出会い 1
馴染みの客となったある貴族の屋敷に呼ばれた時のことだった。
ここの主人は、同世代との違いが表れてきたエミーリオの声を特に贔屓してくれる客のうちの一人だった。
今回はしばらく滞在するようにと言われて、服も特別に用意された。見目と歌声は良くても格好がみすぼらしくてはときれいな服を着せられたことはあったが、この時用意された服は貴族のそれと比べても劣らない仕立てだった。
屋敷に呼ばれて三日目に、エミーリオは主人の客の前で歌うように言いつけられ、粗相のないようにとよく言い含められた。
広間には主人と奥方と、件の客人と思われる若者が立派な椅子に座っていた。その若者の傍らには威圧感を放つ男が立ち、壁際にも衛兵と思わしい者が数人。これまでにこんな堅苦しい空間に身を置かれたことのなかったエミーリオは、かつてない緊張を覚えた。
「では歌ってくれ」
主人に促され、エミーリオは恐る恐る歌い出した。
最初は緊張しながら歌っていたエミーリオだったが、段々と歌声は高らかに、そして大胆になっていく。
空間に響くのはただ己の歌のみ。今この時がエミーリオにとってなにより至福の時。目の前にいるのが誰かなんて関係ない。ただ歌っていたい。そして聴いて欲しい、自分の歌を。歌を求められている間だけは、間違いなく自分が存在することを求め、許されているから。
何曲か歌った後、自分以外の声が耳に飛び込んできた。
「いい声だ」
笑みを浮かべた若者が、エミーリオを見つめながら言った。
賓客を満足させることができて主人も満足そうだ。
エミーリオは謝辞を表して頭を下げる。
顔を上げてもまだ、青年に見つめられていた。
なにかを思案するように向けられている瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。意志の強そうな理知的な瞳の奥に、青年の優しさが見える。
エミーリオは頬を紅潮させた。
この青年のためにもっと歌いたい。そして聴いて欲しいと願う。
その願いは、青年はしばらく屋敷に滞在するとのことで、エミーリオもまた次の日も、またその次の日も歌を披露するという形で叶った。
エミーリオは青年の正体が気になり屋敷の使用人に尋ねたが、誰もが皆、口を閉ざした。どうも口止めされているようだった。
それでも、青年が高貴の者だということだけは感じ取れたので、失礼のないように振る舞った。
そしてこれで最後という晩。
エミーリオは後悔のないよう全身全霊をこめ、青年に歌を披露した。
最後の曲を歌い終えて肩で息をするエミーリオに、青年が大きな拍手を送る。
その眼差しは変わらず優しい。
名残惜しく思いながらエミーリオが青年を見つめていると、青年がふと後ろに立つ男を振り仰いだ。
「この者を引き受けることはできないだろうか」
青年が言うと、男は渋面を作った。けれど明確な反対は示さなかった。
若者はエミーリオを気に入ったらしい。
エミーリオの胸はときめいた。この若者に引き取られたら、彼のためにもっと歌えたら、その瞳にずっと見つめられたなら、それはどれほど幸福な日々だろう。
けれど、一瞬にしてエミーリオの心は沈む。
これまでにもエミーリオを引き取りたいという話は幾度かあったが、金をもたらす息子がいなくなってしまうからと、母親がずっと断ってきた。だから若者の下へ行くことは無理だと思った。
この時のエミーリオはまだ知らなかった。青年が彼の皇帝ローデリヒであるということを。それを知らされたのは、屋敷からの帰りの馬車の中でのことだった。屋敷の主人は、視察旅行の途中で屋敷を訪れた皇帝への余興として、お気に入りのエミーリオを呼んだのだった。そして、エミーリオが萎縮して歌えなくなってはいけないと、あえて賓客が誰であるか教えなかった。
なんという畏れ多いことかとエミーリオは震えた。しかし同時に、そんな人物に自分の歌声を喜んでもらえたことに至上の喜びも覚えた。
数週間後、正式に皇帝からの遣いがやってきた。
エミーリオに屋敷での出来事を聞かされていなかった母親は突然の来訪に驚き、そして、エミーリオの予想に反して、息子が皇帝に召抱えられるという栄誉に一も二もなく飛びついた。
ただ、支度金に関しては不満を抱いた。皇帝であるならもっと寄越すものだろうと。さすがに皇帝の遣いの前でみっともない姿は見せられないと、これまでにないほど愛想のよい笑みを浮かべて息子を送り出したが、金がなくなったら、きっと皇帝の下でいい暮らしをするであろう息子に無心しに行けばいいとも考えた。
結局、女がエミーリオに無心することは一度もなかった。
息子が皇帝に取り上げられたことを鼻にかけて周囲に言いふらし、先を考えない贅沢な暮らしに身を浴していた女は、ある日、大通りで馬車に轢かれて死んでしまった。彼女の遺体を引き取る者はなく、身元不明者として無縁墓地に葬られた。
その後、宮殿のエミーリオに母親の行方が届けられることはなかった。