セッション26 THE CALL OF CTHULHU9
走って来たのは、着流しに身を包んだ中年の男性だ。鋭い目つきと強面が明らかに堅気ではない印象を見る者に与えている。そんな男がまさしく血相を変えてという表現がぴったりな程青ざめた顔をして、こちらに近寄ってくる。
「……誰だ?」
「さあ……少なくとも自警団の人間じゃないね」
「服装から察するに魚鱗の軍勢でもないでありますね」
「ああ、彼は私の従者ですよー。海賊ではなく飯綱家――つまり私直属の者です」
言われてみれば、彼の左額に角が一本生えているのが見えた。角があり、頼姫の縁者というなら、彼も頼姫と同じ鬼型食屍鬼なのだろう。頼姫の元まで来た彼はそこでようやく周囲の惨状に気付き、眉をひそめた。
「む? こ、こいつァ一体……これ、どういう状況ですかィ?」
「後で説明しますー。それより、報告を先にして下さい。通信機も使わず、直接来るなんて……どうしたのですかー?」
「は、はい! 通信機はぶっ壊れちまいまして……いえ、それより大変でさァ、お嬢!」
男性は頼姫の前に跪く。
「御本家が、ダーグアオン帝国に乗っ取られやした!」
告げられた言葉を理解した瞬間、頼姫の顔が蒼白になった。
「そんな……ありえません! 本家は――飯綱家は鬼型食屍鬼の名門ですよ! 戦艦や魔砲のような最新兵器は持ってないにしても、古より保有してる魔術や兵力は極東有数の高さにある筈! 一体敵は何万人の規模で攻めて来たというのですか!」
「敵は――敵は三人! 『十二神将』の三人です!」
「っ!?」
頼姫は脳を直接ハンマーで殴られたような気がした。
本家が帝国に占拠されたという事実だけでも受け入れ難いのに、それがたった三人の手によるものだという事が信じられなかった。彼女の認識している限り、飯綱家の総力は朱無市を上回る。自分が朱無市自警団に敗北した今だってそう思っている。その飯綱家が片手で数えられる人数で乗っ取られたなどと到底信じられない。『十二神将』の戦闘力は如何ばかりだというのか。
頼姫の従者が報告する傍ら、刀矢は昨日に大海軍幹部・黒障辰星と交わした会話を思い出していた。
『偵察――いや、下見ってとこかな? ああ、心配しなくてもいいよ。下見しなきゃいけねえのは房総半島の方だから。朱無市には今のところ何の命令も受けてないよ』
房総半島。そう、あの男は房総半島と言っていた。房総半島で何かをする為に下見に来たのだと言っていた。何をするかまでは教えてくれなかったが、今回の飯綱家襲撃。飯綱家は房総半島にあるという。無関係とは思えない。
「頼姫ちゃんの実家を襲撃する為の下見、だったって事か……?」
刀矢が口の中で呟いた言葉は誰にも聞こえずに消えた。
「じゃ、じゃあ……私のお父様とお母様は……!?」
聞きたくない。だが、聞かなくてはならない。怯えと義務感との葛藤の狭間に自分を置きながら頼姫は震える唇で従者に問う。
「…………討死、されやした。申し訳ありません。この身は御館様の盾となる事すら出来やせんでした」
「そんな……っ」
彼は頼姫の父親が殺される直前に、彼からこの惨状を各地に散った我が子らに伝えるよう命じられたのだという。彼が戦場を脱出した後、周囲に響き渡ったのは放送機越しの敵の勝利宣言。飯綱の当主とその奥方を殺害したという、無慈悲な通達だった。
「そんな……お父様、お母様……そんな、そんな……! あ、ああああぁあ……っ!」
さあ、と血の気が引く音が聞こえたと頼姫は思った。膝から崩れ落ちた彼女の顔色は蒼褪めているというよりももはや白色に近く、死人のようだった。実際、心は死ぬ寸前まで打ちのめされていた。両親の死、そして故郷の喪失という事実は、彼女にとってそれ程重く、正気を失わせるものだった。
『皆さん! 南東の空を見てください!』
亜理紗の声が通信機より響く。
『南東の方角より巨大な影が接近中! 特徴から察するにシャンタク鳥――その大きさから恐らく大海軍中将、黒障辰星が飼い鳥『歳星』と思われます!』
その場にいた者全員の目が南東の空へと向かい、そして釘付けになる。
宵闇を貫いて、一体の翼を広げた何かがこちらに飛んで来ていた。一見すると鳥のようだが、明らかに違う。頭部は馬に近く、羽毛はなく、その表皮は鱗で覆われていた。全長は一二〇メートルを超えているだろうか。蝙蝠に似た翼をはためかせたそれは、漆黒の空を悠然と渡っていた。
その生物の背には、三人の人影が騎乗していた。彼らの存在を認識した瞬間、その場にいた全員の心臓が凍りついた。遠目でも分かる。彼らこそがたった今、飯綱家を襲撃したと話題になった張本人達――大海軍将官の三人だったからだ。
人類最大の敵が、大海軍の幹部があそこにいる。その事実だけで、全員が恐怖に動けなくなった。三人がこちらの視線に気付いているのかいないのか、この距離では定かではないが、ただそこにいるというだけで指の一本一本を大地に押し付けられているような暴力的なまでの重圧感を、その場にいる全員が覚えた。
そんな中で真っ先に動き出したのは、復讐の熱に浮かされた飯綱頼姫だった。
「お前らが……お前らがぁああああああああああああああああああああああああっ!!!」
魔神鎚を握り、混沌の瘴気を打撃部に纏う。
あの三人は自分の父母を殺し、故郷を滅ぼした相手だ。憎しみを止める理由はなく、殺意を向けない所以はなかった。激情は理性を容易く溶かし、シャンタク鳥諸共三人を撃墜せんと頼姫は鎚を振るう。
「よせ、頼姫!」
その寸前で頼姫の腕を掴んだのは、流譜だった。
「この距離で何をするつもりだ。何をしてもお前の攻撃は奴らには届かないぞ!」
「ううぅ……ぐっ、ううっ……うぁああっ……!」
いくら鬼の膂力といえど流譜のSTRには敵わない。頼姫は感情に任せて振り払おうとするが、流譜の握力から逃れる事は出来なかった。
「怒るなとは言わん。だが、今はその怒りを胸の内に抑えておけ。そして、絶やすな。奴らの首を刈り取る、その時までな」
「うっ、ううっ……。…………っ!」
しばらく頼姫は呻いていたが、やがて流譜の言葉に従い、力を抜いた。手を下にしたが、視線はそれでも天を睨んでいた。今は届かない天上人をこの上ない殺意に満ちた目で。
遠ざかる怪鳥を見送りながら、亜理紗は内心で安堵する。
もし頼姫が三人が攻撃し、三人が応戦してきていたら、全滅していた。
頼姫との戦いで朱無市自警団は完全に消耗し切っていた。HPもMPも全員が枯渇しており、武器も弾薬も底を尽いていた。攻撃はおろか逃走する力すらも残っていない。今、襲撃を受けていたら命乞いすら叶わず一方的に皆殺しにされていただろう。
……否、万全の状態であっても勝ち目はなかっただろう。あそこにいるのは世界最大の狂信者集団、その幹部だ。一人だけでも絶望的な強さだというのに、三人もいるとなると絶望そのものだ。どうしようもなく詰んでいる。
見逃された。その幸運に安堵を懐く。だが、感謝はしない。
彼らがここに現れたのは、おそらく示威と挑発の為だろう。頼姫の故郷を滅ぼした事でわざわざ頼姫を嘲笑に来たのだ。許せる筈もない。
あの三人はいずれ討ち倒さなくてはならない宿敵――怨敵だ。
「――これで終わらんぞ、大海軍……!」
流譜は天を睨み、相手に聞こえないと知りつつも言った。
直後、ドサッ……という音が地面を揺らした。
皆の視線が天から地へと戻る。そこには地面に力なく伏す刀矢の姿があった。
「先輩! 刀矢先輩!」
「まずい、『魔人血』やら負傷やらで血を流しすぎたか!」
「ちっ、情けない奴め……! おい、担架持ってこい、担架!」
『四番隊! 輸血もセットでお願いしますわ! 急いでください!』
「しっかりしてくださいであります、我が主!」
『目を覚ませ、副長! 気を失っては痛みに悦ぶ事も出来んぞ!』
「お前もう本当黙れよマゾ男!」
「刀矢さん! 刀矢さ――――んっ!」




