動き出した松島グループ
動き出した松島グループ
七月中旬、ある日の夕方、松島グループ支配人の高島明子はアパートの手前で車を止めて待っていた。
午後六時ちょうどであった。
しばらくすると、佐久間商事に勤める多田秀樹が帰ってきたが、俯きながら静かに歩みを進める彼には覇気がなく、ただ流されて日々の生活に身を委ねているのだろうか、全体から受ける印象は、暗く、とても博士と呼ばれる人のようには見えなかった。
あたりはまだ明るく、目的を持った人の動きがはっきりと見て取れる中で、博士を尾行している男を認識するのは割と容易であった。
彼女はその男が引き帰して行くのを確認すると、静かに車から降りて彼に近づいた。
車で二十分ほどの料亭吉川に案内された彼は、松島グループへの移籍を打診された。いや、それは打診というよりはむしろ切望されたに近かった。
父親の借金返済のため佐久間商事に立て替えてもらっている三千万円は松島が用意し、支度金ということで返済は不要であるということに加え、研究に専念してもらうために、彼とその娘には松島の家に住んでもらって、家事一切は松島で責任を持って対応するという話を聞いて、彼は困惑していた。
医薬化学の分野では知る人ぞ知る天才であったが、こと人との関わりあっては全く子供と変わりなかった。
彼は条件が良すぎる話であるが故に信じることができず悩んでいた。
「私一人であれば、何がどうなっても仕方ないと思っているのですが、娘がいますのであの子の人生まで巻き添えにすることはできません。だから、こんな良いお話をいただくと逆に不安になってしまいまして、先ほどから娘の顔が浮かんでくるばかりで…… 申し訳ないです。できるだけ早くご連絡させて頂きます」
彼は素直に胸の内を明かした。
帰り際に、彼は持ち帰り用に準備された折の詰め合わせを三食分渡され、話しが決まっていないこの段階では遠慮したかったが、それでも娘、奈々子の喜ぶ顔が眼に浮んで、不安の内にもそれを受け取ってしまった。
その夜、久しぶりのごちそうに目を輝かせながら箸をつける奈々子を前に、秀樹は松島グループからのオファーについて話した。
「あまりに話しがうますぎて、どうもしっくりこない。だいたいこんないい話しがあるのだろうか……」
何とも信じがたい雰囲気であった。
秀樹は疑心暗鬼の中から抜け出せないでいたが、それでも心は大きく揺れ動いていた。
一方、話を聞いた奈々子は、松島の家での生活に非常に興味を持っていた。
( おなかいっぱい、おいしいものが食べれるかもしれない! )
この思いが彼女を前向きにしていた。
「だいたいさー、パパは疑っているみたいだけど、どんなことが考えられるの? 私たちを騙して連れていって、どんなことができるの? そっちの方がよっぽどあり得ないっしょ! どんなことになったって、今より悪くなることはないよ」
「確かに……」
「疑ってみたってしょうがないっしょ。いつまでも佐久間なんかにいたらだめだと思うよ。パパは何もできていないでしょ。それに、これおいしいね。この三食っていうのが、何とも嬉しいね。これであと三日は私の頭も生きていけるよ……」
「……」秀樹は嬉しそうら食事を続ける娘に微笑んでいた。
「もういいじゃない、ここらで何か変えないとこの棺桶からは抜け出せないよ。もし本当の話なのに疑ってばかりいたら、こんな失礼なことはないよ。それに私はもうこんなところにはいたくない…… おなかいっぱいご飯が食べたい、おいしいものも食べたい、肉が食べたい、私の脳が栄養を求めているのよ!」
秀樹はこの言葉に迷いが吹き飛んでしまった。
決断できない彼の背中を押すのはいつも奈々子の一言であった。
( 確かにこれより悪くなることはないかもしれない、こんないい話に乗らないのは愚かかもしれない……)
「わかった。いくか……」
「行こう、何かが変わるよ、行こうよ、行こう!」
奈々子はとても嬉しそうだった。
夜の十時を過ぎていたが、
「遅い時間に申しわけありません、今日のお話なんですが、娘と相談いたしまして受けさせていただきたいと思います。どうかよろしくお願いいたします」
秀樹は高島明子に電話を入れた。
母を早くに亡くした多田奈々子は父親の秀樹と二人暮らしであった。
大学で教壇に立ちながら研究を続けていた薬学博士の父親、多田秀樹は亡くなった父親の借金を抱え困惑していた時に、佐久間商事から言葉巧みに誘われ、財産を持っていない父親からの相続を放棄する方法もあったが、それは父親の名を傷つけることにもなり、さらにこれまでの父親の研究を無にすることになると説かれ、 彼は止む無く、佐久間商事に勤めることを条件に、父親の借金三千万円を無利子で借り受けること、さらには娘の高校進学の面倒を見てくれるという提案を受けた。
しかし、佐久間商事では思うような研究ができない父を心配して、高校生になった奈々子は何とか三千万円を返済したいという思いから日々の生活を切り詰め貯蓄を行っていたが、そのために彼女はその頭脳の源とも言える食費を切り詰め空腹の毎日を過ごしていた。
もともと父親の多田秀樹は知能が高く医薬化学の世界では第一人者と言われる研究者であったが、奈々子の知能はそれをはるかに上回り、そのことに気がついた父親は彼女のその知能を可能な限り人目に触れないように細心の注意を払っていた。
学校でも奈々子の知能のことを知っているのは、親友の裕子と真紀の二人だけであった。
そんな中で高校二年生の一学期をスタートした奈々子は、 二人の親友に支えられ何とか空腹をしのぎながら日々の生活を送っていた。
裕子の家庭は父親が医者であったためかなり裕福で、奈々子は遊びに行くたびに空腹を満たして帰っていった。
真紀の母親もまた優しい人で、奈々子の事情を聞いて、ことがある度におにぎりやサンドイッチを用意し娘に持たせた。
それぞれが何とか日々のやりくりをする中で、一学期も後わずかとなっていた。
話は戻るが、多田秀樹から連絡を受けた翌日、明子は、松島グループ会長のたか子に奈々子を見ておいてほしいとの思いから彼女の下校時刻を狙って、二人で出かけて行った。
車の中から様子を見ていると、しばらくして奈々子が二人の友人と楽しそうに話をしながら校門から出てきた。
彼女を見たたか子はそのオーラの強さに驚いた。これまでに感じたことのない、とてつもないエネルギーを秘めているように見えて、たか子は一目で彼女に魅せられてしまった。
博士の移籍が大儀であったにもかかわらず、娘の奈々子を見てしまったたか子は、この娘を我が家に迎えいれることの方がはるかに大きな目的になってしまった。
「普通の子じゃないわね!」
「はい、私もそう思います。はっきりとしたことはまだわかりませんが、どうも能力は相当に高いのではないか、そういう噂があります。ただ、早くにお母さまを亡くされていますので、情緒面ではやや問題があるかもしれません」
「かわいい顔してるわね、あの愛くるしさはなんなのかしらね…… でも服が色あせてるし、革靴も汚れているわねー、気にならないのかしら…… 用意してあげてね」
たか子は、娘を見守る母親のように穏やかな眼差しで彼女を見つめていた。
「はい、すべて準備を進めています。 私も女の子のそういった面は特に気になりますので……」
「あんな娘がいたらいいわねー」たか子が切なそうにほほ笑むと
「でも会長、あの子の面倒を松島の家で見るということは、誰かが母親代わりをしなければならないということですよ」
母親として奈々子に関わって行きたいというたか子の気持ちを察している明子が、そのことが必然的であるかのようにたか子の思いに向けて答えを導いていく。
「えっ、そうね…… でも私にできるかしら?」 彼女は明子に肯定して欲しかった。
「申し訳ないですけど、私は忙しくてとても手が回りません。会長に頑張っていただくしかないですね」
「それはうれしいけど…… 私みたいな者でも、あんな娘の母親になれるかしら…… せめて真似事だけでもできればうれしいんだけど…… 」
静かに奈々子を見つめる彼女はこれからの楽しみの中にもどこかぬぐいきれない悲哀が自らの運命と相まって、時折顔を覗かせるのはどうしようもなかった。
二人はそんな話しをしながら多田親子が引っ越しって来る日を心待ちにしていた。
秀樹が誘いを受け入れてから三日目の夜であった。
「すべての準備が整いましたので、明後日に退職の手続きとともに借入金の返済を一気に行う予定にいたしております。明日は通常通り、最後の一日を勤めて下さい。帰る時にもいつものように何も言わず帰って下さい」
「はい……」
「明後日は、弁護士がすべての手続きを行いますので、博士は家でお待ちください。午前十にお迎えにあがります。奈々子さんは明日から夏休みですから問題ないですよね」
事務的に話す明子であったが、その声はいつになく弾んでいた。
静かに一日を過ごしたあと、引っ越しの日がやってきた。