美しき人のためのトロイメライ
坂本龍一「Merry Christmas Mr.Lawrence」を聞きながらお読みいただければ幸いです。
※一部グロテスクな内容が含まれます。
この音を、知っている。
唸るような、地の底まで震わせるような音。その轟音は、重たい匂いをまとっていくつも飛んでくる。のろのろと通り過ぎながら、下にいる人々の口をふっと噤ませる。あれの下では、世界が急速に陰るのだ。陰鬱な圧に押し付けられて、心はぐったりと地に伏してしまう。それらが完全に過ぎ去っても、周りの音は暫くの間死んだままだ。それが近づく度、私の内側は空っぽになる。音が死ぬからだ。きっと音が永遠に死んだら、私は永遠になくなってしまうのだろう。永遠というものがあるなら。
暫く飛んでくることのなかったそれが、また最近飛んでくるようになった。ほんの十日程のことだ。前にあれが飛んでいたのはもう何十年も前のことで、あの頃は私に触れてくれる人がいた。それからあの人は出て行って、あの人の家族が出て行って、そうして私だけがこの部屋に残された。
この重たい匂いは、大きな大きな鈍色の雨になって降り注ぎ、大地に落ちて燃え上がる。とにかくひどい音がするのだ。巨大な拳が地面を殴るような爆音。そして眩い光とともに炎をばらまく。前に降った時は、窓の向こうに見えていた街が丸ごとひとつ焼け落ちた。私はそれを見ていた。街は、この辺りでも一番多くの人々が住んでいて、一番沢山の家が集まっているところだった。だからあの雨が降ったのだろう。焼けた街では沢山の人々が死んだ。誰かがそれを望んだのだ。あの頃の人々は、死ぬことと殺すことで頭がいっぱいだった。
……今もそうだろうか?
より多くを殺し、なるべく死なない。少なくともあの頃の人々の頭には、それしかなかった。そんな話をしているのを、何度も何度も聞いた。その度にあの人はそっとこの部屋へ入ってきて、私を見て困ったように笑った。すとんと目の前の椅子に腰掛け、私の蓋を開け、クロスを退ける。そして楽譜も置かずに私に触れて、水の流れるような滑らかさでメロディーを紡ぎ出す。その一部はレクイエムで、他のほとんどはノクターンだった。
あの人の紡ぐ調べは、死んだ音を包みこんでゆったりとあやすかのようだった。調べに導かれるように世界はふっと息をつく。あの人のために音を出している間、私は氷柱を透かして差し込む光のような響きに満たされた。それはきっと人々がいのちと呼ぶものの一面で、あの人が私に触れるときだけ、確かに私の中にあった。
レクイエムは死を悼むもので、ノクターンは夜を表現するものだ。私はそう知っている。あの人の弾く曲はどれも、レクイエムでもありノクターンでもあった。漆黒の空を見上げて、遠い昔に失われたもののことを想うような、静けさの中にちかりと光る寂しさ。届かぬものでありながら確かに繋がっている誰かへの憐れみと愛しさ。あの人はいつも、淡く笑みを浮かべてそれらの曲を弾いた。その度に私は、私を満たすいのちに酔いながら、どの死者に捧げるレクイエムなのだろう、どの夜に捧げるノクターンなのだろうと思いを馳せた。
死者も夜も、毎日私のそばにあった。
窓の外にはいつも、淡く光をまとったいのちが空へと昇っていくのが見えていたのだ。大きなものも、小さなものもあった。色も、形も違っていたけれど、一様に粉砂糖のような光をまとっていた。それらが空へ昇っていく様子は美しかった。あの頃はまだ、それ以外の感覚は浮かんでこなかった。私は美しい音を生み出すために人に生み出されて、美しいもの以外を受け取る力を持っていなかったのだ。あの頃はまだ。あの人がそれを教えてくれる、ずっと前だったから。
世の中というのは全体にあまり美しくはないのだと、あの人はいつだか言った。
――人の手で人が死ぬ世界なんて全く美しくない。困ったものじゃないか。私は美しいものに囲まれていたいだけなのに、どうしてかな。世の中の方がどんどん汚れていくんだ。誰も望んだわけじゃないだろうに、そうなってしまう。……本当に、どうしてかな。
あの人の悲しみは美しかった。
あの美しい人が悲しみの中に、美しくない世界の中に息をしていることが私は悲しかった。悲しくて、そして、とても美しいと思った。闇の中に浮かぶ星の美しいように、人が人を殺める世界で、透き通った音楽を持つあの人が生きていたから。私に触れて、いのちを与えるから。いのちもまた美しいものだったから。
けれど。
もっと美しいものは、あの人と繋がった時に初めて、分かった。
* * * *
私とあの人が初めて繋がった日、夜明け前から霧雨が降り出していた。
朝早くに訪ねてきた人がいて、話を聞きながらあの人の祖母と妹が泣いていた。私はその声がレクイエムの響きを持っていること以外、何も分からなかった。あの人の祖父はじっと押し黙っていて、気の遠くなるような時間の果てに何か唸るような言葉を発するまで、何一つ物音を立てなかった。その声は抑え込まれていて平板だった。それからあの人と妹は出かけていき、祖父母は暖炉の傍でじっとしていた。
夕方になると雨はさらさらと音を立てるようになった。あの人が震える声で祖父母を呼びに来て、みんなで出て行った。夜中になって帰ってきた三人は一言も話さなかった。三人の沈黙は、空の轟音に殺された音と同じ沈黙だった。屋根に跳ね返る雨粒はぱちぱちと音を立てて沈黙を埋めようとしていた。
帰って暫くしてから、あの人が妹の部屋へ入っていく足音がして、それからあの人は真新しい楽譜を持って私のところへ来た。表情の消え失せた平らな顔をして。あの人が楽譜を持ってくるのは初めてだった。
あの人はゆっくりと、実にゆっくりと、一音一音を噛み締めるように弾いた。
楽譜に閉じ込められていたそれは、ノクターンでもレクイエムでもない、私の知るどの曲でもない旋律だった。押さえつけられたように静かで、凍えそうな色をしていた。雨は降り続いていた。私の鍵盤は湿気を含んで重たく、そのせいもあってか、あの人の演奏は明らかに遅すぎるものだった。けれど、雨音とその曲はとてもよく溶け合った。水の雨の降る日は、鈍色の雨が降ることはない。どんなにゆっくり弾いたところで、曲が途中で壊される心配はない。
そうしてゆっくりとその曲を弾きながら、あの人は急に顔をしかめて、耐え切れなかったというようにほろりと涙を零した。その雫が私の鍵盤の上に触れた瞬間、あの人の思いが曲に乗ってゆらりと立ち上がるのを、私は見た。
今でも忘れない、初めて感じたあの人の思い。
あの人は、大切な人をふたり失った。ひとりは友で、もうひとりは妹だった。ふたりの恋をあの人は言祝いだのだ。互いの家族も笑顔でそれを認めていた。
だというのに。
結婚式を挙げぬまま、友のもとへあの紙が来た。友は戦場へ向かった。そして冷え切った塹壕の中、腐った傷の痛みに呻きながら死んでいった。戦線は後退し、友の横たわる塹壕は放棄され、亡骸は手の届かない所に置き去られた。辛うじて持ち帰られたのは、首から下げていた小さな鉛のプレートだけで。
それを首にかけた妹は、裏手のリンデンの枝に首を吊って死んだ。愛しい人を失った悲しみを抱いて、頬に涙の筋ひとつ残さずに。
そしてあの人は、そのどちらの悲しみも分かりはしなかった。ふたりが死んで去って、やっとあの人はそれに気付いた。あの人への誕生日プレゼントにと妹が部屋に隠していた、雪のような曲を弾きながら……。
私はあの人と一緒になって泣いた。泣くということが分かったからだ。そして私も泣いた方が、旋律が美しくなると思った。声を殺して泣く私たちの音は、透き通るような美しい夢になった。音が溶け合って、淡く像を結んでいく。
弾痕の穿たれた焼け跡の街に、純白の雪が降り積もっていった。
流れた血も、腐りゆくのみの亡骸も、抜け殻になった家も砕け散った硝子も、一面に散乱する空の薬莢も、全てが、雪に埋められていく。墓穴の中の体に土の降りかかるように、ゆっくりと、少しずつ。それでいて確かに。きっとそれは清かった。人の手には築くことのできない、透き通るように清い世界だった。
私は、あの人の抱いている雪の世界を愛した。例え世の中というものを生きていくのに不要な、余計なものであっても。街が焼け、人が死んでいく、その間に息をする人にとっては毒のようなものであったとしても。
私の中に残された夢は、氷の結晶のように瞬いていた。その煌めきが、そのひとしずくが、私に人というものの何たるかを教えてくれた。思いを与えた。美しくないものを慈しむというあり方を示した。私はいのちを得たのだ。人に生み出された存在としての、いのちを持つ私を、私は祝福した。私にいのちが、思いがあるのなら、あの人の思いとひとつになれる。そうして紡いでいく世界は、より一層美しさを増していく。
私とあの人とは、そうしていくつもの世界を描いていった。
ひと月ほどの後、雪の世界を途中で絶って、あの人は部屋を出ていった。
丁寧にクロスをかけ直して、蓋を閉めて、楽譜を私の上に置いた。名残惜しそうに、あの人は私の鍵盤を端から端までなぞった。それが最後だった。あの人のもとにも、紙が来たのだ。あの人は戦場へ行った。人を殺すために。
あれ以来、私に触れた人はいない。
* * * *
使われない私は死んでいるのと同じだ。レクイエムも、ノクターンも、あの雪の旋律も響かない。開かれたままの楽譜の上には、薄く埃が積もっている。誰もいない。私だけがここで過去の夢に浸り、時折ほろんと、ひとつきりの音を立てる。だが、それだけだ。私だけでは、小節どころか、和音のひとつさえ生み出すことはできない。
あの人はそのことをよく知っていた。
私が音を立てる度、呪われたピアノだという声が聞こえた。あの人はそれを聞いて笑った。あれはただ、弾いてほしいだけなんだよ。僕が恋しいんだ。正しかったのはあの人の言葉だ。ピアノの声を聞く狂人だとあの人は言われた。この世にあれ以上のピアニストはいない、あれほど美しい夢を見せるピアニストはいない、とも。
……ほろん。
ああ。また鳴った。
あの人以上のピアニストはいない。そのことを思い出す度、どこか深い奥底から震えが沸き上がってくる。その震えは私の中に満ち、弦に伝わったそれが、音となってほろんと鳴る。それは決まってあの雪の曲の、最初の一音だった。黒鍵の、角のない、それでいて凛とした響き。深く冴え渡った湖に、ひとつの雫が落ちるような音。降り始めの、錯覚かと思うほど細かな雪のひとひらにも似ている。淡い風に揺れ、煌きながら軽やかに。ゆっくり。ひとつ、またひとつ。白とも灰色ともつかない空から降りてくる。そのひとひら。
本当に雪が降る日、私の体は重くなってしまう。重い体は弾きづらい。そういう日には音まで重くなってしまってよくないのだ。よく晴れた日に軽い音で響かせる、その方がこの曲に似合う。調べの中だけに浮かび上がる、冷たく静かな雪景色。あたたかな日だまりの中、淡い物悲しさを帯びた旋律に浸るのは素晴らしい心地だった。
それも、あの人が私に触れたからできたことだった。
あの人は私に蓋をして去って、それきり戻ってこない。戦場に行った。それからきっと、世の中に帰っていったのだ。沢山殺すこととなるべく死なないこととに満たされた、美しくない世界へ。私と紡いだ夢に蓋をして、苦しみを覆い隠して、鍵盤ではなく引き金に指を掛ける世界へ出ていった。あの人が帰ってこないのは、ふたつにひとつだ。殺されたか、或いは生きているか。生きることを忘れたか、生きることに必要でない夢を忘れたか。
それでもあの人を待っている。
あの人には必要でなくなったとしても。それでも、私にはあの人が必要だった。美しい音楽のない世界では、私は錆び付いて朽ちてしまう。夢に酔う力を失って、世界の一部になり下がる。
唸りのような、重たい羽音と匂いが近づいていた。
まただ。また、ひどい音がする。
その感覚に、現実の世界に引きずり出される。私は体を固くした。今度こそ、私もこの家も鈍色の雨を浴びるかもしれない。夢にも似た、かたちのない思いが私を軋ませる。じっとその瞬間を待っていると、それは耐え難い大きさと強さで他の音を根こそぎ殺してしまった。重たい匂い。炎の予感。ひどく長い数秒の後で、来た方とは反対へ遠ざかっていった。轟音は少しずつ細く、それから暫くして、少しずつ周りの音が戻ってくる。私は少し、ほんの少しだけ緩む。
鈍色の雨は降らなかった。
きっとその代わりに、また別の街が同じように焼かれるのだろう。
前の時も、私の街は焼けなかった。それを知っていたから、あの人はここへ来たのだった。隠れ家なのだ。あの人が死なないために逃げてきた隠れ家。あの人のいのちを守る場所。
そこに私はある。
* * * *
別の唸りが、軋むような音とともに近づいてきた。
さっきの音よりもずっとずっと低い位置を、がたがたと揺れながら近づいて来る。あの人がここを去る前にも同じ音がした。人は、長い道のりを移っていく時に似た様な音を立てる。車輪の音だ。それは規則正しく、格別美しいというわけではないがよい響きを含んでいた。純朴な音。本当は私にも車輪が付いている。ただ、使われた記憶はない。私は僅かな距離ですら、移ることはないからだ。
車輪の音は近くで止まった。色々な音が一斉に起こって、その、長いざわめきの後で。
がちゃりと、鍵の回る音がした。
それが本当に鍵の回る音なのか、すぐには確信が持てなかった。けれどそこに、扉の開く音が続く。かつて毎日聞いたそれよりも、少しざらついた音。扉の方もきっと、開けられ方を忘れていたのだろう。そう思うようなぎこちない音だった。
やっと私は理解した。玄関が開いたのだ。
私の中には、春風の匂いのようなものがさっと広がった。湿った、あたたかなものの予感。変化の匂い。何か、今までになかったことが起こる。それが好ましいものかどうかは、まだはっきりとはしなかった。
玄関の方から硬い靴音の間に、葉擦れのような、それよりもっと低い音がする。それが何であるかに思い当たると、私はぴんと張り詰めた。
人の声。
私の部屋の扉が身を震わせて、隙間から這い込んだ空気は嗅いだこともない匂いをしていた。私はこの匂いを知らない。知らないが、それはきっと、あの鈍色の雨に晒された街と同じ匂いなのだと思った。火薬と、煙と、血と。腐った傷口と、計り知れない苦しみと。その夢だけで、私の中の全ての弦が断ち切れてしまいそうな気にさせられた。私の全体がその匂いがもたらすものの前に燃え上がって、ひとつ残らず灰になって、何もかも失われてしまうかもしれない。
匂いは、少しずつ近づいてくる。誰か、人の纏っている匂いなのだ。私はより一層張り詰めた。音を奏でることとは無縁の人間に違いない。だとしたら、私はどんな扱いを受けるか分からない。本当にこの弦が断たれ、体は灰に帰されるかもしれない。
その時私はどうなるのだろう。人のようにどこかへ昇っていくのだろうか。あの粉砂糖のような光をまとって。もしそうなったなら昇った先で、私と旋律とその夢とは、美しいままで存在しうるのだろうか……?
私の前の扉が開いた。途端に、匂いはむっとその濃度を増した。
あまりの強さに私は、全てを閉ざしてしまいたくなった。それは、扉を開けた人の着ているものから立ち上っていた。枯れ草色の服。皺だらけで、何かの染みのようなものが全体に散らばっていた。そういう模様のように見えなくもなかったが、それにしてはアンバランスで、均整が取れていない。これも染みだらけの、黒い鍔のついた帽子を被っている。それを、その人はゆっくりと外した。白の中に灰色の混じった髪は柔らかく、帽子の形にひしゃげていた。辛うじて整えたような口髭も同じ色をしていた。その人は年老いていた。顔には多くの皺が刻まれ、伸びた背筋のどこかに疲れを滲ませていた。
その人は帽子を持ったまま、緩く握った拳でそっと唇に触れた。ちかりと、私の中に瞬くものがある。あの人も昔、よく同じ仕草をした。困った時にやるのだ。あの人は時折、祖父の古びた軍靴を持ち出しては、それを履いて遊びに出かけた。道もないようなところをふらふらと、でたらめに歩いてくるのだ。そうして靴を泥まみれにしては、ひどく怒鳴られていた。
その軍靴の足音に、目の前の人のそれはよく似ている。
唇に拳を当てたまま、その人はゆっくりと近づいてきた。何も言わないまま、空いた側の手で、私に積もった埃を払っていく。その手はごつごつとして、木のような硬い皮膚が掌を覆っていた。埃はもうもうと舞い上がり、その人は顔を顰めて口と鼻とを覆った。南向きの窓へ大股に近づき、いっぱいに開け放つ。もう気の遠くなるほど長く感じていなかった、窓硝子を通さない日差し。外の空気。その人が西向きの窓も開け放つと、そよ風が私の隅々まで撫でて過ぎていった。淡く橙色を帯び始めた空は明るく、くっきりとしたシルエットでその人を浮かび上がらせる。
窓枠に背を預けて立ったその人は、相変わらず不吉な匂いを纏ったままだった。それでも私の体は少し柔らかさを取り戻していた。佇むその人のシルエットは滑らかで綺麗だった。この人はきっと、ピアノを灰にするような存在ではない。
細い目の奥の瞳が私をじっと見つめていた。影の中でそれはちらりと光った。それから、満足したように小さく何度か頷いて。
――変わらないね。
その人は、そう言った。掠れた声を、魂の底から吐き出すようなため息に乗せて。
私はまだ、確信が持てなかった。あの人の声はもっと、高い響きを持っていて、こんなに奥行きのあるものではなかった。あの人の声ではない。それは確かだった。
――ミスタ・ローレンス。
窓辺の人は、顔だけを部屋の入り口へ向けた。扉の外に立つもうひとりの人は、窓辺の人と同じ格好をしていた。肌は白く艶やかで、服もどこか真新しいように見えた。部屋の外の人は若く、あの匂いをまとっていなかった。匂いは窓の方からばかり流れてきて、揺れながら私の体を撫でて過ぎる。
――お荷物は、トランクひとつだけでしょうか。
――ああ。そうだよ。
窓辺の人はどこか照れくさそうに笑って言った。
――何も持っていかなかったし。何も、得なかったしね。
部屋の外の人は僅かに身を固くし、無言のうちにそれを咎めるような目をしていた。窓際の人は苦笑を浮かべて、緩く首を横に振った。
――いいや。何も得なかったんだよ、本当に。君もきっと、失う。あまり大声では言えないけれど。
――自分は、直接戦場へ向かうことはありません。
――それでもだよ。きっと君は失う。
窓辺の人の瞳が重く暗いものを孕む。それは私の奥底を凍りつかせるかのような色をしていた。あの人は、こんな目をしたことはなかった。この世は美しくないと嘆いた時ですら、今私を見つめている目の、その半分以下の濁りしかなかったはずだった。
だというのに、そっと視線を外した横顔はどこか見覚えがあって。
――前線に出て、帰ってきて。僕はただ汚れただけだよ。……勿論国は言うよ、汚れた君は素晴らしいって。よくぞ汚れた、私たちの誇りだ、って。でも、そんなものと引き換えになんて出来やしない。もっと、どうにも救いがたい奥底の部分が、戦場の汚れに侵されるんだ。自分という人間の根を支える、奥の奥の部分が。
伝わらないだろうな、とその人は塗り重ねるように苦笑した。それから徐に私の方へ歩いてくると、座面の埃をまた丁寧に退けた。私の中に何かが煌めいていた。ほとんど確信でありながら、それを否定するような揺らぎ。忘れずにいてくれたのだという思いと、帰ってくるはずがないという思い。その人の指先が私の鍵盤に触れる瞬間を、私は望み始めていた。触れ合った瞬間に全てが明らかになるのだと、私の中の何かがそう鳴った気がした。
――お弾きになるのですか。
そう問われて、私の前の人は小さく頷いた。あの人と同じように、口をきゅっと横に引っ張って。
――昔のことだけどね。君は?
――いえ。実物を見たのも初めてです。
――そう。
その人はこほんとひとつ咳をして、目の前の埃を払うように何度か手を振った。それからちらりと、私の上に乗せられたままの楽譜に目をやった。手に取って、ぱらぱらと捲る。また少し埃が舞って、顔を顰めながらそれを手で払う。譜面を追っているらしいその人の眼差しからは、あの濁りは消え失せていた。
ふっと目を上げる。
――聞きたいかい。
――宜しいのですか。
――うん。ピアノは物資じゃないからね。聞きたい人と弾きたい人がいるなら、いくらでも弾けばいいんだ。……あとは、ピアノ次第かな。
――ピアノ次第?
その人は返事をせずに椅子へ腰掛け、優雅な手つきで私の蓋を開けた。未だ深い紅を保っているクロスを、くるくると丸めるように畳んで取り除ける。鍵盤が空気に触れてぴんと張り詰める。ざわりと私の感覚は鋭敏さを増して、触れられてもいないペダルが軋みそうになる。譜面台を開いて、弦の調子を透かし見るようにじっと私を見つめた。左手を膝に置いたまま、右手だけを持ち上げて。少しだけ、微笑んで。
そして。
その指が、最も低音を響かせる鍵盤の表面に、そっと触れた。
瞬間。
反射的に私の中を、細かくきらきらとした泡のようなものが走り抜けた。まだ押し込まれていない弦が芯から震える。それは、これから始まる素晴らしい何かの前触れだった。指先は鍵盤を押し込まずに、そのまま滑るように低音から高音へと渡っていく。分厚い皮膚の乾ききった指先は、柔らかく繊細なあの人の手とは異なっていた。昔、私に触れたあの手と同じではなかった。
それでも。
鍵盤の端から端までをなぞり終えた指先が迷うことなくあの黒鍵に触れ、慈しむような柔らかさで押し込んだ時。私は確かに、あの雪の夢のひとひらを感じていたのだった。
かつて夢の中に安らいだ私のいのちが、日の出のような眩しさで光を放った。私の弦ははっきりと震え、微かな音の欠片をそこにまとわりつかせた。昇ってゆく魂が纏う、粉砂糖のような光に似ていた。目の前の人が鳴らした音は寄り添う幾多の音の中で深みを持ち、それからあの人は、そう、紛れもないあの人は、その指が柔らかかった頃のように目の端を下げて、笑った。
――弾かれたいってさ。
あの人は、やはり正しかった。
鍵盤を離れた指を、音の余韻がするりと撫でた。部屋の外の人は何も言わなかった。その耳が既に私の音だけに向けられていることは、あの人にも分かっているのだと思った。少し迷ってから、あの人は楽譜を慎重に譜面台に置いた。その上着は相変わらず恐ろしい匂いを纏っていたものの、彼がそれを脱いで床に落とすと、幾分か軽くなった。私は自分の体をなるべく柔らかくしようとした。鍵盤とペダルに集中しようとする自分を散らして、私という存在の全てで反応できるように、私を開く。
真っ白な長袖を、あの人は丁寧に捲る。まず右腕、それから左腕。深呼吸をひとつ。
そして。
ゆっくりと滑り出す、あのフレーズ。小さな雪のひとひら。
昔弾いたよりずっとずっとゆっくりとした調べは、何かの切っ先に触れようとするような緊張を孕んでいる。溶け落ちまいとする氷柱の先端のように。それが、少しずつ解けていく。溶け合うように、彼の心が音の中へ滲み出して、あの焼け落ちた街の夢を形作っていく。私はその中に、飲み込まれていく。
* * * *
目の前の街、その景色は、明らかに凄惨さを増していた。
顔のない死体があった。呻きが、叫びが、あらゆる方向から聞こえてきてぶつかりあう。乾いた銃声がそれを鎮める。その残響が廃墟に反響する。塹壕の中からいくつもの手が突き出している。戦車が火を噴いて、中から焼け焦げた上半身が乗り出していた。全ては死体の上に立っていた。全てが燃え、焼けて、苦しみに張り裂け、祈りを踏みにじられて、やがて力尽きて死んでいく。炎ばかりが激しく揺れ動く。
「私」が顔を上げると、正面から銃剣を構えた兵士が突撃してくるのが見える。その切っ先はまっすぐに「私」を捉えている。帽子の鍔に隠れていた目元が顕になると、それは涙に濡れて、黒く汚れた頬にくっきりと痕が残っていた。近づいてくるその顔は、声もなく絶叫していた。恐怖をありありと浮かべて、その人は叫んでいた。
死にたくない。
血に濡れた合間にちらつく炎の色を映した刃が、突き出され、差し込まれようとしたその時、一際大きな銃声が「私」の左耳を掠めた。同時に、左耳に強い衝撃が走って、急に音が遠くなった。きいん、という高い音だけが目玉の奥を貫いていくようだった。
バランスを崩して倒れこむ視界の中、激しく炸裂する火花の隙間で、目の前の兵士の左顔面は細かな肉の破片に成り果てながら吹き飛ばされていった。その体は殴られたように首を傾げながら、「私」と同じ速度で倒れていく。噴き出したものがその色も分からないまま、地面に落ちて染みになる。その幾許かが「私」の左顔面にかかってびちゃりと音を立てた。視界が左だけ赤に染まる。そんなはずはないと分かっていても、世界は赤との重ね合わせになって、どろりと溶け落ちそうでさえあった。目玉がひっくり返りそうだった。左半分のない頭は断面を私に向けて転がっていた。白いものと黒い液体が入り乱れて何が何やら分からなかった。それが人間だということだけはハンマーの一撃のようにがんがんと響いて、「私」は嘔吐した。胃液とレーションの味がする完全にペースト状の吐瀉物が溢れ出て顎を汚した。飛び散ったそれが人間の断面に斑点をつけた。
駆け寄ってきた誰かが「私」の襟首を掴んで引っ張った。嘔吐きながら立ち上がろうとした足がもつれる。誰かは引っ張るのをやめない。もう一度吐瀉物を撒き散らして靴を汚した。僅かに戻った聴覚がその人の怒号を遠くに聞いた。
止まるな、死ぬぞ。
「私」は震える脚でどうにか歩き出した。後ろからいくつもの足音が近づき、いくつもの人影に追い越される。襟首から手を離した誰かもその人影の後ろに続いて走り出し、前にいた何人かの背中を追い越していった。その人の背中も見る見るうちに小さくなっていく。向こう側からやってくる敵の姿が少しずつ多く、大きくなっていく。その全てが赤く、さっき見た断面と同じ色の中にあった。「私」の足ははたと動かなくなった。吐き気を堪えるために握り締めた銃剣が重い。まだ一発も減っていないそれを投げ捨てたいくらいなのに、がたがたと震える指がしっかと握って離さない。酸に焼けた呼吸がざらざらと神経を削り取っていく。何かの雫がこめかみを伝って落ちていく。立ち尽くしたまま止まった視界の中で、両者の先頭が衝突した。その線上に、一列の、鈍色の雨が降った。
地面が弾けとんだ。
沢山の手やら足やらが宙を舞った。
ぶつり、という音を最後に何も聞こえなくなった。
本能的に一歩退いた、その場所に大きな赤黒い塊が、ぐしゃりと音を立てて落ちた。右半分を削り取られたその顔は尚も叫び続けていた。
止まるな、死ぬぞ。進め。殺せ。殺して死ね。苦しんで苦しんで苦しんで、死ね。死ね。殺して死ね。死ね。止まるな。死ね。国のために死ね。家族のために死ね。お前が。死ね。
それは呪いだった。ひとつしかない目が見開かれたまま、恨みと憎しみの限りを込めて「私」を凝視していた。
「私」は絶叫し、左だけのその目が「私」を見ないように、軍靴の先でそれを蹴飛ばした……。
* * * *
抑えた、静かすぎるフレーズが繰り返されていく。彼の、あまりにも惨い戦場の記憶が、ひとつの夢になって私の中に滲んでいく。
指を運び続ける彼の手は、小さく震えていた。その記憶は、彼の深いところを損なっていた。打ち据え、刺し貫き、何発もの銃弾と炎で砕けさせた。彼は強く顔を顰めていた。あの日、初めてこの曲を弾いたあの日より、遥かに激しいものを殺しながら、彼は私に向き合っていた。彼の魂はずっと、沢山のことを叫びたがっていた。それなのに彼の叫びを聞くべき人々は誰も、夢の中ですら息をしていなかった。あまりにも多くのものが彼の中で死んでいた。
ぎゅっと閉じた彼の目から溢れた涙が、鍵盤の上に滴り落ち。
音のない戦場には、真っ白な雪が降り出していた。
炎は未だ乱れ舞い、鈍色の雨も思い出したように降っては雪ごと世界を焼く。それでも、雪はただ降り続けていた。世界を染める赤が薄れ、洗い流されていく。雪は、少しずつ、ほんの少しずつ、全てを覆い隠していく。鍵盤にクロスをかけるように。赤子を抱いてあやすように。そこに横たわる全てのものを眠らせようとするように。
彼は止めどなく涙を流しながら、それでも手を止めなかった。私が弾かれることを望んでいたから。彼の瞳が、濡れ光りながら私を見つめている。私はその指に身を委ねる。私はともに泣くということを知っている。今私に触れている人の、途方もない苦しみを知っている。私にはそれができる。
あなたが私のために弾いてくれるのなら、私はあなたのために奏でよう。
今なら、彼がノクターンとレクイエムばかりを弾いていたその思いが、痛いほどに分かる。誰のためでもなかった。ただ彼は、彼自身の中で死んていたもののために、雪のヴェールを織っていたのだ。
だから、その為の、蜘蛛の糸より柔らかい雪の糸を、私はあなたのために紡ぐ。
また、空に唸るものが近づいてきていた。
戦争はまだ終わらない。前線は未だ揺れ動きながらあり続けている。人はこれからも沢山死に、今もどこかで街が焼かれている。あの人の髪は白くなった。魂は損なわれて傷ついた。あの日絶たれた時間は戻らない。死んだ人々は帰らない。夢は悍ましい記憶に穢され、私の音は前よりも響かなくなった。全ては変わってしまった、けれど。
今日からまた、紡いでゆける。過去の亡骸を美しい雪のヴェールで覆い隠して、汚れた世の中から遠いこの隠れ家で、生きてゆけばいい。あの日々の遠い続きを。
夕日に照らされた橙色の部屋で、私たちは真っ白な雪を夢見た。
弾いて。ミスタ・ローレンス。
私は、あなたのための美しいピアノ。