た。
サイバー対策班においても、このウィルスの検査が行われたが、誰一人としてそのプログラムを理解できるものはなく、全容解明には半年近くかかるのではないかと言われていた。
こうした背景の中で、松島グループが訴える意思を持っていないこと、加えて、被害を受けたのがウィルスを発信した当事者であったことなどから、このことが事件として扱われる事はなかったが、ただ、佐久間商事は厳重な注意を受け、今後の有力な監視対象となってしまった。
この事件により、佐久間商事の株が大暴落をする一方で、ガンの特効薬サクマの買い取り価格が高騰を始めた。
そこに目をつけた副社長は、意識的にガンの特効薬サクマの出荷を大幅に抑えた。
すべてがシステムダウンし、データも消却し、完全に信用を失ってしまった佐久間商事は、このガンの特効薬サクマを切り札に収益の回復を図ろうと考えていた。
もはや会社の資金は底をつき、このガンの特効薬に頼るしか道は残されていなかった。
しばらくの間はこの高騰により会社の収益も順調に回復し、軌道に乗り始めたところではあったが、消費者の不満が募り、厚生労働省までが立ち入り調査を行うなど深刻な事態となっていた。




