出会い 2
いよいよ、エミーリオは宮殿に上がることになった。
宮殿に向かう馬車の中でエミーリオの胸を占めていたのは、あの若い皇帝に仕えることができるという喜びだった。
しかし、話しかけることがはばかれるようなすました遣い達に囲まれながら何日も馬車に揺られ続け、小石に簡単に跳ねる腰掛けに尻が痛くて堪らなくなった頃、郷愁が胸に広がり始めていた。子を売って金を稼いでいた母であっても、他者を蹴落として自分がのし上がろうとする人で溢れ返る街であっても、自分を育てた人であり、育った街だった。
不安を面に出さずにはいられなくなった頃、馬車は街に到着した。
痛む尻を石畳に跳ね上げられながら、エミーリオは窓から外を覗く。
大通りに面して並ぶ建物の作りは、エミーリオが育った街と大して変わらない。しかし壁の色合いは白色系に統一されて、清潔感がある。通りを行き交う人々の表情も心なしか生真面目そうに見えた。
落ち着いた雰囲気の街中を駆けることしばし。
幾何学模様を描く庭園が窓から覗くようになり、エミーリオの胸は再び踊り出した。
馬車は庭園を駆け、その先に待っていたのは、左右に翼を広げた白亜の宮殿。
そびえ立つ威厳に、馬車を降りるエミーリオは足が震えた。
宮殿に一歩足を踏み入れると、出迎えた吹き抜けの玄関ホールは広くとも地味だったが、その先が素晴らしかった。
床は鏡のように磨かれ、高く伸びる窓からは陽光が屋内へ惜しみなく降り注いでいる。長く続く広間の天井には聖書の物語が描かれ、天井と床とを一つの石から削りだした柱が繋いでいる。場所が変われば愛らしい天使が頭上で飛び交い、角を曲がれば、今度は異国の子供が壁の中で遊んでいる。過去にはあちらこちらの屋敷に呼ばれて様々な芸術品や装飾を見てきたが、この宮殿はどこを切り取ってもそれらに見劣りする部分がない。
遣いの者について歩きながら物珍しさにきょろきょろと見回していると、擦れ違った婦人の集団にくすくすと笑われ、エミーリオは恥ずかしさに縮こまった。
かなり歩き、やがて辿り着いたその一室を与えられて、不用意に出歩かないようにと言いつけられたが、エミーリオは言われなくともおそらくその気は起きなかった。一人で歩けば、宮殿内のあまりの広さに間違いなく迷っただろうから。
エミーリオが到着したと聞き、ローデリヒはその晩早速、少年を私室へと呼んだ。
ローデリヒは先帝が早くに亡くなったために若くして皇帝となった。
しかし、臣下のほとんどを占める父の代の、中には祖父の代の頃からの者達はローデリヒを若造と侮り、まともに話を聞くことのない者がほとんどであった。実権は宰相となった叔父が握り、選帝候達はローデリヒを皇帝として支持する代わりに際限のない権利を要求した。また、皇太后のゲルトルーデはローデリヒに皇帝としての威厳と覚悟が足りないのだと、臣下を御するのに手を貸してはくれない。
臣下に恵まれぬ中、それでもローデリヒは皇帝としてあろうと務めたが、変わらぬ状況に疲れ始めていた。
慰めが欲しかった。
エミーリオにはその澄んだ歌声にも心惹かれたが、まだ幼い少年ならば間違いなく自分に下るだろうという打算もあった。
緊張しつつも笑みを浮かべ、ふっくらとした頬を紅潮させながら歌う少年の姿に、ローデリヒは長椅子に横になりながら、見通しは外れていなかったと久方ぶりの満足を覚えていた。
「いい声だった」
エミーリオに何曲か歌わせて、今日の疲労が癒されたと感じたローデリヒは、下がることを許可した。
すると、少年は驚いた顔をした。
「どうした、下がっていいぞ」
再度の許可を出しても、なかなか動こうとしない。
困惑の表情を浮かべながら、その目はベッドへ向けられている。
ローデリヒはようやく合点がいった。
「エミーリオ……エーミール。俺はそういうつもりでおまえを引き取ったわけではない。おまえの歌声で俺を癒して欲しかった、ただそれだけだ。もうゆっくり休むといい」
優しく諭すように言われ、エミーリオは逡巡しながらまもなく退室した。
それから毎晩、ローデリヒはエミーリオの歌声を求めるようになった。
また、歌以外に自由に話しもさせた。
エミーリオは、その日の内に自分が見聞きしたことを皇帝に語った。
少年の目に映る宮殿の暮らしは裏路地の家と劇場を往復していた以前とまったく異なるもので、なにもかもが明るく華やかで、人々は優雅で精力的に動き回り、なにより表情の暗い人間がまったく見当たらず、活気溢れる空間は少年の心も常に高揚させてくれる。
ローデリヒにとっては退屈で堅苦しい宮殿の生活が、少年にとってはまったく異なるものに見えるという、その視点の違う話を聞くのも、知らない世界の物語を聞いているようで楽しくなった。
やがてローデリヒは、これまでエミーリオを買った人間がそうしてきたように、少年をベッドへまで招くようになった。
宮殿に上がってからエミーリオは教師をつけてもらえるようになり、昼は勉学に励み、夜はローデリヒに歌声を捧げ、愛されて、明日の食事の心配をする必要のない心穏やかな日々を送っていた。
大人達の中には厳しい者もいなくはなかったが、ローデリヒには毎日優しくされ、宮廷楽団団長にはいずれ宮廷合唱団を結成しその一員にと声をかけてもらい、エミーリオにとっては、夜のない天国よりもローデリヒに求められるベッドがあるこの城こそが天国ではないかとすら思えていた。