セッション22 THE CALL OF CTHULHU5
眼下の状況を見下ろし、頼姫は落胆の感情を隠せなかった。
見下ろす構図は旧成田空港の時と同じだが、戦況が真逆だ。眼下、自分の兵隊は劣勢に追い込まれている。
二人の副船長が撃破された。琵琶が死に、菖蒲が捕らわれた。もはや魚鱗の軍勢は戦力にならない。新進気鋭の海賊団とはいえ、頭を失えば烏合の衆だ。消耗しているとはいえ朱無市自警団に太刀打ち出来るとは思えない。
こんな時に灰夜はどこに行ったのか。いや、彼女はあくまで外部顧問だ。利用こそすれ頼りにするのは間違っている。
計算外だったのは自警団の底力だ。
『バルザイの偃月刀』、『慈悲深き騎馬の吐息』、『変態能力』。
自分達をわざわざ追ってきたのだ。何かしらの切り札はあるのだろうと思っていた。だが、よもやあれほどの力を隠し持っていたとは。潜伏していた一年間、彼らが頼姫の前でその力を見せた事はなかった。力を使うほどの強敵が朱無市を襲ってこなかったからだ。しかし、だからといって、あんな凶悪な武力を警戒していなかったなんて。自分の間抜けさに脳髄が沸騰する。
……またか。また挫折するのか。一年前と同じように、またこんな道半ばで立ち止まらなくてはいけないのか。
「いいえ、まだですー。まだ終わりませんよ」
後ろを見る。未だ眠り続ける流譜が屋上に横たわっている。彼女を中心に描かれた魔法陣はほぼ完成していた。後は魔法陣に魔力を送り、儀式を行うだけだ。
目的は既に手中にあるのだ。
それに、まだこの手には魔神鎚『愚神礼賛』がある。一度は自警団を全滅に追い込んだこれさえあれば、抗う事はまだ可能な筈だ。
鉄槌の柄を握り締め、頼姫は自身を鼓舞する。とその時、眼下の校庭から質量を伴って強風が上昇した。
ビヤーキーに乗ったセラ・シュリュズベリィだ。
「魚鱗の軍勢船長、牛鬼頼姫。覚悟! であります!」
屋上を越えて、さらにその上空までビヤーキー・イゾルデは飛翔する。頼姫を見下ろした怪物は一度だけ大きく羽ばたくと、
「埒を明けよ――『慈悲深き騎馬の吐息』!」
その口腔から流星の如き光を放った。
頼姫ごと屋上の魔法陣を破壊するつもりだ。
目標に着弾する。激突で生じた衝撃が突風となって校庭内に吹き荒れ、弾けた魔力が強烈な光となって見ていた者達の目を焼く。光が晴れ、突風が止んだ時、彼らの目に映ったのは崩壊した屋上と――直撃を受けたにも拘らず無傷な頼姫の姿だった。
「危ないですねー。流譜ちゃんまで巻き込む所でしたよー。……なーんて、全然平気ですけどねー」
流譜が横たわる魔法陣を中心として球体の力場が展開していた。『機装式神・陽』の対魔力障壁すらも消滅させたイゾルデの咆哮を受けて、力場はひび一つ、揺らぎ一つ見せていなかった。周辺の屋上が崩れ落ちる中、魔法陣が描かれた床だけが力場を支えにして中空に維持されている。
力場の内側で頼姫が弧を描いた目でセラを見据える。セラはコートのポケットから取り出した『SAN銃士の誓い』を一気に煽ると、空になった瓶を彼方に放り捨てた。『魔人血』の副作用で失われたSAN値はこれで回復した事になり、発狂は回避された。
「ひとたび敵に回れば、それが誰であろうとも容赦しないその冷徹さ、嫌いじゃないですよー、セラちゃん」
「けふっ。……至極恐悦であります。敵を下し、道を作るのが自分の本分でありますので」
ころころ嗤う頼姫にセラはあくまで真面目に接する。
「それと、私、本名は牛鬼じゃないですよ。本当は飯綱っていいますー」
「委細承知であります。では、改めまして飯綱殿――」
セラはそのまま調子を崩さず、
「――お覚悟を」
殺意をぶつけた。
「うふふ、出来ますかー?」
頼姫の態度は変わらない。あくまで上から目線、余裕の表情だ。
「成程、『慈悲深き騎馬の吐息』、見事な威力ですー。ビヤーキーを召喚するまで使わなかった所を見ると、セラちゃんの技というよりビヤーキーの技なのですかねー? 口の中にある剣は聖剣クルタナ……いや、流石にオリジナルがある訳がありませんから、レプリカですかねー。イゾルデという名前も、何代目みたいな感じで襲名しているだけでしょうか?」
「……二度見ただけで、それがどういう技なのか理解しますか。さすが一組織の長、慧眼であります」
「ふふ、ありがとうございますー。ですが、それだけの威力を発揮する為には莫大なMPが必要な筈です。今の一発に琵琶弾樹を殺した威力はありませんでした。もうMPが残り少ないのでしょう? 三発目はありません」
指摘通りだった。セラの切り札『慈悲深き騎馬の吐息』は一発撃つのに数百ものMPを消費する。セラほどのMPの持ち主でも日に二発が限度だ。その二発目を撃ったセラのMPは枯渇寸前だった。
セラでは流譜を救う事は出来ない。
だが、セラに絶望はなかった。
「何らかの防衛手段を貴女が取ってくる事は読めていたであります。あわよくば、今の一撃でそれを突破してやろうとも思っていたでありますが。ある程度耐久力を削れればそれで満足であります」
次の言葉に頼姫は、無表情の彼女が笑っているように見えた。
「自分は一人で戦っている訳ではないでありますので」
セラの背後から入れ替わるように何者かが跳躍して現れた。
來霧だ。触手を伸ばし、崩れた屋上の縁に引っ掛けて、自身を引っ張り上げたのだ。掲げた両腕には彼の背丈よりも大きな鉄塊があった。先刻墜落した斗霊の瓦礫だ。
「流譜先輩! 今、助けるよ!」
膂力を振り絞り、瓦礫を力場に投げる。大重量の衝突を受けて、轟音と発光が力場から迸った。が、力場は砕けない。瓦礫は力場に弾かれて、下の校庭へと落ちていった。
「くっ……堅い……!」
來霧は触手を伸ばしてイゾルデに掴まる。触手を縮めてイゾルデに近付き、そのまま乗った。イゾルデは迷惑そうな様子を見せたが、振り落とす真似はしなかった。
「おやおやー、來霧くんまで来たんですかー。ウチの菖蒲はどちらに?」
「艦に置いて来たよ。貴女を相手に人一人背負ったままで戦えるとは思ってないから」
來霧の瞳には戦意はあるものの、敵意が弱い。頼姫が敵に回った事についてセラほど割り切れている訳ではないのだ。倒すつもりはあっても殺すつもりにはなれていない。
「ねえ、頼姫先輩。先輩はどうしてそこまで戦うの? 菖蒲は多分アレ何となくだけで戦ってたと思うんだけど……頼姫先輩はちゃんと理由があるんでしょ?」
「まあ、菖蒲ちゃんはああいう子ですから。……また敵の戦う理由を尋ねるんですかー、貴方は。理由を聞けば納得したり和解したり出来るとでも? 甘いですね。それは優しさじゃなくて甘さだって言っておきますよ」
「頼姫先輩……!」
「そう睨まないでくださいよー。怖いですねー。……そうですね、話してもいいですよ」
こちらも都合がいいですし、と頼姫は誰にも聞こえないほど小さな声で零す。
頼姫はちらっと夷半に目を向ける。甲板にはアリエッタの姿があった。彼女の手に〈バルザイの偃月刀〉が握られていない事を確認し、内心安堵した。空間ごと破壊するあの曲刀の前では力場など意味を為さない。それをアリエッタに使う気がないというのは頼姫にとって朗報だった。
もっとも、使いたくとも使えないのだろうが。
頼姫の足元には流譜がいる。偃月刀はその攻撃範囲を制御出来ない。空間破壊の力を使えば流譜を巻き込んでしまう。彼女を失いたくなければ地道にダメージを重ねて力場を攻撃するしかないのだ。だが、アリエッタの矢では力場を破壊出来ない。
頼姫が力場に手を軽く触れて、自身の魔力を流し込んだ。力場は得た魔力の分だけ耐久力を回復した。
この力場は魔力を注げば注ぐ程耐久力を増していく仕組みだ。頼姫が常にこうやって魔力を注ぎ続けていれば、アリエッタの矢の攻撃力では力場の回復力に追い付けない。長話をする余裕は充分にある。
「私の実家――飯綱家は鬼型食屍鬼の名門でして、旧千葉県に棲む異形の長みたいな事してるんですよ~」
「異形の長……極道の親分みたいな? って事は、頼姫先輩ってお嬢なの?」
「そーですよー。といっても、私なんて十人兄弟の下の方なんですけどね」
「十人も……お盛んでありますね、ご両親」
セラのコメントに頼姫は同意する。飯綱家の兄弟は長子と末子では十歳も年齢が離れている。つまり、飯綱家の現当主夫婦は単純計算で一年間に一人、子供を産んでいる事になる。しかも十年間続けてである。我が親ながら大変仲の宜しい事で、と頼姫は心の中で皮肉を吐いた。
「それで、こんな時代ですからね。現当主――私の父が何年前かにこう言ったんですよー」
――飯綱家の発展と拡大に最も成果を上げた者に次期当主の座を与えよう。
「要は一番の侵略者が家督を継げるって事なんですけどね。そこで私はある海賊団に投資をする事にしました。金を払って傭兵として雇おうと思った訳ですねー。その海賊団は当時は新進気鋭として注目され、旧埼玉県を根城に活動していました。二年前にとある市国を襲撃した際、返り討ちにされちゃいましたけどねー」
「その海賊団って、まさか……」
「そう。その海賊団の名は『海蛇一座』……貴方達が横槍を入れて壊滅させた、深きものどもの暴力組織ですよ」
そう言って口元に三日月を描く頼姫に來霧が息を呑む。
まさか一年前に自分達が滅ぼした海賊が、こうして今に繋がってくるとは思いもよらなかった。確かに魚鱗の軍勢と海蛇一座には共通点が多いとは思っていたが。
「貴方達のおかげで注ぎ込んだ投資が全部パァですよー。他の跡取り候補に大きく遅れを取っちゃいました。でも、同時にラッキーだと思いましたね。まさか私が『邪神の器』に関わる事が出来るなんて。知っていますかー? 『邪神の器』については」
「当然であります。遥か彼方の海底に封印されている邪神クトゥルフ、心身共に身動きが取れない彼の神の魂だけを召喚し、器に宿らせて復活させようという計画。その要の事でありますね」
邪神クトゥルフは現在、ニュージーランド沖の海底に封印されている。彼の神を地上に復活させるのが狂信者達の悲願なのだが、その方法は容易ではない。
邪神は支配していた島ごと海底に沈められており、まずはこの島を海上に浮上させなくてはいけない。だが、島を浮上させるなど一体どのような奇跡を起こせば可能なのか。何らかの方法で島を浮上させる事に成功したとしても、今度は邪神を島に縛り付けている封印を解かなくてはならない。だが、神をも御する封印などヒトの身で果たしてどうこう出来るものか。一説によれば、星辰が揃った時、邪神は力を取り戻し、自ら封印を破って復活するそうだが、それは神の力以外ではどうしようもない事の証明なのかもしれない。
だが、そこで諦めたら狂信者などと呼ばれていない。彼らは発想を転換させ、島ごと邪神を復活させるのではなく、島から邪神だけを抜き取るように召喚して復活させようと考えた。それなら島を復活させる分のコストが省ける。
とはいえ、神を召喚するというのも途方もない話だ。ならば、神の全てを召喚しようとしなければいい。肉体となる『器』を用意し、魂だけを召喚して宿らせれば更にコストが減る。
そういった発想の下に生み出されたのが『邪神の器』なのだ。
「『邪神の器』はかつて大海軍の傘下にあった組織・ST機関で研究されていたと聞いていますー。ST機関が壊滅して以後、研究がどうなったかは知りませんけど――」
頼姫は背後の床に目をやる。 そこに横たわる流譜の瞼は未だ閉ざされたままであり、浅く胸を上下させている。
「――壊滅前までに作られた『器』は現存していた、という訳ですねー」
「知っていたのでありますね、『邪神の器』が何であるかという事を」
「ええ。『邪神の器』を手中に納めれば、どれほど出遅れていたとしても、兄弟達を一気に出し抜ける。そう考えて、私は新たな戦力として魚鱗の軍勢と契約を交わし、牛鬼頼姫と名乗って朱無市に単独潜入する事を決意したんですよー」
「じゃあ、その魔法陣は……!」
「ええ、お察しの通り――――」
流譜を中心として床にはいくつもの円と見た事もない文字が描かれていた。奇怪な一方で幾何学的な印象を受けるその図形は、見る者が見れば、空間を越えて何かを呼び出す意味が込められている事に気付けるだろう。即ち、
「――――邪神クトゥルフを召喚する魔法陣ですよ」
邪神クトゥルフ。十年前から続く大戦の原因となった存在。既存する何もかもを破壊し、世界の在り方を変えた狂気の産物。全ての元凶。それがここに――自分達の目の前に現れるという。この魔法陣を通って、九頭竜流譜の肉体に宿って。
「…………っ! 神を降ろして、どうするつもりなの!? 頼姫先輩!!」
「別にどうもこうもしませんよー。魚鱗の軍勢は建前上はクトゥルフ神の信者だから、神を降ろすのに必死なんでしょうけど……私にとっては手柄の一つでしかありません」
にたり、と頼姫は嗤う。それは狂人の笑顔だ。ある種の執念、概念に取り憑かれた者が浮かべる不気味な笑みだった。
「帝国ですら未だ為し得ていない邪神の完全降臨……成功したらどれほどの権威になるでしょうね?」
ぞわり、と來霧は肌が粟立つのを感じた。
來霧は彼女と同じ目をした人間を今までに何人も見た事がある。目的の為なら誰がどうなろうと構わない、何人死のうと関係ない。そういう考え方に支配された人間の目だ。
危険だ。そういう考え方をする人間は危険だ。何しろ行動に躊躇がない。並みの神経ならブレーキを踏む一線を逆にアクセルを踏んで、踏み込んでくる。その結果、何がどうなってしまうのか。取り返しのつかない事になる前に止めなくてはならない。
「させないっ!」
「やりますか? いいでしょう、いいでしょう! そろそろ時間稼ぎももう充分でしょうし――お互いにね!」
言い終わるよりも先に頼姫が後方を振り向いた。
來霧達と話している間、何者かが校舎の裏から近付いてきているのを頼姫は知っていた。果たして頼姫の予想通り、何者かが振り向いた先に現れた。だが、予想していたにも拘らず頼姫は驚愕に目を丸くした。現れた人物が予想の外側だったからだ。
彼女が知る限り、この人物は戦闘とは無縁の筈だった。頭脳労働を専門とし、いざ荒事が起きれば誰かの陰に隠れて守って貰う、そういった男としてはちょっと情けない面がある人物だった。間違っても敵の大将に特攻を仕掛けるようなポジションにはいない。そう思っていた。だが、
「刀矢、さん!?」
そこにいたのは紛れもなく彼――永浦刀矢だった。




