三羽目の小鳥
「こちらが音楽ホールですの?」
宮殿の隅に配置された広間に、鈴を転がすような愛らしい声が滑り込んできた。
それはとてもささやかな響きだったが、広い室内にいる者全員が素早く反応した。
少女と見紛うような愛らしい笑みを浮かべた小柄な婦人が、二人の侍女と一人の男を伴って室内に入ってくる。
「これはこれは、オティーリエ様。ようこそいらっしゃました」
楽団長は皇后の前に素早く進み出て、差し出された手を恭しく取った。
「由緒ある宮廷楽団の次の上演はいつですの?」
「まもなく」
「楽しみですわ。美しい音楽は心を豊かにしてくださいますね」
「光栄です」
楽団長と会話しながら、オティーリエは機嫌よさそうに笑みを湛えている。
ホールに響くのは二人の声のみ。
楽器も声も静まった室内で、誰もが緊張していた。ここにはエミーリオがいるのだ。
子こそなしたとはいえ、皇帝と皇后の不仲は周知の事実だった。噂では、第二王子誕生から二人は顔を合わせていないとか。その皇帝の愛人であるエミーリオがいる場に、皇后が音楽に興じるためだけに姿を現したはずがない。
たまたま奥にいたエミーリオは、オティーリエの目に留まらないように人影に重なる位置に立っていた。
オティーリエが本当に音楽に興味があって訪れたならそれでよし、そうでなくとも、穏便に事が収まることを願っていた。恩ある楽団長や団員達を揉め事に巻き込むことは望まなかった。
「今日はお願いがあって参りましたの」
オティーリエの言葉に室内の緊張が高まる。
彼女はそれまで背後に控えていた男を自分の横に立たせた。
「この者をどうか宮廷楽団の一員に加えてやってくださいませ」
「ギュンターと申します」
「次の発表会には彼の出番もあると嬉しいですわ」
室内にいる者の視線が男に集中した。
名を低く響かせたたった一声に、その才能を滲ませていた。
男が歌の素人ではないことは明らかだった。この場にいるのはいずれも音楽をたしなむ者ばかり、才能ある者へ興味が引かれるのは無理からぬことだった。
抜きん出て高身長のギュンターの顔は、エミーリオの位置からそのまま見ることができた。
目が合う。
男はエミーリオを認め、不敵に笑った。
ローデリヒはエミーリオの様子に不審を抱いていた。
固い笑顔を貼りつかせて、明らかに無理に平生を装っている。ローデリヒの許に戻ってきた時からこうだった。
迎えに行かせたライマーに視線で問いかけても、首を振るばかり。彼もエミーリオの様子がおかしいことはわかったが、なにも聞いていないらしい。
夜の帳が降りるのを待ち、寝室に入ったローデリヒは寄り添ってきたエミーリオの手を取った。
「ローデリヒ様?」
常の様に抱き留めてくれないローデリヒに、エミーリオは首を傾げる。
「なにがあった?」
ローデリヒの問いは断定だった。
エミーリオは絶句する。
淡い蝋燭の下ではその表情が色を失ったことは見て取れない。しかし強張ったことはわかる。ローデリヒはエミーリオの言葉を待った。
エミーリオはしばし視線を彷徨わせて逡巡していたが、やがて一歩下がると、ローデリヒの前に膝をついた。
「――陛下。どうか私めに機会をお与えください。もう一度歌を学ぶ機会を」
ローデリヒは目を見張った。
エミーリオが臣下の礼を取る姿を初めて見る。
初めて顔を合わせた時から比類なき存在だった。側に置き大切にし、ローデリヒから殊更に臣下として扱おうとしたことも、そういう態度を取らせようとしたこともない。それはエミーリオが貴族社会をろくに知らなかった頃も、再会してからも同様だった。
なのに、エミーリオが膝をついた。エミーリオはそれぐらい追い詰められていた。
「おまえは美しい声を持っているではないか。これ以上なにを学ぶ必要がある?」
「私の技量など児戯に類するものでございます。とても誇れるものではございません」
「何があった?」
エミーリオはギュンターのことをローデリヒに伝えた。皇后が連れてきた男が宮廷楽団に列したと。市街の劇場で歌っていた、歌唱力も豊かで将来有望な若者をオティーリエが見出し、宮殿に連れ帰ってきたのだと。
同じ歌手としてエミーリオと競わせるためであることは、火を見るよりも明らかだった。けれど、彼の技量が確かなものであることには変わりはない。
対してエミーリオの歌唱力はほぼ独学で身につけたものだ。技術もなにもない。それに、宮廷楽団で歌う時のエミーリオは声量を抑えていた。女性たちと同じパートを歌うからだ。声の高さは同じでも男女では体格が異なるため、腹の底から本気で歌えば、他の女性たちの声をかき消してしまう。エミーリオは今や、声量を抑えて歌う癖がついていた。
しかし、そんなことは言い訳に過ぎない。エミーリオは長い間歌うことに本気ではなかった。それ故に、初対面のギュンターを前にして無様な声しか出せなかったのだ。
二人の技量の差は明らかだった。
そして、エミーリオとギュンターの競争は、ローデリヒとオティーリエの代理戦争ともなる。エミーリオの敗北はすなわちローデリヒの恥となる。己のせいでローデリヒに恥をかかせてしまうことを許容できるはずがない。
と同時に、あまりにも未熟な己が恥ずかしかった。
「俺は一向に構わないが」
「私は耐えられません」
「他に思うところがあるのか?」
重ねて問われ、エミーリオは一瞬心臓が飛び跳ねたが、静かに肯定した。
実力を示すためにギュンターが早速披露した、市民や貴族に広く向けられた舞台で主役として立ったこともあるというその歌声に、歌とはこんなに素晴らしいものかと衝撃を受けた。悔しさもあったが、胸の奥が震えた。
いつのまにか忘れていた。歌うことの意味を。
持って生まれた容姿に加え、この声と歌があればこそ、エミーリオはローデリヒに巡り合うことができた。ローデリヒに囲われてからも、彼に歌を求められる夜は、愛する人を癒すことと歌という好きなことを同時に叶えられるという至福の時だった。
しかし、ローデリヒに会うことの叶わない日々を迎えてからの歌は、ひたすら機会を窺うための手段へと変わった。愛する人のために歌えない歌はただの音となった。それはローデリヒに再会してからも戻ることはなく。エミーリオさえ側にいれば満足するローデリヒにとってももはや歌は不要であり、ローデリヒに不要なものは己にとっても不要なものと錯覚した。
楽団長への義理で歌い続けた日々の中で、忘れていた感覚だった。
日中に聴かされたギュンターの歌に大いに刺激され、全身で歌いたいという気持ちが湧き起こった。生まれて初めての衝動だった。
「どうか、時間をお与えください」
エミーリオはひたすら言葉を待っている。
ローデリヒは己の前に膝をつくエミーリオの頭上を見下ろし、おもむろに口を開いた。
「皇帝ローデリヒとしては許可しない。……と言ったら、どうする?」
エミーリオは弾かれた様に顔を上げた。
「拒否されるとは思わなかったと言う顔だな」
ローデリヒは驚愕を浮かべた顔を見下ろす。
「俺は歌に詳しくないからな、おまえのこだわりが理解できん。オティーリエのことも、おまえの言う通りに王子をもうけた今、いくら男を囲おうと立ち入る気はないし、その男におまえがわずらわされることも望まん」
眉一つ動かさないローデリヒに、エミーリオは茫然とした。
彼が望まないのなら、エミーリオは願うことも叶わない。
床につく拳が震えるのを見つめながら、ローデリヒは再び口を開いた。
「――だが、一人の人間としておまえの願いを叶えることは、やぶさかではない」
エミーリオはゆっくりと瞬く。
「おまえは何も欲しがろうとしない。爵位も、城も金も。他の者なら一も二もなく飛びつくようなものに興味を示さない」
「僕にとって何よりの褒美は、ローデリヒ様のお側に置いていただくことです。その妨げになるようなものなら欲しくはありません」
「ああそうだ。そんなおまえが俺と過ごす時間が減ることになるのを承知で言うのだ、それだけ真剣なんだろう。……立て、エーミール。いつまでもおまえのそんな姿を見ているのは忍びない」
「……ローデリヒ様」
ローデリヒが差し出す手に手を重ね、エミーリオは立ち上がった。
二人の視線が近くなる。
「愛する者の願いならば、聞き届けてやろう」
穏やかな声。
優しい眼差しで促され、エミーリオは触れる手を両手で握りしめた。
「ローデリヒ様。どうか僕に歌を学ぶ時間をください」
「存分に励むといい」
ローデリヒはうなずいた。




