女戦士
森の中を女が走っている。
下半身に着込んだ鎧と軽装な上半身は大型モンスターを相手に大型の武器を扱い攻撃を避ける為の前衛職に従事している事が分かる。
武器を持っておらず、顔に見られる必死の形相から敗走している事がうかがえる。
体中に付いた血がそれまでの激闘を物語っており、全力疾走している様子は怪我を未だ負っていない事を示している。
女の後方から追手の鳴き声と木々の軋みが聞こえる。危険モンスターとして代表的なオーク族の発するものだ。
オーク族は人間に多少劣る程度の知能と大幅に上回る膂力で人間に害を成すモンスターである。
人間に肥大化した筋肉を乗せた様な姿、緑の肌。腕は膝まで伸び、足は上半身に比べて子供の様な大きさだが付いた筋肉は怪力自慢のドワーフ族に迫る踏み込みを生み出す。
女を追うオークは二匹、森の木々を猿の様に飛び回って追っては僅かずつながら着実に女を追い詰めている。
足が遅く地形に関係の薄い白兵戦を好むオーク族に似つかわしくない地形の利用ぶりは通常のオーク族に見られない技術だ。
女と仲間達が犯したミスは幾つかあるが、一番の理由は森という地形をオークが利用して仕掛ける筈は無いだろう、という浅慮だった。
踏み込みこそ凄まじいが、足の遅いオーク相手ならいざという時は走って逃げられると考えていたのも甘かっただろう。
今見えているオークは俊敏さをも備えた上半身を巧みに扱って木々を飛び移りそれこそ物を放った様な素早さで絶えず動き回っている。
要するに戦い慣れ始めた冒険者メンバーにありがちな、「こういう奴らは間違いなくこういう事をしてこういう事をしない」という演繹的に過ぎた決め付けが裏目裏目に出て全滅しかかっているのだ。
女は走りながら歯を食い縛り、涙と嗚咽と胃液や尿を漏らしながら、これまでの自分達の浅はかさを後悔していた。
こういった経験を持った者こそゆくゆくは真に優秀な冒険者になるのだが、基本的にそこで終わるのが大概の冒険者だ。
いよいよ迫ったオークの指先が女の長髪をつまんだ。人差し指と中指で挟んだだけだが、猿はそれだけでもぶら下がれるし、オークの筋力は猿よりも遥かに力強い。
女の頭ががくんと止められ体が無理な軌道を描いて跳ねた。
跳ねた瞬間、女は死を悟って、即座に命を惜しんだ。
冒険者として強者を気取った誇りはクシャクシャに潰され、仲間を見捨てて敗走した時点で高潔な精神は消え去った。今まさに追い詰められた瞬間に残ったのは生き汚さ。
こうした経験を持った者こそゆくゆくは真に優秀な冒険者になる。
空中に投げ出された体に取り付けたささやかな刃物が目に入る、削ぎ取りに使う戦闘用でない小剣だ。
彼女自身が戸惑う様な流れる動きで小剣を抜いて、髪を切断。逃走を続行した。
オークは女を掴む為には一度地上に降りなければならず、地上での走りは人間に敵わない、髪を捨てたオークは近くの木に取り付いて追跡を再開する。
別な木の上から髪と言わず全身にのしかかろうとオークが跳んで来る。
女は横に逸れて避ける。
何故避けられたのか女にも分からない、何故か察知出来た。
兎に角生き延びなくてはならない。
兎に角生き延びられるかも知れない。
女に安心や希望は依然感じられないが、精神的な全てをかなぐり捨て必死を体現する行動が表れていた。
「助太刀するぞお!」
男の声が女の前方から掛けられた。そこから飛んできた針の様なもの…ペンがオークの顔に刺さった。
オークや本物の猿よりも素早く木々の間を縫って男が現れた。
汚れた皮鎧の軽装、腰に差した剣、麻袋に申し訳程度に縫い付けた紐を使って背負う姿はどこから見ても旅の冒険者だ。
「あんた美人だから武器を貸す!追手は二匹か!武器は何を使う!」
女の隣に何処からか降り立って男が剣を構える。
突然の出来事だが、何故か女は戸惑わなかった。
「斧!大斧を貸してくれ!」
よしきた、と言いながら男は麻袋から女の背丈を越える大斧を取り出した。
男に渡された大斧を握って、女の恐怖に粟立った肌が興奮に震える。元々の安い武器よりも良質で手に馴染むからではなく、反撃に出られるという奇妙な安堵感からだった。
オークが顔のペンを抜き捨てて背負った大斧…女の武器だったもの…を構える。
男にもう一匹のオークが飛び掛かり、共に離れた場所まで転がっていった。
女は男との各個撃破を考えたが、男が目で送った簡単な合図は援護不要と読めたので、止めて目の前のオークを見据えた。
オークとの一騎討ち。チームで戦ってきた女には経験の無い事だ。
オークが上段に構え、女が背中を見せる様な下段に構える。
女が素早くオークへ間合いを詰める。
オークが上段から大斧を振り下ろす。
女は大斧を下段から打ち上げる。
通常オークの膂力が打ち伏せる所を、女の詰めた距離が助走になってオークの大斧を弾いた。
これは女の大斧が良質であり、重心が遠心力と筋力と助走とを十二分に引き出す造りであった事が手伝った。
オークが一回転した女の背中目掛けて再び大斧を振り下ろす。
女が振り上げた勢いで再び下段から打ち上げる。
オークの大斧が大きく弾かれ、仰け反った。
女は二回転目を追えると同時に一歩踏み込む、二回転の勢いに踏み込みが加わる三回転目。
オークの太腿から肋骨にかけて鋭角の鉄塊が分け入って通り過ぎた。
オークに特有の強過ぎる筋力が自らの内蔵をどぱりと押し出した。
オークが叫ぶ様に血を吐いた。実際に叫んだのだろうが肺が破壊された為、出来なかった。
「おおおおおおおお」
代わりに女が叫んだ。片手に大斧、もう片手に削ぎ取り小剣。
何故髪を切った時に捨ててなかったのか、三回転の時に邪魔だと捨てなかったのか、元の鞘に仕舞っていなかったのか、片手でオークに仕掛け打ち勝ったのか。全部女には分からなかった。
とどめの小剣をオークの胸に降ろす。
スルリと抵抗少なく胸骨を越えて心臓を貫いた。まるで宝石細工の端で指先を切った様に、呼吸が合ったとしか言えない切れ味だった。
女に目配せした男はオークと揉み合いながら転がった先で偶然馬乗りになる形でオークと相対した。
「ラッキー」
男はそう言いながら片手に持つ剣を逆手にしてオークの顔へ突き立てた。
オークは咄嗟に剣先を掴み、剣は手の甲を貫通し額に少し刺さるばかりで停止した。
オークがニヤリと笑って反撃に出ようと思案した時には、男がもう片手で剣を掴み両手で圧した。
オークは驚いた表情で絶命した。
「やあやあ、ブランディッシュって感じ。凄い技見せて貰ったね」
男が片手で胸を叩いて拍手した。もう片手には額に穴があるオークの首。
女は大斧に縋る様に尻餅を着いて肩で息をしている。戦利品を取る気力もない様子だった。
「ブランディッシュとは何だ」
女が座ったまま睨む様に言うと肩を竦めて男は答える。
「遠い国の言葉で、振り回すとかそんな意味さ」
「…良い斧だ。私に譲ってはくれないか」
「自前のは?」
女が顎で指した方にはオークの死体。その手に握った大斧は強い衝撃の為か木製の柄がバキバキに折れていた。
男は溜息を吐いた、感嘆の溜息だった。
「頼む、金は払う。今は無いが、必ず払う」
女の声は命乞いめいた色を含んでいる。
男は溜息を吐いた、諦観の溜息だった。
「やるよ」
「えっ」
「俺にゃ使えない武器だし、あんた多分、さっき一端の戦士になったんだ。祝いにくれてやらあ」
「いいのか」
男が頭をガリガリと掻いて言った。
「ああ、ああ、何度も言わせないで欲しいねえ。どうも口説き文句みたいで嫌になる」
女は少し考えて走って来た方向を指して悔しそうに言った。
「では、向こうにある仲間達の遺体から戦利品や装備を貰って行くがいい」
「そりゃまた怨念が篭ってそうだねえ。貰っちまって構わないが、いいのかい」
「どうせ死んだ身だ。私を含めてだが」
男は目を細めて女を見た。聞いた言葉を咀嚼して全身を眺める。
「何を見ている、礼に体を寄越せと言うのなら、構わないぞ。そう言えばお前、私を美人と言っていたな」
「あんたやっぱり戦士だわ。騎士団とか傭兵団にでも入った方がいいんでないかね」
男は言って直ぐに女が走って来た方角に歩いていく。
「待て、私は冒険者だぞ」
女が言いながら立ち上がろうとするが、緊張が切れた為か再びへたり込んだ。
男は歩みを止めず顔だけ振り返って応えた。
「そりゃあお前さん、冒険者なら俺を置いて逃げるのが正しかったろうよ、命あっての物種さ。誇りかなんか知らんけど立ち向かうのは命知らずな戦士のする事だと思うねえ」
女は聞いた言葉を反芻した。
こうした経験を持った者こそゆくゆくは真に優秀な冒険者となるが、女は戦士になったらしい。
ハッとして既に遠くなった背中に向かって叫んだ。
「お前!最初から大斧くれてやるつもりだったな!」