再会 2
やがて、紺碧の空の下に淡い光を漏らす小さな館が浮かび上がって来た。先々代の時代に建てられた離れ。ローデリヒは今まで使用したことはなかった。
日も暮れた時刻に館を訪れた主人を、就寝の準備をしていた管理番の老夫婦は慌てて出迎えた。
ローデリヒは老夫に栗毛の世話を命じ、その妻に館内を案内させる。
奥の部屋で二人きりになって初めて、今まで後ろをついてきていたエミーリオを振り返り、ローデリヒは一瞬怯んだ。
エミーリオは不躾なほどまっすぐにローデリヒを見つめていた。
毅然とした表情で背筋を伸ばして立つ姿勢に、慣れぬ乗馬に怯えていた姿はそこにない。昔はローデリヒと目が合えば頬を淡く染めてはにかんでいたのに、そんな初々しさもなく。最後に顔を合わせた時はまだ成長期だった体はすっかり伸び、女物のデザインのドレスを優雅に着こなす体は馬上で密着した際に細身ながら筋肉質になっているのがわかった。顔つきはほっそりとして大人びて、思春期特有の儚さは影すら残っていない。
会うことのなかった数年の間に、エミーリオは少年という衣を脱ぎ去っていた。
しかし、その美貌は深みを増した。
木漏れ日を宿した髪は豊かに広がり薔薇色の頬を包み、ローデリヒを見つめる瞳を縁取る睫毛は震え、潤む輝きの奥ではほのかな憂いが揺らめいている。
変わっていないのは、薔薇の花びらのように艶めいた唇と、そこから零れ落ちる小鳥のような涼やかで愛らしい声。
先ほど馬上で聞いた声を思い出すだけで、ローデリヒは身が震えそうになった。
「今までどこにいた」
問い質す声は、ひどく硬質なものになった。
返す声は穏やかに。
「宮殿内におりました」
「なんだと?」
躊躇することなくエミーリオが口にした場所に、ローデリヒは目を剥いた。
愕然とするローデリヒに、エミーリオは小さく頷きを返す。
「楽団の末席に加えていただいておりました」
「宮廷楽団は楽器だけだったはずだが」
「歌唱も取り扱うようになったのです」
「……知らなかった」
「他にも数名の歌手が加わり、僕も女性として活動していました」
「まったく観に行ってない」
ローデリヒは呆然とした。
「つまり……ずっといたのか。この宮殿に」
「はい。ずっとおりました」
まさかの言葉を聞いて、ローデリヒは己の前髪を掻き上げるとひどく乾いた笑いを漏らした。
「俺はそれを知ることもなく……おまえは、一度として俺に会いに来ることもなく」
「お許しがなければ御前に上がれません」
氷のような冷静さにもはや言葉も出ず、代わりに髪に絡めた指に力を篭めれば、鋭い痛みが頭を苛む。
「……なんだったんだ、この数年は……」
アルマが懐妊した時、エミーリオは既にローデリヒが宛がった部屋から姿を消していた。鳥篭を飛び去った小鳥の行方を突き止めることは叶わないと諦め、音楽への興味を一切断って過ごしてきたのに、ほんの少し耳を傾ければ囀りが聞こえてくる場所に留まっていたとは。
ローデリヒは疲労を覚え、近くの椅子に腰を下ろした。
目の前の小鳥は今、一切無駄に歌うことなく佇んでいる。
あれほど美しいと感じた姿が、つまらない人形に見えてきた。
「おまえがずっといたのはわかった。ではハインツのことだが、随分懐かれているようだな。男のくせに母とはな」
「僕をアルマ様と勘違いされているだけです」
「あの女がさっきのおまえの様にハインツと接していたと?」
「生前は大変愛情を注がれていたと伺っています」
「あの女はハインツを利用していただけだ」
ローデリヒは吐き捨てるように言った。
アルマは乳母も遠ざけ自ら養育し、我こそが次期皇帝の母親であると主張していたのに、皇太后に害を加えた咎により平民として処刑されると決まってからは、我が子の名を一度も口にしなかったらしい。
更に聞いた話では。
刑場へ引き立てられたアルマの容貌はすっかり変わっていた。目は落ち窪み頬は痩せこけ、髪はぼさぼさに乱れ、まるで老婆であるかのような変貌ぶりだった。痩せこけた頬には幾筋も引っかき傷がつき、乾いて割れた唇からは繰り返し「こんな顔じゃなかったら」という言葉が漏れていたのを傍らの処刑人が聞いていた。
しかし目つきだけは鋭く、お祭り気分で見物に集まった民衆には罵りの言葉を投げつけ、あんな甘言に乗らなければ良かった、乗らなければそうすれば今頃は彼と……と絶叫し。
アルマは二度と降りることのない階段を押し上げられ、彼女の意識はそこで永遠にこの世から遠ざかった。
「子供に懐かれて女物まで身につけるとはな」
「ドレスはゲルトルーデ様が仕立ててくださいました。僕にハインツ様をお慰めするよう申しつけられたのはゲルトルーデ様です」
ローデリヒが驚かずにいられない話ばかりだった。
アルマに大怪我を負わされてから床を離れることができなくなったゲルトルーデを慰めるために、歌唱隊の一員として彼女の部屋を訪れた時、エミーリオは女性達の後方に控えていたにも関わらず彼女の目に留まった。
枕元に呼ばれて、顔を覗き込まれ。
皇太后は歌うたいの少年の手を取り、母親を失った幼な子の話し相手になるように弱々しい声で告げた。
実際に幼な子に会って母と呼ばれることは想定外だった。その報告を受けると、ゲルトルーデはエミーリオがハインツの母親を装うために必要なものを揃えさせた。その後、ゲルトルーデが亡くなってからも、エミーリオはハインツに求められるままに母親を務めていた。
ローデリヒは人形のように表情を崩さないエミーリオをきつく睨みつけた。
「おまえは皇太后に言われないから俺には尽くさないのか。俺からは姿を隠しておいて息子のハインツとは会うのか、——俺以外の人間の前では歌えても、俺の前では歌わないのか!」
「僕にあなたに会う許可を与えられるのは、あなた以外におりません」
「——存在も知らないで、どうやって呼べと言うんだ!」
ローデリヒにとっては手酷い裏切りだった。自分だけの癒しだと思っていたのに、何年も自分の知らないところで勝手に振る舞っていたとは。
大股でエミーリオに歩み寄り、胸元を掴み上げる。
目の前に浮かんだ苦しげな表情に歪んだ満足感を覚え、ローデリヒは華奢な体を長椅子に放り投げた。
衝撃に椅子の足が軋んだ悲鳴を上げる。
倒れ込んだ座面からエミーリオが起き上がる前に馬乗りになり、ローデリヒは両肩を押さえつけた。勢いで、頭部を打ちつけた真っ赤な座面に金の波が広がる。
歯を食いしばり、決して無駄に声を上げようとしない姿に、ローデリヒの苛立ちは酷くなるばかりだった。骨を握り潰さんばかりの力で肩を握り、苦痛を隠せない顔を見下ろした。
「何故、俺の前から姿を消した」
「……陛下……」
「何故消したと聞いている!」
エミーリオは何度か胸を上下させて酸素を取り込むと、ようやっと掠れた声を漏らした。
「……陛下はお后様を迎えられて、ハインツ殿下もお生まれになりました。もう、僕は……必要ではないかと……」
「跡継ぎが生まれればわざわざ后を抱く必要はなくなる。そうすれば、おまえだけを愛せると思ったんだ。なのにおまえはその前にいなくなった……」
「……陛下」
「俺はおまえを愛していたんだ、なのに、おまえは……っ」
ローデリヒは体を折り、薄い体を掻き抱いた。
骨が軋むほどの抱擁に、エミーリオの背が弓なりにしなる。
抱き心地がまったく変わってしまった。昔はもっと簡単に腕に収まった。今は腕全体を使わなければこの輪の中に留めることができない。こんなにも時が経ったのだと改めて思い知らされる。
だが、白い首筋から放つ芳香が嗅覚を刺激し、ローデリヒの脳裏にいつかの少年の面影を蘇らせた。
「……エーミール……」
あの少年がこの腕の中にいる。不意に実感した。
頬を髪に、首筋を吐息にくすぐられ、エミーリオは自由になる肘から先を上げ、広い背に控えめに触れた。
「僕も……、あなたを愛していました。ずっと……初めてお会いした時から」
「嘘だ。それらしいことは一度も言わなかったではないか」
「何度もローデリヒ様には申し上げてました」
「覚えがないぞ」
耳の近くで否定され、小さく首を振る。
「たとえローデリヒ様のお心には届かなくとも、幾度も、気持ちを歌い捧げました」
自由に歌っていいと言われた時は、いつも愛の歌を選んでいた。
心休まるような穏やかな愛を。
身を焦がすような情熱的な愛を。
愚かで滑稽な愛を
時には、耳を塞ぎたくなるような浅ましい愛を。
その時々の胸に秘めた愛の揺らぎを歌に込めて、何度も告白していた。
初めて言葉をかけられ、労わる視線を向けられた時から心を奪われていた。どれだけ大勢に歌を披露しても、誰彼問わず身を開いても、心まで捧げたいと願ったのはローデリヒただ一人だった。
ローデリヒはエミーリオの顔を見下ろし、不愉快そうに眉をひそめた。
「歌っているとしか思わないだろうが」
「僕は言葉に乏しいので……他の伝え方を知りませんでした」
たとえ言葉を知っていても、面と向かって言えるはずもなかった。それぐらいのわきまえはあった。
ローデリヒはそれまで出会った誰よりもエミーリオに優しくしてくれた。しかし、自分の身分も姿形も弄ばれるだけのものでしかないとエミーリオは経験上知っていた。気に入らなくなれば打ち捨てられるだけの人の形をした物に、意思を伝える言葉などあるはずもなかった。
「叶うことならあなたにもう一度お仕えしたかった。あなたのお側にいたかった。望むことが許されるならもう一度……こうして、あなたの見つめられて、腕に抱かれて、そのぬくもりを全身で感じたかった……ローデリヒ様……」
今は、求めることを許されていると知っている。手を伸ばすことも。
エミーリオはローデリヒの頬に触れようとした。
それよりも早く唇を塞がれ、手はそのまま首の後ろへと回した。
ローデリヒはベッドに横になり、エミーリオの滑らかな肌を背中から抱きしめながら、心地よい疲れに包まれていた。
久しぶりに人の体に溺れた。
愛しさが胸の中で暴れ、今にも飛び出しそうだ。これほど感情を揺さぶられたのはいつ以来か、久しく覚えなかった感覚だった。
目を閉じまどろんでいると、頬に触れる頭が動いた。
腕を緩めれば、エミーリオが肩を捻って振り返る。
「ローデリヒ様。お疲れではありませんか?」
己よりずっと華奢な体で気遣うエーミールに、ローデリヒは頬が緩む。
「エーミールこそ。昔よりいくぶん乱暴に扱ってしまったが、障りないか?」
「僕ももう子供ではありませんから大丈夫です。……ただ、陛下のことで少し気になっていることが」
「なんだ」
話す声が急に改まったものになり、ローデリヒはエミーリオの顔を見下ろしながら身構えた。
「最近の陛下は激務を重ねられていると伺っております」
「ああ、ずっと宰相を務められていた公が亡くなられたからな」
「ですが、とうに新しい宰相はおられるではありませんか。陛下がすべての政務を負われなくてもよろしいはず」
ローデリヒは苦笑した。
久しぶりにベッドを共にできた直後に、こんな堅い話を持ち出すとは。
雰囲気が台無しだが、顔を合わせて即物申すことがあるぐらい、エミーリオは常にローデリヒのことを気にかけていたのだ。
「俺はおまえのことを何も知らなかったのに、お前は俺のすべてを知っているみたいだな」
「すべてなど……」
「いいだろう、多少おまえの言う通りにしても。その分、空く時間をおまえが付き合うならな」
ローデリヒはエミーリオの体の向きを変えさせると、正面から顔を覗き込んだ。
「これからはずっと俺の側にいろ。二度と俺の前から姿を消すことは許さん。エーミール」
「……お望みのままに、ローデリヒ様……」
やわらかに舌が転がした鈴の音に、ローデリヒはエミーリオを抱き締めた。
二人の体の隙間がなくなる。
エミーリオの形は、ローデリヒの胸に空いていた穴にちょうど収まった。