セッション24 THE CALL OF CTHULHU7
屋上には静かな緊張感が満ちている。永浦刀矢と飯綱頼姫。片方は無表情で、もう片方は笑顔だが、その双眸はどちらも固く、相手を見つめている。
「……ふふ、まさかここで刀矢さんが出てくるとは、意外でしたよ」
先に沈黙を破ったのは頼姫だった。
「いつも流譜さんの陰に隠れていた臆病者が、その流譜さんがいなくなったからといってこんな前に出てきちゃっていいんですかー? あんまり危ない事してると、プチッと潰しちゃいますよー」
「……面白いね。頼姫ちゃんにしては異な事を言う。僕なんて前線にいようと後衛にいようと殺す気でいたんだろう? 邪神クトゥルフを召喚するとは、そういう事だ」
「…………。……ええ、そうですねー。その通りです。揚げ足取らないでくださいよ。んもう、意地悪ですねー」
そう言った頼姫のにこやかな笑みの下から殺気が滲み出る。暗く冷たいその威圧感は実際に人を殺した者にしか出せないものだ。会話もここまでと頼姫が一歩、刀矢に近づく。彼女に対して刀矢は、
「君が来てからもう一年か。この一年の間にさ、色んな事があったよね」
「は?」
唐突な話題の転換に、頼姫が目を点にした。
「始まりは、頼姫ちゃんの方から僕達の前に現れたんだっけ。薬学の技能を売りにしてうちの門を叩いてきたんだよね。朱無市だと鬼型は珍しかったから、皆して騒いでてさ。懐かしいな」
刀矢の話に周囲もきょとんとしている。
自警団副長の話は続く。
「当時は三護先生が四番隊の隊長やってたんだよね。頼姫ちゃんは頭いいからさ、呑み込みが早くって。先生も引退したがってたってのもあるけど、まさか一年足らずで隊長格まで成り上がるとはね。隊長になる事が決まった日は夜通しお祭りで、黄美先生に怒られちゃったよね」
「あの……あの、刀矢さん……?」
頼姫を無視して男の話は続く。
「セラちゃんって結構猪突猛進系だからさ、戦うたびにボロボロになって。そんな彼女をよく出迎えて、『おかえり』って包帯を巻いてくれたのは、頼姫ちゃんだったよね」
その言葉に、セラ・シュリュズベリィが記憶を思い出した。
「訓練に熱中して寮に夕食後に帰ってきたアリエッタちゃんに、君が手料理出してくれた事があったよね。流譜が羨ましがって、結局皆に作るはめになっちゃったっけ。作るの僕も手伝ったよね」
その言葉に、アリエッタ・ウェイトリーが感情を思い出した。
「理科だったかな――來霧くんが勉強が分からなくて困っていた時に、君は家庭教師を買って出てくれたね。來霧は呑み込みが早いから、君も喜んでいたね」
その言葉に、浅古來霧が信頼を思い出した。
「ひとりだけ20歳を超えてるからってさ、ギルバート兄さんが『大人の余裕を見せてやる』なんて言ってビール一気飲みして、アルコール中毒で倒れた時……介抱してくれたのも君だったよね。膝枕とかしちゃってさ。羨ましかったね」
その言葉に、ギルバート・マーシュが感謝を思い出した。
「よく一緒になって亜理紗ちゃんをからかったよね。彼女、真面目だから反応が面白くってさ。でも、君はちゃんとその後のフォローを忘れなかったよね」
その言葉に、網帝寺亜理紗が温かさを思い出した。
「君が作ってくれたSAN値回復のドリンク剤、アレがなければ今頃僕達はとっくの昔に全滅してたよね。君がいたから、僕達は朱無市を守って来られたんだ」
その言葉に、朱無市自警団は親愛を思い出した。
「流譜のやる事為す事に君はいちいち笑ってくれたよね。大体は愛想笑いだったと思うけどさ、アイツ滅茶苦茶だから。時々本気で笑ってたよね。そういう時の君の笑顔は、本当に可愛かったよ」
その言葉に、永浦刀矢は懐かしさを思い出した。
「新薬の開発の為に夜中遅くまで起きててさ、机に突っ伏したまま寝ちゃってた事もあったよね。あの時、君に毛布を掛けたの、実は僕なんだよ。知ってたかい?」
その言葉に、飯綱頼姫は――
「何を……ねえ、何を言っているんです、刀矢さん……!」
「ねえ、頼姫ちゃん」
刀矢の瞳に頼姫の姿が映る。
「君は、楽しくなかったのかい?」
「――――っ!!」
「……僕は楽しかったよ」
瞳の中の頼姫は震えていた。
刀矢はそんな彼女を真っ直ぐに見、話を続ける。
「ねえ、頼姫ちゃん。今からでも、僕の下に――僕達朱無市自警団の下に戻ってくる事は出来ないのかい?」
頼姫の顔が、一層くしゃりと歪んだ。
「や……やめてください……! やめて、やめてやめてやめてやめて! それ以上言わないで下さい!」
頼姫が首を何度も横に振る。拒絶の動作だが、刀矢の目にはそれは本気の拒絶には見えなかった。まるで家出した幼子が、迎えに現れた親を見て、安心しながらも忸怩たる思いを懐いた時のような、
「決心が鈍ってしまうじゃ、ない、ですか……!」
涙を流していないだけで、それは紛れもない泣き顔だった。
今にも涙がこぼれそうな目を見返して、それでも刀矢は続ける。
「頼姫ちゃんさ、さっき皆にとどめを刺さなかったじゃん。瘴気は撒き散らしてたけど。無力さに打ちひしがれてろって言ってたけどさ、そんなの建前で、本当は皆を殺したくなかっただけじゃないの?」
犠牲者は最低限の一人――九頭竜流譜は仕方がないとして、他の自警団は死なせる必要はない。必要がないなら死なせない。だから、ならべく生かす方法を選んだのではないかと刀矢は言う。それを甘さと指摘するのは簡単だが、それこそが彼女の葛藤の証だったと彼は言う。
「そっ、そんな訳ないじゃないですか……! そんな、都合のいい話が――虫のいい話があると思ってるんですか!? 大体、犠牲は最低限にって、結局犠牲が出てる事には変わりないじゃないですか! 何を、何をそんな呑気な話をしてるんです!?」
頼姫が叫ぶように言う。その様はまさに必死というべきだった。
そうしなければ、侵略者としての意志と暴虐を保てないから。
そうでなければ、刀矢の誘いに屈してしまいそうになるから。
「私は――私は! 飯綱家次期当主になる女、飯綱頼姫なんです! そんな、楽しかったとか辛かったとか、そんな理由で立ち止まる訳にはいかないんです!」
「感情は理想に抗っているのに、意地と責任が邪魔をするか。……いいだろう。ならば、僕が言い訳をあげよう。敗北すれば、勝者の言葉には従わざるを得ない筈だ」
「ほざかないでください!」
激昂に任せて、頼姫が刀矢に突撃を仕掛けた。
◇
床面を踏み砕き、突貫する頼姫。だが、それよりも先に刀矢が右腕を頼姫に向かって翳した。それを見た頼姫の肩が小さく、だが確かにと震えた。その反応は、刀矢と戦わなくてはならない現実に感情が拒絶を示したというのもあるが、それと同時に理性が刀矢への警戒を表した故でもあった。
先程の力場を破壊した謎の攻撃。頼姫の知る限り、刀矢という人間には到底あんな真似は出来ない筈だった。彼の戦闘能力は皆無の筈だ。
しかし現実、彼は力場を破壊してみせた。他の自警団メンバーと同様に奥の手を隠し持っていたのか、あるいはここ最近で何か身に付けたのか。
「……考えても分からないものは分からない……。ならば、正体は実戦で確かめるしかないですね――!」
闘志を燃やし、頼姫が刀矢に突っ込む。魔神鎚は打撃武器としても優秀だ。重く、そして頑丈に出来ている。それを鬼型の膂力で振り下ろしたならば、人間をミンチに変える破壊を行う。刀矢がどんな力を得ていたとしても、まともに喰らえば無事では済まない。
そんな頼姫の攻撃を前に刀矢は逃げようともしない。魔神鎚の打撃部が立ち尽くす刀矢の脳天に吸い込まれ――
魔神鎚が刀矢の足元の床に叩き込まれた。
「…………えっ?」
戸惑いの声を上げたのは頼姫だ。彼女は確かに刀矢の頭頂を狙って魔神鎚を振り下ろしていた。だが、実際に砕かれたのは屋上の床だ。
力みすぎて外したか。否、そんな初歩的なミスを犯すほど頼姫は未熟ではない。
――外した、のではなく、外された……?
刀矢は何もしていないように見える。ただ立っているだけだ。構えてもいなければ武器も持っていない。その様子は隙だらけにしか見えない。見えないが、攻撃を外されたというのであれば何らかの行動はしている筈だ。
「くっ!」
頼姫が魔神鎚を下から斜め上にかけてスイングする。刀矢の脇腹から胴体までを粉々にするコースだ。間合いからいって決して外す筈もない一撃だが、
刀矢には当たらなかった。
「なっ……ええっ……!?」
魔神鎚の軌道は真っ直ぐ刀矢を狙うものだった。しかし、魔神鎚がある程度の距離まで刀矢に近付いた後、軌道が変わった。否、変えさせられた。魔神鎚が自ら刀矢を躱すように曲線を描き、上方へと抜けたのだ。まるでレールに乗る列車のような動きだった。
「隙ありだよ、頼姫ちゃん」
「…………っ!」
魔神鎚が奇妙な動きをしたせいで、頼姫の体がつられてしまった。刀矢は動かない。先程から変わらず、ただ佇んでいるだけだ。だが、直後、頼姫の空いた脇腹を中心に衝撃が走った。ハンマーで殴られたかのような打撃の痛みだ。大きさは人間の子供大か、と肌で感じながら頼姫は脇腹に目を向ける。
そこには何もなかった。
「え……? がはっ!」
戸惑う頼姫にさらに二発、打撃が加わる。顔面と腹部だ。ダメージを受けてたたらを踏みながら、それでも敵の攻撃を見極めようと目を凝らす。だが、やはり何もいない。自分を攻撃した何かが確かにそこにいる筈なのに、影も形も見えなかった。
「不可視の攻撃……セラちゃんが普段、幼体ビヤーキーを見えなくしているのと同じ魔術ですか……? いや、アレは存在感を薄くする魔術ですから、違いますねー」
存在感を薄くしているのなら、触れられた事にすら気づけない。感じるのは痛みだけの筈だ。だが、頼姫は確かに痛み以外のものも感じていた。全長一メートル前後の何か――肉の固まりのようなものが自身にぶつかってきた感触を。
「――分かりました。『星の精』でしょ?」
「ぴんぽーん」
刀矢が右腕の袖をまくりあげる。大して鍛えられてもいない細腕だ。目立つ傷もない白い肌は普段、彼が力仕事などしていない事を表している。
「喜べ――『魔人血』」
その柔肌に突如、三つの小さな穴が空いた。穴から鮮やかな赤色の液体が糸状となって出ていく。その赤を着色料として、それまで無色透明だった何かが姿を現した。
脈動し、蠢くゼリー状の丸い物体だった。表面は幾本もの触手で覆われ、その内の一本が刀矢の右腕に噛み付いていた。目もなければ頭もなく、鳥に似た鉤爪を三本、球体の胴体から生やしている。そんな容姿をしたモンスターが三体、刀矢の血を吸いながらクスクスと笑い声を上げていた。
不可視の吸血鬼、『星の精』。
異なる惑星から招かれた訪問者であり、見えざるその肉体は地球外の物質で構成されている。吸血種族の一種であり、この怪物を視認出来るのは、摂取した血液が新陳代謝されるまでの短い時間だけとされている。
「頼姫ちゃんは僕が何かの能力を手に入れたと思っていたようだけど、それは違う。相も変わらず僕の戦闘能力はゼロだよ。ただ、強力なボディーガードを雇っただけ。それだけなんだ」
刀矢の血を啜った三体は刀矢を軸にして衛星のように浮遊し出した。飛び抜けたステータス強化の効果を持つ刀矢の血だ。さぞ活力が湧いた事だろう、三体は上機嫌そうに旋回していた。
「特殊な血しか取り柄のない刀矢さんがどうやって前線に顔を出せたのかと思えば……成程、いつも通りの他力本願だったという訳ですねー」
「ま、そういう事だね。見た目はグロテスクだけど、懐かれると結構可愛いもんだぜ?」
「……不定の狂気に陥ってますよ、その評価」
それはさておき、と頼姫は気持ちを入れ直す。
成程、星の精か。確かに厄介だ。だが、驚異と云う程ではない。不可視の攻撃は恐ろしいが、攻略不可能ではないのだ。
まずは、
「虎の子である魔神鎚を――あえて手放します!」
魔神鎚の柄を床面に突き刺す。鬼型食屍鬼の膂力で半ばまでコンクリートに埋まった魔神鎚は容易には抜けない。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
頼姫の肉体が変形していく。両腕が踝にまで届く程長く太くなる。両手も巨大化し、指の一本一本がかつての腕と同じ太さになった。額の両角が長く伸び、まるで二本の刀が頭から生えているようだった。黒髪は臀部を隠すほどの長さまで伸び、黒いローブを羽織っているかのように見える。
上級の鬼型には自分の意志で自分の肉体を、より戦闘向きの構造へと作り変える事が出来る。『赤鬼』と称されるそれは、同じく肉体を作り変える能力を持つ來霧程自在ではないが、強化出来る上限は『赤鬼』が上だ。これが飯綱頼姫の全力全開モードだ。
頼姫が刀矢に接敵する。先程までとは段違いの速度だ。主に近付く敵を星の精が迎撃に出る。既に透明化した状態での体当たりだ。見えず、躱しにくい三連攻撃を、しかし頼姫はあえて躱さなかった。
星の精が自身の体に激突した瞬間、彼女は身をよじって星の精を受け流した。避け損なって大ダメージを負うよりも、あえて喰らう事でダメージを最小限に抑えようという狙いだ。長柄の武器を捨てた事で小回りを得たが故の判断だ。星の精の体当たりは強烈だが、所詮ハンマーと同程度。鬼型の肉体ならば耐えられない程ではない。
流譜は魔力を体外に放出して鎧とし、攻撃を弾くが、鬼型は逆に魔力を体内に凝縮し、肉体を硬化する事で攻撃を弾く。その強度は鋼鉄塊以上だ。
頼姫がその長い腕の射程距離内に刀矢を捉えた。腰を右に捻って後方に置いた右腕をゴムの反動の如く前方へ振り戻した。体重を乗せた頼姫の平手打ちは、しかし刀矢の手前で止まった。頼姫と刀矢との間には何もないように見えるが、違う。実際はそこに不可視の魔物――星の精がいる事が分かっている。先程受け流された三体のうち最も主人に近い場所にいた一体が主人の下へと駆けつけたのだ。
「見えないのに遮られてる感触があるって、凄い違和感ですねー。ま、当たり判定があるだけまだマシですけどー」
主人の盾となる星の精から頼姫が腕を引く。攻撃をやめる為にではない。攻撃の手を増やす為にだ。
「おおァあああああああああああああああっ!」
星の精がいるだろう空間に見当をつけて、頼姫が太く凶暴になった十爪を何撃も叩き込んだ。如何なる化け物であろうと体力は無限には続かない。刀矢の盾となっていた星の精だったが、重厚と表現すべき連続攻撃についに根が尽きた。ぐらりと傾いた星の精が更に続く頼姫の爪を喰らい、吹き飛ばされ、刀矢の胴体へと吸い込まれる。
「ぐっ……ごふっ……!」
バキバキッ、と嫌な音が刀矢の胸部から響く。肋骨が折れた音だ。星の精越しとはいえ胴体を突かれた刀矢は姿勢を制御出来ず、後方に数メートル跳ばされてから尻餅を突いた。
苦悶の声を漏らす刀矢。その隙を見逃す頼姫ではない。すかさず頼姫は追撃するべく刀矢に接近する。
頼姫を止めんと星の精二体がその背中に体当たりを仕掛けるが、先程と同じだ。命中こそするが、クリティカルヒットはしない。受け流されてしまう。驚異的な戦闘力、柔軟性だ。
主人に迫る敵に三体目の星の精が体当たりする。それは当然のように受け流されてしまったが、その間に先程受け流された二体が主人の下へと戻る。大きく薙ぎ払われる鬼の爪。激突の刹那、星の精の一体が刀矢の懐に入り込み、彼の体を押し上げる。もう一体が入れ替わるように頼姫の爪に立ち向かい、刀矢を庇った。一体が盾になっている間、一体が刀矢を浮き上がらせ、遠い位置に運んだ。頼姫の脚力では一息では詰められない距離だ。
「……ふぅん。昨日今日で結んだ主従関係にしては、随分と健気に奉仕されてるようじゃありませんかー」
「そうだね、僕も少し驚いてる。どうやら余程僕の血が気に入ったようだ。…………ッ!」
頼姫が睨めつけた先で、刀矢がガクンと膝を崩す。口からごぼりと血がこぼれる。先の一撃で内臓を痛めてしまったようだ。
「――けど、その奉仕にも限界があるようですねー。肋骨の折れた音がしましたし、その吐血量……。星の精に庇われたといえ、そのダメージはもう気絶するレベルなんじゃありませんかー?」
「いや全く……実はもう立っているのも辛くてね……。こんな事なら普段から体を鍛えておけば良かったよ。面白いね」
頼姫の指摘通りだった。だが、意地を張る刀矢は苦しむ顔を隠そうとして、世間話の最中のような軽さで肩を竦めた。
「だけど、まあ、驚いてるばかりじゃいられないな。そろそろ彼らの奉仕に応えようじゃないか。君に勝てるよう指示を出すのが僕の役割だ」
刀矢が右腕をかざす。彼の手に惹かれるように星の精三体は集い、刀矢の前にその身を浮かせた。
「星の精諸君、フォーメーションFを展開せよ。以上」
星の精が頼姫に飛来する。透明化している為その姿は目に見えないが、圧による感覚で敵が迫ってきているのが分かった。
だが、刀矢が何を仕掛けてくるつもりなのかが分からない。フォーメーションFとは一体何なのか。ハッタリか、それとも何らかの策か。
「……いずれにせよ、突破してしまえばそれまでです!」
頼姫は鬼型だ。その能力を最大限に活かすには、やはり突貫による制圧がいい。攻撃力、防御力、敏捷性――こと肉弾戦において鬼型ほど優れた種族はいないと頼姫は自負している。
頼姫の左の鎖骨に痛みと圧力が加わる。星の精の体当たりだ。半身をずらして受け流そうとする。だが、それよりも速く右の脇腹に衝撃が走った。鎖骨に受けたのと同じ圧力――星の精だ。上と左から歪な挟み撃ちを受けた頼姫の左背面を、三体目の星の精が衝突する。三方向からの衝撃に頼姫はたたらを踏む。息つく間もなく次の衝撃が頼姫を襲った。今度は頭頂、右の上腕、左腰だった。さらに続く衝撃は、右の額、右肘、背骨だった。
「こ、これは……!?」
何回、何十回と体当たりを受け続けながらも頼姫は敵の攻撃を見極めようと目を凝らす。
もし星の精が不可視でなければ、頼姫の目には三体の星の精が一定の動きをしているのが見えただろう。即ち、三つの楕円を描く軌道だ。
第一の円。敵を頭上から打ち砕く縦の回転。
第二の円。敵が左右へ離脱するのを阻む横の回転。
第三の円。敵が後方へ離脱するのを阻む斜めの回転。
以上三つの回転を同時に敵に叩き込む。かつ、敵に万が一の逃走すらも許さないよう第三の円は第二の円とは逆方向に回転していた。
一切の回避を許さない打撃の檻。これこそが先刻、頼姫の力場を破壊せしめた星の精が必殺技――
「哀しめ――『魔人流』」
流水の如く絶え間ない打撃の連続に、頼姫の意識が溺れかける。一撃一撃は大した威力ではないのだが、それが十撃二十撃と連なると苦しい。何とか脱出を試みるが、堅牢ではなく柔軟であるがゆえに打撃の檻は破れない。逃げ道は塞がれている。呼吸もままならず、体力と精神力が削られていく。
「くっ、ぐううっ……おっ、ああっ……!」
薄れゆく意識の中、頼姫は思う。自分はここで敗けるのかと。スパイとして潜り続けた一年間。次期当主の座を求めて暗躍し続けた二年間。それ以前から名家の娘として積み上げてきた十数年間。それらがここで全て無に帰すのか。苦しいのも虚しいのも、悲しいのも寂しいのも耐えて、今までやってきた全部がここで無駄になるのか。
否。断じて否だ。
――――これまでの自分を、意地を、誇りを、こんな所で諦めてなるものか!
「おぁあああああああああああああああああっ!」
頼姫が咆哮を上げる。それはまさしく人の領域を外れた、魔獣の雄叫びだった。床に全力の蹴りを叩きつける。コンクリートが瓦礫となって散り、その反動で頼姫の身体が蹴りと反対側の方向へと飛んだ。突進力を備えた跳躍と瓦礫に弾かれる星の精。跳躍した先、彼女がその手に掴んだのは魔神鎚『愚神礼賛』の柄だった。
「やぁああああ――――っ!」
コンクリートに刺さった柄を力ずくで引き抜いた頼姫は着地と同時に再度跳躍した。身を投げるように刀矢へと接近する頼姫。彼女が柄を強く握ると、魔神鎚の打撃部からは黒霧が球体の塊となって出現した。
頼姫が魔神鎚を振るう。鎚の動きに合わせて遠心力を得た球体は打撃部から離れ、刀矢へ飛んでいく。
――『愚神礼賛』の対人攻撃。旧成田空港で流譜を仕留めた一撃だ。
「廃人同然になりなさい!」
星の精は先程頼姫に弾き飛ばされてしまってからまだ復帰していない。守りを失った刀矢は為す術なく被弾し、彼の姿が黒霧に包み尽くされて見えなくなる。邪神ニャルラトテップの瘴気だ。常人より遥かに高いPOWを持つ流譜ですら一発で昏睡した超高濃度の毒の霧だ。包まれたら最後、人間だろうと異形だろうと耐えられる筈かない。
「……生憎だけど、廃人になる経験は一回で充分だよ」
「!?」
聞こえる筈のない声が聞こえた。
大きく肩を震わせた頼姫の眼前で、黒霧が払われる。その内側から現れたのは紛れもなく彼――永浦刀矢だった。何者であろうと耐えられない瘴気を浴びていながら、彼に平然とした様子で頼姫を見据えていた。
「手も尽きたか。じゃあそろそろ終わりにしようか。――行け!」
刀矢の合図に、瘴気から退避して離れていた三体の星の精が再び主人の前に集った。命に従い、三体が頼姫を襲撃する。一体目が頼姫の右前腕を、二体目が左前腕を叩く。痛みに頼姫の口から喘ぎ声が漏れ、手から力が抜ける。十指から解放された魔神槌は重力に引き寄せられ、重厚な落下音を奏でた。
三体目が頼姫の背面を叩き、頼姫の肺から空気が抜ける。呼吸を失い、前方に倒れ掛けた彼女の体を抱き抱えるように支えたのは、刀矢だった。
「僕の勝ちだ、飯綱頼姫」




