下・絶叫
はっと気が付くと、俺は彼女の病室にいた。青いバラの目の前で、立ち尽くしている。
慌てて後ろを振り返る。そこに彼女は寝ている。良かった。ここにいる。
真っ青な顔で、ぴくりともしない顔で。
真っ青な顔で、ぴくりともしない顔で?
…………違和感。
一滴の墨が、心の中の水に落ちて、じわりじわりと広がっていくようだった。
ある子がマット運動で失敗して、大丈夫かと気軽に笑っていたら、本当は大事故だったとか。
まだ時間はあると思っていた発表が、もう一分後にあると分かった時とか。
あの、楽しかった空気が、一瞬で冷え切る時。
あの時の様な、違和感。
その違和感は、消えない。
じりじりと広がる一滴の墨は、今や俺の心を真っ黒に染めていた。
彼女の名前を呼ぶ。
返事はない。
彼女の名前を呼ぶ。
返事はない。
名前を呼ぶ。
返事はない。
呼ぶ。
ない。
安心しきって緩んでいた唇が、彼女の名前の呼ぼうとしたまま、ぎしり、と固まった。
足を、動かす。ダッシュボードから、ベッドまで、何と遠いのだろう。彼女の傍へ、全然辿り着かない。いや、辿り着かなくていい。確認したくない。彼女を、間近で、見たくない。
それでもやっと、彼女の傍に立って。それでも反応のない、青い、それを通り越して白く、まるで仮面の様な、彼女の顔を見ながら。
俺は、彼女の首筋に触れた。
まだ、体温が、暖かく感じられる。
しかし、それ以上に感じたかった彼女の心音は、全く感じられない。
「……ちょっと待てよ」
何が、ちょっと待て、なのか。俺は分かっているくせに。首に触れた時点で、いや、彼女の顔を見た時点で!
それでも信じられなくて、信じたくなくて、俺は、彼女の口元に耳を近づけた。
呼吸の音が、しない。
動かない。
死んでいる。
彼女が、死んでいる。
自覚した瞬間、心から全て消えた。
病院も、外の寒々しさも、彼女のことも、海のことも。全部忘れた。
時計の音だけが、かちり、こちり、と心に響く。
どれほど経ったか分からない。ただしばらく経って、近所の学校からだろう。夕方の五時を知らせる音楽が、雑音に塗れて聞こえてきた。
途端。
さぁっと波が打ち寄せるように、彼女の存在が戻ってきた。
彼女は死んでしまった。死んでしまった。死んでしまった。
戻ってきたせいで、胸が鷲掴みでもされたかのように、ぎりぎりぎりと痛む。
彼女が、もういない。もう、動かない。
その失望と、絶望と、悲愴とが、ぎりぎりぎりと胸を締め付ける。
どうして。
どうして、死んだんだ。
生きようと思ったんじゃないのか。言われたの初めてって、それは喜んだ言葉じゃなかったのかっ。どうして、どうして、どうしてっ。
どうして、死んだんだ。
分からない。
彼女は、死んでしまった。
告白で喜んだという言葉は?
今までの笑っていた、あの楽しそうな顔は?
真剣に取り組んでいた、あの姿は?
もう一生、一生涯、見ることはできないのだ。
胸が痛くて、痛くて、痛くて。
「…………ぅぁぁぁああああああああああああああああ!」
どうして、どうして。どうして死んでしまったんだ。立ち止まると思ったのに。生きてくれると思ったのに!
彼女は、恋という感情すらも振り払って、死んでしまった!
「あああああぁああああぁぁぁあああああああああ!!」
どさりと、糸が切れたかのように、俺の身体は床に落ちた。彼女の寝ているその前で、懺悔でもするかのように、頭を抱えた。
頭を抱えて、叫ばないと我慢できないくらい、心臓が悲鳴を上げていた。
痛くて、痛くて、痛くて。
俺の言葉の、何が悪かったのか? 彼女には、何が辛かったのだろうか? もう一回死のうと、どうして決意したのだろう?
分からなくて、分からなくて、分からなくて。
俺は、彼女が消えたという、そのことに対して、ただただ叫ぶしかなかった。
知らぬ間に、青いバラは、異常な速度で枯れ落ちていく。
ぱさり、と花の落ちる音が、俺の絶叫の中、静かに響いた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。雉野です。
なかなか、心情に重きを置いて書くというのは、難しいです。とても実感しました。読み返すと、「もっとうまい書き方あっただろう!」とすでに嫌悪感にさいなまれています。
そんな小説を、最後まで読んでいただきありがとうございました。またほかの作品でお会い出来れば幸いです。本当に、ありがとうございました。
評価、感想、出来ればよろしくお願いします。




