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再会 1

 広い前面と側面に細工が施され、長年磨き抜かれて艶の出た重厚感のある執務机に、所狭しと様々な書類が積まれている。


 領内外に関する報告書に、城下や他国発行の数種類の新聞。商人からは通商許可の申請、貴族からはご機嫌伺いの手紙。時折混じるのは無名の芸術家からの保護の訴状等々。とりどりの書類が並べられ、ローデリヒはそれらの一つ一つに目を通していた。


 室内にはローデリヒの他には若い秘書官が一人。古代の彫刻のように微動だにせず佇む男はその存在を主張しない。

 物静かな室内で、ローデリヒは己の執務に没頭していた。


 脇目も振らずに紙を繰っていたローデリヒだったが、不意に文字が見やすくなり、その現象をもたらしたオレンジ色の光を確認するために紙面から顔を上げた。

 執務机には火を灯した燭台が置かれ、また、いつのまに人が入っていたのか、秘書官ライマーの指示でシャンデリアに火が灯されているところだった。


 一つ一つ増えていく小さな炎はその姿を鏡に反射させて輝きを増幅し、薄闇に包まれ始めていた室内に色を浮かび上がらせる。壁を埋める本棚に並ぶのは赤や青に染められた革張りの書物。来客用の椅子の枠は豪奢な細工が施され、布張りの背もたれや座面と合わせて白色に整えられている。ローデリヒのための空間を囲む壁は赤を基調として、高くかけられたいくつもの肖像画がローデリヒを見下ろしている。──もっとも、ローデリヒから彼らと目を合わせることはなかったが。


 背後の窓を振り返れば、ガラスの向こうに広がる空は薄灰色に染まっていた。


「陛下。お疲れでしょう、飲み物をお持ちします」


 身動ぎしたローデリヒに、ライマーが数時間ぶりに声をかけた。

 ローデリヒは窓を振り返ったまま言葉を返さない。


「陛下?」

「……いや、必要ない。馬に乗る」


 ライマーと目が合うより先に、ローデリヒは立ち上がった。

 ずっと同じ姿勢を取っていた体が軋み、背中に痛みが走る。

 痛みを振り落とすように背筋を伸ばして部屋を出れば、すぐにライマーがついてきた。


「今からですか?」

「新しく栗毛が入っただろう。様子を見たい」

「お供します」


 ライマーはローデリヒがこの城へ連れてきた男だ。彼は元々は地方の館で働いていたが、立ち寄った際にその働きぶりと真面目さが目に留まり、声をかけた。以来、常に傍らで尽くす彼をローデリヒは気に入っている。


 屋外へ出たローデリヒの前まで引かれてきた馬はとても美しかった。手入れされた毛艶や筋肉のつき方はもちろんだが、一番はその眼差し。ローデリヒをまっすぐに見つめる瞳は、自分が誰のために走るべきか理解しているかのようだった。


 ローデリヒは栗毛に早速またがると、その歩みを宮殿を抱く林へと向けた。ライマーは後ろから小走りに追う。

 馬上では目線が高くなり、視界が大きく広がる。その変化はまるで、自分を取り巻く環境の変化にも似ている。


 皇帝に即位してから七年。相変わらず権利を要求するばかりの選帝侯もいたが、当主が代替わりした家や、交流を深めたことでローデリヒへの態度が軟化した選帝侯もあり、以前ほど無力で窮屈な立場ではなくなっていた。


 そして、宰相を務めていた叔父が三ヶ月前に亡くなった。

 ローデリヒは新しく任命した宰相に対し、前任者が上げて来なかった案件すべてをこれからは自分を通すように要求し、新任者はそれに従った。


 世界が己を中心に巡り始めた。

 以前のように名ばかりの皇帝ではない。各地の状況を自らが把握できるようになった。ローデリヒの判断が人や国を動かすようになった。叔父が生きていた頃とは比べものにならないほど忙しくなり、次から次へと訪れる人の波に気疲れすることもあるが、日々広がっていく世界から得られるこの充足感は何物にも代えがたいほど心地よい。


 しかし、ふとした瞬間に充足感が虚しさにすり替わる。

 胸に大きな穴が空いている。世界の広さでは埋められない穴が。決して埋めることのできない穴だ。


 太陽が地平線へ近づくにつれて気温が下がり、冷えた空気がローデリヒの胸を通り抜けていく。


 舗装された道なりに馬を走らせていると、両脇に立ち並ぶ木々の向こうにふと人影を見つけた。枝葉に隠れて今見えるのは下半身のみ、ゆったりと広がるスカートが重なり合い、少なくとも女性が二人はそこにいるのが窺えた。

 普段ならば人影をいちいち気に留めることはしない。しかし、何故かこの時は様子を確認したいという気の迷いが起こった。


 ローデリヒは馬の歩みを緩め、ゆっくりと近づいていく。

 やがて耳に届いたのは、落ち着いた女性の声と甲高い子供の声。


「ハインツ様。そろそろ城へ戻りましょう」

「もう少しだけいいでしょ。お医者さまも外へ出たほうがいいって言ってたし」


 宮殿内に子供の存在は限られている。

 名前からしても間違いないだろう。我が息子がそこにいる。普段は世話も教育も任命した者に任せてあるので、行事の場以外では滅多に顔を合わせることのない息子だ。


 通りがかったのだから声だけはかけておこうと考えたローデリヒの耳に、更に二人の会話が聞こえてきた。


「ですが、お体に障ります。日も落ちて冷えてまいりましたし」

「だいじょうぶだよ、お母さまがいっしょだもん! 僕、元気だよ!」


 張り上げた声が放った言葉に、ローデリヒは衝撃を受けた。


 ハインツの母親であるアルマは、五年前に皇太后ゲルトルーデを害したために投獄され、ローデリヒとの婚姻関係は解消され、処刑された。

 あの女はもうこの世に存在しないはずだ。


 だとすれば、母とは一体。


「陛下?」

 いぶかるライマーに構わず、ローデリヒは馬を下りると手綱を預け、木立をくぐった。


 そこにいたのは二人の女性。顔が見えている方はハインツの世話係の女官だ。こちらは予想通りだった。そして。


 アルマがいる。後ろ姿をローデリヒにさらしている問題のもう一人の髪色とドレスのデザインを見て、一瞬でそう感じた。

 ローデリヒはアルマの処刑の場を見ていない。報告を受けたのみだ。

 しかし、まさか。


「お母さま、お父さまがそこにいますよ」


 弾んだ子供の声に目を向けると、背を向けている女性の膨らんだスカートの影にハインツがいた。

 ならばやはり、そこにいるのはアルマなのか。


 顔を上げた女官がローデリヒの姿を認めて慌てて居住まいを正す。


 木をくぐったその場から近づくことができないローデリヒを、後ろ姿が振り返る。

 それは亡霊の顔を目撃するまでの長い一瞬だった。


 はたしてその人物はアルマでも幽霊でもなかったが、正体はまったく予想もしなかった人物だった。ローデリヒはその人物をもう何年も前から思い出さなくなった──否、思い出さないようにしていたからだ。


 ハインツの相手をしていたのは、女物のドレスを身にまとったエミーリオだった。


 ローデリヒも驚いたが、エミーリオも目を見張っていた。

「……ローデリヒ様……」

 ほんの短いセンテンスでも美しく響く澄んだ声が、夕暮れ時の涼しい空気を伝ってローデリヒの耳に届いた。


 ゆっくりと歩み寄ってくるローデリヒに、エミーリオは表情を塗り替えると澄ました顔で腰を軽く落とした。

「陛下。ご機嫌うるわしゅうございます」

 母を演じているからか、ドレスを着ているからか、仕草は女のようだ。


 しかしエミーリオは男だ。昔何度もその体を奥まで抱いたから間違いない。その彼が何故こんな格好でアルマの振りをしているのか。何故、女官も何事もないかのように傍らに控えているのか。

 そして近くまで来て見てわかった。馬鹿げたことに、彼のドレスは女物のデザインでありながら、エミーリオの体型に合わせてあつらえたものだった。


 ローデリヒはエミーリオを目の前にして立ち止まった。まっすぐに見下ろせば、エミーリオもまっすぐに見つめ返してくる。

 もっとよくエミーリオの姿を確認しようにも、薄闇のベールがゆっくりと厚みを増しながらローデリヒの目から隠そうとする。


「ハインツ。もう時間は遅い。女官と一緒に戻るんだ」

 ローデリヒはエミーリオから目を逸らさずに言った。


「はい、お父さま」

「──ライマー! 今日この後の予定は全部明日以降へ回せ。調整は任せる。馬を置いて二人を送れ」

「承知しました」

「お母さまは……?」

 ハインツが心細そうに見上げる。幼な子はエミーリオと引き離されようとしているのを敏感に感じ取っていた。


 すがるようにスカートを握った小さな手をゆっくりと解かせて、エミーリオはハインツに向かって腰をかがめた。

「私は陛下とお話があります。どうぞ先にお戻りください」

「また遊んでくださいね、お母さま」

「お休みなさい、ハインツ様。体を温めて寝るのですよ」


 優しい声音と共に、エミーリオがハインツの頬にキスを落とす。

 子供の口から嬉しそうな吐息がこぼれ落ち、ローデリヒの胸をざわつかせた。


 無言で踵を返せば、すぐに気配が後ろをついてくる。

「お父さま、おやすみなさい」

 背を追いかけてきた幼な子の声は、父を振り向かせることはなかった。


 ライマーが待つ場所まで戻ると、ローデリヒはエミーリオに栗毛を指し示した。

「乗るんだ」

 命じられるままにエミーリオは栗毛にまたがろうとしたが、鐙に足をかけるもののまったく乗り上げられない。


「手をお貸ししましょう」

 見かねたライマーが補助しようと差し出した手を、ローデリヒは咄嗟に横から払いのけた。


 手を宙に浮かせたライマーの驚く顔から目を逸らし、エミーリオの体を強引に馬の背へ押し上げてその後ろへ飛び乗る。手綱を掴んで目の前の体を両腕に抱え込み、ローデリヒは踵を栗毛の腹に当てた。

 揺れ始めた馬体に、エミーリオは慌てて鞍を握る。


 ローデリヒが速度を上げると、途端に腕の中から声が上がった。

「陛下、馬が暴れて……!」

 非難めいた悲鳴でさえ、昔と変わらぬ澄んだ声だ。


 通常の鞍に横座りしているため腰が安定せず、馬の揺れに体を合わせることができず、弾む体に苦痛を訴えている。


「喋るな。舌を噛むぞ」

 上体を倒してエミーリオに覆い被さるようにしてその体を支える。


 今は気遣ってやる余裕はなかった。一刻も早く一切の邪魔が入らない場所へ。逸る気持ちに背中を押されながら、ローデリヒはエミーリオの肩越しに先ばかりを見ていた。

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