曲がる死
鮮やかな石畳に覆われた歩道を猛る陽が差す。往来の最中、一人の女性が落下為て弾けた。赤い飛沫が円を描き、中心には壊された肉体と瀟洒な喪服。暫し辺りが静止為る。遠くから駆動音と鳴き声が涼風と共に訪れる。軈て男の太い絶叫が響き、裂帛が伝播為る。然し乍ら稍経つと蒸れた血の香りが鼻腔へ至り、肺臓を見たし、人々を冷静たらしめる。通報為る者、嘔吐為る者、遁走為る者、撮影為る者、見物為る者等へ現される。赤色灯の犀利さが有象無象を現実へ回帰為せ、路面に貼り付く死体は既に乾き乍ら在った。
生じた一切の喧騒が彼女へ届く事は無い。
出入り為る人々を眺める女性が居た。新しい喪服に身を包み、歩道の中央で立ち尽くして居る。歩む人々が怒りや惑いを表して避けて行く。伝う汗が眼を侵して尚も凝と為動かない。軈て女性は徐に踏み出し、多くの人が流れ込む大きな商業施設へ這入って終った。
女性は施設の中を逍遥為た。否、彷徨と云う可きであろうか。上ったと見えれば直ぐに下り、軽食を摂ったり本を買ったり為る。長椅子へ腰を下ろして茫然と人々を眺めて居る。氷菓を買い、小さな装飾品を買い、便箋と封筒を買う。何れも買った切りで眺めて過ごす。氷菓は解けて終った。他の物は鞄の中へ打ち遣られた。
午の正刻が近い頃、女性の表情が引き締められた。決して前進の意を持たぬ、唯の一歩を踏み出す許りの表情である。女性は目に付いた長椅子へ鞄を置くと早足に上へ々々と向かって行った。女性が向かったのは屋上である。本来は立ち入れぬ上階へ女性は容易に踏み込んで行く。
吹き荒ぶ風は女性を巻き上げんと為る。両手を広げ、蒼穹を見上げ、女性は高らかに笑う。其の声すら巻き上げる風は何処か愉悦に満ちて居た。図らず女性が視線を移すと金網の一部が開けて在る。其処に絡み付いた長い糸が揺れる様を女性は茫然と見詰めて居た。
「落ちる時、私の髪も然う成るのかな。」
歩み出した女性は糸の横を過ぎ、金網を潜り、唯強く唾液を飲み込んだと思えば空中へ踏み出した。支えを失った女性は忽ち落下為る。強く目を閉じて自らが弾ける時を待つ。暫く為てから目を開けども今は漸く半分も落ちたであろうか。其の遅さは死が接近を愉しむ様に感じられる。
女性の脳裏を苦悶が過る。決して助かり得ない状況乍ら脳髄の最奥では助かろうと云う意思が小さく煌めき始める。自らの持ち得る経験、知識、判断…………。何を以て為ようと既に四半を残す許りと成る。
「愈々……。」囁いた女性は屹度地面を睨み付け、口唇を噛み締める。
然れども鮮やかな石畳が迫る程に自分の体は遅く落ちる。脳髄が生きる事を諦めぬ。世界を受け入れず、有らん限りの活性を以て見得る中に生存の鑰を求める。迫り来る石畳は必ず女性を殺す。違わず殺す。
八半。女性は両親を思い出した。
一六半。女性は青春を思い出した。
三二半。女性は情熱を思い出した。
六四半。女性は激励を思い出した。
一二八半。女性は成長を思い出した。
二五六半、五一二半……、一〇二四半…………、二〇四八半………………。
遂に女性は自ら悔いた。悔いれども女性は生きる本能と死ぬ理性の間隙に落ち込んで行く。