屋敷ダンジョン
「やってられないんだよ、実際」
男の叫びが屋敷内に響いた。次いで激しい足音、男が走っている。
尾のある畏まった黒服、ヒラヒラと揺れ解けかけた紐のネクタイ、予算の都合で無骨なままにある普段使いの靴、頑なに手放さなかった紐付き麻袋。
どこから見ても無理なお洒落に手を出した冒険者だ。
男は依頼で、不審な様子を見せる領主の屋敷を調査し、また近頃になって姿を見せない領主の様子を見る事になっていたのだ。
男はこの件に関して、十中八九領主が自殺して霊的種モンスターにでも変じたのだろうと当たりを付けていた。
「だ…誰だ」
男に声が掛けられ、流し見ると聞いていた特徴に合う人物、領主が居た。
「事情は全部知ってまさあ、俺は冒険者だ。こっちに来てくだせえ」
慣れた風にまくし立てながら男は領主の襟を掴み身体をぐいと引き寄せる。
突然の事に領主は困惑しているがなんとか口を挟む。
「分かるのか。有り難い事だ。すまない、頼む、アレを、魔法陣を破壊して、ああああああ」
喋る内に領主の背にどこからともなく粘液がしたたり、グツグツと沸騰する様な音を立てながら全身が爛れ溶け消えていった。
男は無感動に爛れが自らへ移る前に残骸を捨てて遁走を続行した。
男が領主の最期を目撃するのはこれで七度目、全て同じ死に方だった。
話も通じれば触る事すら出来る領主を、男は三度救えまいかと試したが、ソレは既にその最期を何度も繰り返すだけのモンスターとも幽霊とも言い難い存在に成り果てていた。
敢えて呼ぶなら案内人だろうか。
死因となった粘液は最も恐ろしいモンスターとして時に名の上がるアシッドスライムである。
あるかどうかも怪しい自我を持った緑黄色の劇毒は粘液ゆえに斬る事も敵わず、焼けば高熱を持って飛散し、冷やせば尖ってやはり飛散し、散っても再集合して動き回る。
同じスライムを冠するモンスターの大方はぶよぶよとした外殻や体質や弱点である核を保有したものであり、事によれば農夫でも対抗できる弱いモンスターの代表格であるが、アシッドスライムにはそういった付け入る隙が一切存在せず救いが無い。
唯一救いに挙げられるのは生息域の条件が極めて限定的で、そうそうまみえる事が無い事くらいだろうか。
「だ…誰だ」
走る男に声が掛けられ、事情をある程度話して死ぬ運命にある領主を無視して男は走り去った。
これで領主が生き延びられるか、と男は淡く期待したが背後からの断末魔を聞いて嘆息した。
アシッドスライムの発生条件と生息域の条件とは先ず人工物の中である事、その人工物が古くからある事が最初の条件だ。
その点に関して領主の屋敷はやや歴史が浅い小綺麗さはあった様に見えたが、領主だった存在はそれを嫌って下手を打ったらしい。
次に必要なのは悪徳と清廉なる生贄の怨念だ。
これに関しては推察に過ぎないが、概ねそういったなにがしかの痕跡を残して、発生させた者が皆既に死んでいる為に知る由は無い。
それを以ってアシッドスライムが産まれるのだが、アシッドスライムとて一応は生物のような存在なので餌が無くてはいずれ枯渇して絶える筈である。
が、今回においては領主だった存在が繰り返し生き絶えながらアシッドスライムを産み出し続けているのだった。
男が屋敷の廊下を曲がって行き、柱の一本に印の様な傷が付いているのをチラと見た。即席ながら自分で考えて付けた印を見た男が目を剥いた。
「やっぱり広過ぎたんだ、ふざけやがって」
男が試しに印を付けたのは全く別な壁だったが、それが柱に付いていた事から男は、屋敷がダンジョン化している事を確信した。
建造物ダンジョンは有力な説によっても霊的な何かが何かしているんじゃないか、という程度にしか把握されていない不可解なものだ。
その最大の特徴は外観に関わらず理不尽に内部が拡張し、可変する。
概ねその時その時にある内部をある程度模倣して新しい内部が創られる為、時間が経つ程不可解な部屋が出来ていく。
例に挙げるなら、グラスや窓を模倣して創られたガラスの家具、本を含めて全て木製の本棚や、宝石や貴金属で出来たカーテン。
などといったものが平気で存在する。
そこから財宝の部屋や砂糖や塩で出来た家具等を狙って進入したがるダンジョン冒険者は多い。
が、アシッドスライムの生息域にもなり易い為、最も危険なダンジョンとして発見され次第建造物ごと破壊する事が推奨される。
伝説においては魔王の居城もまたダンジョンであり夥しい数のアシッドスライムが生息するらしい。
男が進入したダンジョンはまだ出来て日が浅い為か奇妙な部屋は今の所見かけていないが、印を付けてから発見するまでの時間を考えるに、今も途轍もないスピードで空間が歪んでいる事が察せられた。
周囲にアシッドスライムも領主も見当たらない事を確認して足を緩めた男は手近な窓を開けて外を確認してみる。
別な部屋に繋がっていた。
「くそっ」
別な窓を開けると中庭が見えた。植物の生えるがままに放置された庭園はある種の荘厳さを感じられるが今の男にとってはどうでもいい。
重要なのは空が見え、建物の一応は外である事が重要なのだ。
中庭の形状が館の外観に見合っている事からも、そこがダンジョンの外である事が期待出来る。
「壁…登れる。逃げられそうだっ」
男の声が弾んだ。
が、
「ぬっ…ぐううう」
下へ飛び降りられるかと確認した瞬間、どうにも恐怖心が煽られた。
飛び降りて無事に済まない高さという訳でもなく、高所恐怖症という訳でもない。
恐らくはダンジョンの機能として生理的な恐怖心を過剰に掻き立てられているのだった。
戦闘においてアンデッド等の幽霊じみたモンスターというのは基本的に遅く弱く脆く、数で押すのが基本戦法ないわゆる雑兵に過ぎないが、呪術的な作用によってか生理的な恐怖心を過剰に煽る。
慣れる事が出来ない訳ではないが、一流処でもほぼ完璧に克服出来る勇者は一握りである。
恐いのは仕方の無い事だ。
そして男が居るのは霊的な力渦巻く屋敷ダンジョンであり、こうした仕掛けがあるのはごく当然であると言えた。
そもそも、人間の早歩き程度のスピードでしか移動出来ないアシッドスライムから走って逃げていたのはずっと不安を煽られての事だった。
「ああ、くそ。ふざけんな、くそ…」
言いながら男が窓枠に両足を掛け、片手を掛け、今にも落ちそうな体勢になる。
額から脂ぎった汗が玉の様にぽつぽつと浮かび、奥歯がカチカチと鳴る。
フツフツと浅く荒い呼吸を繰り返し、筋肉が緊張する。
男は飛び降りようとしている。だが恐ろしくて出来ない、させてくれない。
「落ちるぞ、落ちる。俺は落ちる…」
敢えて下を凝視して男は緊張し続ける。集中や精神の統一、覚悟…一切感じられないが、男は兎に角下を見続けた。
「だ…誰だ」
「ああああああ」
背後から不意に掛けられた声で男はビクリと跳ねて、その勢いで窓から落ちた。
男はそれを狙って、それを忘れたのだった。
ガサガサと植物のひしゃげる音を聞きながら、園芸用にかつては手入れされていた様なフカフカに渇いた地面へめり込んだ。
身体中に付いた土と葉と花びらの匂いを嗅いで、落涙した目を閉じて、開けて、空を見た。
ポツリと、沁み入る様な声で男は言った。
「棘付いた花ばっかじゃあないか」