神狼と呼ばれた只の獣
その町は固まっていた。
氷漬けだとか、土に埋まっていると言うわけではない。
住人が皆、止まっていた。
別な所では氷漬けだったりも、土に埋まっていたりも、石化していたりも、消えていたりも、朽ちていたりもする。
とにかく、止まっていた。
その町では時間が固まっていた。
「また一人、止まっちまったか」
男が止まった町に訪れた。
汚れた皮鎧の軽装、腰に差した剣、麻袋に申し訳程度に縫い付けた紐を使って背負う姿はどこから見ても旅の冒険者だ。
男が空気を吸って、吐く。
言葉通りの意味で、空気が固い。男は呼吸に難儀した。
そしてつまらないものを見る目、慣れた様子で、周囲を見渡す。
豪気そうな笑みを浮かべたままの露天商を無視して商品の木の実をくすねて、匂いを嗅ぐ。
「わかんねえ」
空気の固さで匂いが伝わらない。
思い切った男は木の実を齧った。シャク、と音が響いた。
「ん、食える食える」
男は木の実を齧りながらぶらぶらと周辺を歩き、ふと思い付いた様に跳ねたり、土を蹴ったりする。ザッと飛んだ土が空中で静止する。
「息苦しいが、動ける。音も通るな」
風は無い。空を改めて見れば太陽は男が町に来た時から動いていない。
男が町に接近したのは夕方に差し掛かる頃で、到着した時は昼になっていた。
木の実の食いさしを捨てた頃、宙に浮いたままの少女を見付けた男は、その肩をチョンと触ってみた。
少女はゆっくりと加速しながら体勢も表情も変えずに墜落して、倒れた。
「ふうむ」
男は少女に手をかざした。
男の手に空気がゆっくりと集まり、出血した様に水が手を伝ってチョロチョロと滴る。
少女に掛かった水は服に滲む事もなく撥水して土に染みていった。
男はそれを確認して一人納得した様に頷いた。
歩き去っていく前に、聞かれない事を承知の上で謝罪を口にした。
一つの大きな家に男は目を付けた。
不自然な程長い円筒、梯子の付いた煙突を見てピンと来た。
「この家だな。原因はここに違いない」
ドアノブに手を掛け、開けようとした。ドアはびくともせず、男は顔をしかめた。
男は麻袋から開錠道具を取り出し、鍵穴を弄って開錠した。
ドアが開いた。
「お邪魔しまーす」
扉の向こうにはリビングが広がっており、同じく固まった人間が複数人。
一人を除いて皆が女性であり、不自然な程の美少女が揃っている。
一人だけの男は何らかの魔導器具を弄っている途中で固まっている。
男は不躾に一人一人を観察した。
一人は赤い長髪を翻して魔導器具に駆け寄っている。
一人は猫の耳をピンと立てて、男の背中に寄り添って作業を見つめている。
一人はエルフで、鼻歌でも歌っている様子で食材入りの籠を持って奥へ向かっている。
一人はメイド服を着て、部屋の隅で佇んでいる。
そして男は器具から手を離して女達へ何かを言っている。
「ハーレムだねえ、嫉妬しちゃうねえ」
言いながら男は魔導器具の男へ剣を抜き、振るった。
と、その一瞬に狼の顎がふわりと現れ、剣を齧り折った。
瞠目する男の前で、顎は狼となって魔導器具の男を守る様に立ちはだかった。
狼が喋った。
「貴様、我が主へ刃を向けるとは。いい度胸だな」
狼ながらドヤ顔である事が分かる表情で、主人をチラと見て、二度見して再び口を開く。
「あ、主!?これは一体…貴様の仕業か!?」
狼は男を睨んだが、男は剣を放って両手を上げて無抵抗を示していた。
慣れた様子だった。
「先に言っとくが、この現象は俺の仕業じゃあない。説明をさせて貰いたいんだが、構わないかね」
「貴様、人間の分際で随分と…まあいい。名前くらい名乗ったらどうだ」
「それなんだがねえ、今は名を名乗らない方が、多分いいんだわ。アンタも多分、名乗らない方がいい。下手すれば周りと同じになる」
狼はしかめ面で周囲を、恐らくは建物の外をも感覚で捉えて、頷いた。
「最初は、そうだな、近くの町やら村やらで旅の情報を漁ってたら、この土地の存在が不自然に無かったから、俺は此処に来た」
「主の受け売りだが…此処は首都とは言わぬが、流通は少なくない町の筈だ」
「それは俺も知らん。とにかくこの現象が起きると人の記憶が書き換わって、誰も来なくなるらしい…剣、拾っていいかい」
「駄目だ、まだ信用に足らん。お前が来れたのは何故だ。それが主に剣を振る理由とどう絡む」
「俺が来れたのは、多分その書き換わりの範囲の外から来たってのか、多分普段からロクに名乗らないからだ。名前って、知られるだけでも結構いろんなしがらみが生まれるからな」
狼は鼻を細かく鳴らして腑に落ちない顔になった。
「そんな魔術は聞いた事も無い」
「俺も使える訳じゃないし、幾らかの条件しか知らん。魔術はともかく、魔法ってのはつくづく理不尽なものだろう…続けても?」
「続けろ」
「幾つかの前例の、更に幾つかの解決例から見て、この男が原因だと俺は当たりを付けた。正直、殺して解決するかは分の悪い賭けだが、やろうと思った」
だが判断はアンタに委ねる事にしよう。
そう言って男は断らずに剣を拾って、腰に留めた。
留め具のパチンと鳴る音が酷く響いた。
狼は威嚇する様に唸って、吠える様に言う。
「何が原因だ!!主がこの様な暴挙、起こす訳が無い!どうせこの魔導具の暴走が原因だとでも思っているのだろう!」
男は怯みながら、それでも慣れた様子で答える。
「お、俺だってそんなちっこい器具の暴走でこうなるとは思ってないさ」
「では何を根拠に原因だなどと!」
「それはさっきも言ったが、推測の多い話だ。
偉い学者方の仮説…高次元の神々がどうのこうの…って話を俺なりに噛み砕いた説明で言うとだな」
言いながら男は部屋を改めて見渡して、確信を込めて続けた。
「この男は英雄の物語の主人公で、神様が物語を書いていたが、神様は物語を書き掛けのまま捨てちまったのさ。
だから宙ぶらりんな所で止まっちまった」
男は狼の目を真っ直ぐ見た。狼は狼狽した。慮外の指摘だったからだろう。
狼だけに狼狽。と男は思ったが、言わなかった。
「意味が分からない」
狼はそう言った。
「俺も分からない」
男も分からなかった。
「そんないい加減な事で主を殺そうとしたのか。というか、それで、この…止まった時は元に戻るのか」
「この男が主人公なんだろう、という確信はある。それでも時が戻るかは、知らん。
一応、成功したって前例はあるが、可能性があるだけだ。
元々他人事だし、俺はもう手を出さん。生き残りのアンタに任せる」
狼は不快感を露わにして、外へ向かった。男は黙ってそれに続いた。
狼は周囲を肉眼で確認し、空を見る。
太陽が燦々と照っている。
「今は夕餉の時間の筈だ」
「時が止まってるからねえ、この町を離れりゃ夜になる筈だ」
「空気が固いな」
「時が止まってるからねえ、息するのも一苦労だ」
狼はスンスンと鼻を鳴らして、溜息の様な声を洩らして、男を見る。続いて魔導器具の男が住む家を見た。
大きな煙突を見て言った。
「お前がこんな大それた事が出来るとは思えない。主なら或いは、とは思うが、そんな下手を打つとも思えない」
「この現象はその主さんの意思とは関係無い。多分誰も望んじゃいないだろうさ」
「神の仕業だと?」
「俺はそう見てる」
「なあ、お前はあの石柱が何か分かるか」
「風呂だろ」
事もなげに男は言った。狼は弾かれる様に男を見た、驚いた顔をしていた。
「主の作ってた魔導具が何か分かるか」
「魔石の動力源だろ、多分エンジンと呼んでたろう」
「お前は、主と同じなのか」
「なあ、狼さん。互いに身の上を語るのは、止まりそうで、ちょっと怖い状況なんだよ。多分アンタの思う通りだから、今はそれで納得してくれないかね」
狼は考えた。男は黙って見た。
やがて夜になる筈の時間になった様で、男は手近な商店から食べ物をくすねて食べた。狼はそれに何か言おうとしたが、何も言わなかった。
男は狼に手持ちの、麻袋から出した食料を差し出した。
「お前が盗んで、我がお前のものを食べるのか?何故だ」
「俺も知らんよ。ただ、町に関わり過ぎるとアンタ止まるかも知れんからな。俺は他所者だからそこまでは大丈夫だ、と思う」
「いいかげんだな」
「魔法ってそんなもんだろ」
狼は渋面になって言う。
「なあ、我はかなり…少なくともお前の十世代以上前から生きているのだぞ。だがこんな気味の悪い魔法など知らぬ。魔法とは何なのだ」
「知らんよ。一生掛かっても分からん。だから魔法使いは研究暮らしなんだろうさ」
ただ、と付け加えて男は食べ物を齧る。
「アイスランスだとかファイアウォールだとか言ってるウチには、それは魔法じゃあないだろうな」
「それは魔術で、魔法だろう。神級魔法や古代魔法だけが魔法だと?」
「そもそも階級分けしてるのは全部魔術で、魔法じゃないと思ってる」
喩えばだ。そう言って男は教鞭を振る様に指を振って言う。狼は戸惑うばかりだが、話には聞き入っている。
「水に味付けをした茶を見て、これは水だ、とは言わないだろう。
詠唱や魔力の操作、魔法の名付けというのは味付けであって、魔法を扱える様に貶める事なのさ」
「分かる様な、分からない様な話だな」
「俺もよく分からん」
狼も男もよく分からなかった。
「俺は此処を去るが、アンタ結局どうするんだ」
朝やけになる筈の時間。昼日中にテントを片付けた男は狼に聞いた。
「主が死ぬ訳にはいかない。我も死んでしまう事になる」
「魂使った契約でも結んでたか」
「いかにも」
大変な事で、と男は他人事に言いながら野営道具を片付けて出発の準備を進める。
「それじゃあ狼さんは、アレか、ここの守り人になる訳か。ロマンのある話だねえ」
「お前に付いて行こうと思っている」
「は?」
「我には、知識が足りぬ。知れば、或いはコレを何とか出来るかも知れない。そうだろう?」
狼はニヤリと笑った。準備を終えた男はあからさまに嫌そうな顔で応える。
「おすすめ出来ないね。ここを放って置いていいのかい」
「貴様が寝ている間に、そこらの人間を攻撃してみた。全部弾かれたよ」
狼が鼻を向けた先には穴の空いた地面と宙に止まった土煙と土礫。男はしかめっ面になった。
「現象が終わった途端あそこは大惨事になるかも知れんぞ」
「止むを得まい。とりあえず傷は付かぬのだから放って置いても問題無い事が分かった。貴様の振るった剣も無駄だったろう」
くつくつと笑う狼を男は不快そうに見た。
「勝手にしろ、阿呆め」