ライマーとエミーリオ 1
ライマーが通路でエミーリオを見かけた時、彼は男から頬に接吻を受けていた。
「ではまたな、エーミール」
「ええ、また」
口元に髭をたくわえた紳士然とした男はエミーリオの腰に回していた腕を解くと、ライマーの厳しい視線に気づくことなく去っていった。
「尻軽が」
ライマーが侮蔑の言葉を投げつける。
声を聞いてエミーリオは振り返ったが、目撃されたことに慌てる様子もなかった。
それがまた、ライマーの苛立ちを増幅させる。
「今の方は宮廷楽団の団長ですよ」
「おまえは陛下の愛人だろうが」
「僕は宮廷楽団の歌唱隊の一員ですから、団長とおつきあいがあるのは当然でしょう。それに、あの方には長い間お世話になっていましたから」
ローデリヒの寵愛を失ったと打ちひしがれていたエミーリオを保護したのは宮殿楽団の長だった。楽団長はローデリヒを慕うエミーリオの意を酌んで、少年が宮殿に留まれるように方々へ手を尽くして歌唱隊を結成し在籍させた。
エミーリオは宮殿内の音楽ホールで女性と並んで立ちながら、観客の貴族達の間にローデリヒの姿を探し続けた。
けれど、ローデリヒの姿を見かけたことは一度もなく。
美術にしろ音楽にしろ、ローデリヒが芸術にまったく興味を示さないという話は耳に入っていた。
姿を見かけることさえ叶わない。それでも、心だけでもお側に。その願いを叶え続けてくれたのが団長だったのだから、ローデリヒの許へ戻っても楽団長が恩人であることには変わらず、彼に求められればすげなくすることなどできるはずがなかった。
「陛下の愛人なら、他の男は捨てたらいいだろう。ああもちろん、女もな」
「それにどんな意味が?」
「不誠実だと言っているんだ」
「あなたになんと言われようとかまいません。それがローデリヒ様のご命令であれば別ですが」
エミーリオはライマーをまっすぐに見返す。
きれいな顔をして、瞳に宿す意志の力が強い。
「陛下のご命令ならなんでも聞くのか」
「なんでも」
「死ねと言われても?」
「もちろん」
「……気が狂ってる……!」
「もしローデリヒ様が僕に死ねとおっしゃられるなら、その時は僕への愛も失われたということでしょうから……だったら、迷う必要はありません。ですが、ローデリヒ様は僕を愛していると言ってくださいました。僕はもう迷わない。あの方の口からはっきり拒絶の言葉が出ることがなければ、なにがあっても決して離れることはしません」
「——陛下の前から消え失せろ! 誘惑の悪魔め!」
最低最悪の罵りを受けても、エミーリオは眉ひとつ動かさない。ローデリヒの愛を信じればこそ、エミーリオに動揺するような要素はなにひとつなかった。
ライマーはきつく睨みつける。
「おまえが現れてから、陛下は腑抜けてしまわれたんだ」
宮廷楽団には、数年前に皇帝に愛されていた少年が列している。その話はライマーも耳にしていた。
皇帝の寵愛を失っても宮殿に留まっている少年。以前からその美貌に興味を持っていた貴族たちはこの機会とばかりに口説き、少年は分け隔てなく応じた。しかし、相手を選ばないのは心に決めたただ一人がいるからこそ。前皇后の悪評と比例して、少年のけなげさは貴族達の胸を打った。
少年を褒めそやす貴族を見かけると、ライマーは吐き気がした。噂の人物は宮殿生活の味を覚えてしまったために、居座り続けるために自分を排除しようとした皇太后にさえ取り入り、異性の装いも厭わない恥知らずではないかと。
ただ、ローデリヒに仕えるようになって日が浅かったライマーは少年を実際に見かける機会がなく、ローデリヒも少年の存在を一切気にする様子がなかったため、過去のことだと、取るに足らない存在だと思っていた。
現実には、再会してからのローデリヒのエミーリオへの執着ぶりを目の当たりにし、愕然としている。
現在、表向きにはエミーリオはローデリヒの相談役として収まっている。
しかしエミーリオは名目だけでなく、己の仕事を務めていた。ローデリヒが散々渋っていた再婚を承諾させたのもエミーリオだった。
説得の際の会話をライマーは傍らで聞いていたが、雰囲気も内容も聞くに堪えないものだった。
「——陛下。新しいお后を娶りください」
事務的な話をする時のエミーリオは、ローデリヒを称号で呼びかける。
「后を……だと?」
固い話だとあらかじめわかるためローデリヒは身構えるが、表情は弱り切っていた。
「跡継ぎならハインツがいるのだ、もう結婚する必要はないだろう。エーミール、俺はおまえがいればいいんだ。またおまえ以外の人間を抱けと言うのか」
「皇帝ともあろうお方が、まだお若いにも関わらず独り身でかまわないなどと仰らないでください。……それに、ハインツ様はご病弱の身ですから」
「……なんだと?」
「ハインツ様は二年前に高熱を出し、三日間意識をなくされていたことがあります。それから、いまだ健康に不安を抱えているんです」
「……いつのまに」
報告はなかった。否、あったかもしれない。ハインツのことは教育係たちに任せきりにして、ろくに関心を持っていなかった。聞き逃していた可能性もある。
「後継者に関する憂いをなくすためにも、どうか新しくお后を娶りください。そして、御子をもうけてください」
「おまえはそれでいいのか」
「僕はあなたの妻にはなれませんから。それに、一族の安定のために多くの子をもうけることも皇帝の役目です。ゲルトルーデ様は七人の御子をもうけられていました。そのうち男児は四人、そして成人したのはローデリヒ様ただお一人」
エミーリオが冷静に突きつける厳しい現実に、ローデリヒは顔を曇らせた。
一族を存続させたいのなら再婚すべきであることは明白だった。
「わかった。では、新しい后はお前が決めよ」
愛人に対して腰が低いローデリヒの姿に、ライマーは目を覆いたくなった。
皇帝は生真面目で気難しくて近寄りがたいともっぱらの評判だった。ライマーは、人を気安く寄せ付けない気質こそ皇帝に相応しいと心酔していた。
なのに、エミーリオがローデリヒの心を解きほぐしてしまった。
「ローデリヒ様はもとより厳しくもあり、優しい方ですよ」
腑抜けたのではなく元来のものだと諭して来る。
知ったような顔が腹立たしい。
ライマーにとって最も腹立たしいのは、エミーリオはローデリヒを腑抜けにさせたという点以外に重大な問題がないということだ。
エミーリオは外見にこそ大変気を遣っているが、地位や財産にはまったく興味を示さなかった。必然的に賄賂も受けつけず、個人的につきあいを持つのは宮廷楽団員だけ。買収に応じない上、皇帝と関係が切れていたこの数年の間に色々と話を吹き込んでいた貴族は今の彼をやっかいに思っているが、ローデリヒに絶対に害になることはしない事情通という存在はライマーにとっては頼もしくもあった。
目を逸らさずに向かい合う二人の間に、第三の存在が割り込んで来た。
「——エーミール!」
軽い足音を刻みながら、ハインツが駆けてくる。
「ハインツ様、急がれてはいけません」
後ろからは侍女が慌てた様子で追っていた。
小さな王子の出現に、二人は恭しく頭を下げる。
「ハインツ様。その後、いかがお過ごしでしたか」
青白い顔で、細い手足を突っ張らせて息を乱している子供に、エミーリオは微笑んだ。
エミーリオはローデリヒの許へ戻ることができてからは女装をやめ、ハインツには自分は母ではないという打ち明けていた。当然のことながら幼いハインツは大変な驚きを受け、真っ青になっていた。
ハインツと会うのはそれ以来になる。
以前と異なりへりくだったエミーリオの態度に、子供は顔を曇らせた。
「エーミール。……ねえ、エーミール。僕はあなたのことをずっと母上だと思っていた」
「……申し訳ありません」
「違う。そんなことを言わせたくて来たんじゃないよ。……母上の肖像画を見たんだ」
アルマの肖像画は離婚の許可が下りた際に壁から取り外され、一族の並びから消された。
母との思い出だと思っていたものは全てエミーリオとのものだったと知ったハインツは、アルマの姿が確認できるものを求め、まだ廃棄されていなかった肖像画を目にする機会を得た。その結果、さらに困惑することとなった。
「母上とエーミールは似ているよね? これはどういうこと? エーミールは母上と似ていたから母上の振りをしていたの?」
「それは……その、お母上を早くに亡くされてハインツ様が寂しがられていると思いまして……」
アルマの死の真相も、皇太后の想いも伝えられず、エミーリオは言葉を濁そうとした。
だが、それで済まそうとさせなかったのはライマーだった。
「エーミール殿。はっきり言ったらどうだ」
「ライマー様、なにを」
ハインツの前へ進み出たライマーは、エミーリオが止める前にきっぱりと言った。
「殿下。私めから申し上げます。順序が逆でございます」
「逆……?」
「エーミールがいたから、殿下のご母堂であるアルマ様がお后に選ばれたのです。陛下が愛するエーミールに似ていることが、お后選びの条件だったのです」
ハインツは呆気に取られた。
厳しい表情のライマーと、その後ろの苦い表情を浮かべたエミーリオの顔を見比べる。
「エーミールは、だって男の人……」
なにかがおかしいということだけはわかる。
ただ、理解するにはハインツはまだ幼すぎた。あらぬ方向へ視線を彷徨わせながら必死に考えていたが、その実、頭の中は真っ白になっていた。
「……僕、よくわからない……!」
混乱に耐えきれなくなったハインツは、慌ただしく駆け出した。
侍女がまた急いで後を追う。
「……余計なことをおっしゃいました」
エミーリオに非難の目を向けられ、ライマーは鼻を鳴らす。
「いずれは殿下のお耳にも入る話だ」
「誰も言わなければわからなかったでしょう」
「俺以外の人間がこの先も言わないという保証はないだろう」
「でも、ハインツ様はご存知なかったのに」
「疑問に持った時が一番いい機会なんだ。侍女の顔を見なかったのか? 困った顔をしていたぞ。誰かが伝えなければ彼女がいつまでも殿下に問い詰められていた」
「彼女はこれから違うことを問い詰められるんじゃありませんか」
「全部、おまえが招いたことだろう」
「……そうかもしれませんが……」
「殿下に嫌われるのが怖いか」
「心苦しいだけです」
軽く目を伏せた憂いの横顔は、ライマーの目から見ても美しい。だがそれは芸術品として目を楽しませる美しさでしかなく、ライマーの感情を揺らがすようなものではなかった。彼は芸術に価値を覚えない男だった。
「それより、陛下がお待ちかねだ。行くぞ」
「足を止めていたのはライマー様でしょうに」
「おまえがいちいち団長の相手をしなければ、俺がいちいち呼びに来させられることもないんだが?」
「ああ……それは申し訳ありませんでした。では参りましょう」
執務室に入ると、待ちくたびれたという顔のローデリヒに出迎えられた。
「ローデリヒ様」
エミーリオは顔を輝かせ、ローデリヒの許へ駆け寄る。
二人の間に距離がなくなると、どちらからともなく腕を回し、接吻を交わす。
「遅いぞ、エーミール」
「申し訳ありません。歌の練習に身が入りすぎてしまいまして。新しいオペラがもうすぐ完成するのです。ローデリヒ様もぜひ、鑑賞にいらしてください」
「俺はおまえが俺の前で歌えば、それでよい」
「そんなことをおっしゃらずに、たまにはホールへいらしてください。僕もローデリヒ様に聴いていただきたくて励んでおりますから」
「時間が取れたらな」
ライマー同様に芸術にはさほど関心のないローデリヒを誘う顔は、愛する男を間近にしてこれ以上になくとろけている。
つい先ほどまで、幼い子供が受けた衝撃を思って胸が痛むと言っていたのに、今や世の中のすべての憂いを忘れてしまったかのようだ。
結局、ローデリヒさえよければ他はどうでもいいのだ、この歌うたいは。
呆れたライマーは、仲睦まじい二人の様子から目を逸らした。