中・不可解
申し訳ありません。前回と比べて少々長くなってしまいました。
さっきまで、病院にいたはずなのに、どうして砂浜にいるんだろう?
空は、柔らかい春の様な日差しで覆われている。砂の一粒一粒が、揺らめく日差しに反射して、きらきらと明るく光っている。
左右を見渡すと、その白い砂浜は、永遠と続いていた。終わりが見えない。大木とか、海の家とか、ビーチパラソルとか、そういう普通の海にならありそうな物が、ひとつもない。そのおかげで、どれくらい遠くまで浜が続いているか、距離感が掴めなかった。
仄かに、磯の香りがする。下を向いていた目線を上げて、浜の先を見ると、そこには、海が、見たこともないような青色をして、広がっていた。こんな絵の具の色、見たことがあっただろうか? 海の底の砂は白く、それが水の表面まで透けて、淡い色をした青い水。ダイヤモンドでも散りばめたように、太陽の光があっちこっちに散らばって、目が痛くなるほどの白い青。たくさんの青色が水の上で踊り、刻々とその色を変えている。
ここは、どこだろう。
というより、さっきまで俺は、病室にいたんだよ。
なのに、どんなに辺りを見回しても、人工物も、人も、いる気配がない。それならここは、実体のない夢の世界? 青いバラの作り出した?
そこまで考えて苦笑する。そんなの、あり得るわけがないじゃないか。いくらここが、どこと分からないといったって……。
しかし、真面目に状況を考えてみよう。病室にいて、青いバラを触った途端、謎の場所、まあつまりはここだけれど、移動していたのだ。いくらその移動先が、夢のように美しい海だとしても、いや、美しいからこそ、これはかなり怖い。いや、ほんとに、どこだよ。俺はあの病室に帰れるのか?
口元に半笑いが浮かぶ。いや、笑ってられないって。後ろを振り返っても、森が広がっているとかそういうことはなく、ただ砂浜が続いているだけ。木もないんだぞ。このままここにいたら、餓死する。
前は海。左右後ろは、白い砂浜。
ちょっと泣きそうになった時だった。
ずっと前の沖が、少し揺らめいたのだ。まるで陽炎があるかのように。海の上に陽炎なんて、何かの見間違えだろう。そう思いながら、そのままそこを見ていると、白いものがちらちらと見えてきた。その白いものは、時間をかけて、ゆっくり砂浜の方へ近づいてくる。
……あれは、人?
白く見えていたのは、どうやらワンピースのようだ。絹の色をしたワンピースをなびかせて、少女が、少しずつ浜へと近づいてくる。
誰だろう。知っている人であってほしい。
その少女は、もう砂浜へと上がる直前だった。眼鏡をかけていて、肩までのセミロング。ひどく落ち着いた物腰だ。目は前を向いているのに、俺が見えていない様だ。目線が俺の頭上を通り過ぎて、ぼんやりと遠くを見ている。
まるで見た目は違うのに、俺は思わず、「ねぇ」と、彼女の名前を言って、その人を呼んでしまった。
途端、彼女の目が、急に光をおびた。俺を凝視して、びくりと一歩、後ずさる。
その様子は、まさしく、彼女そのものだった。
というか、あれ? さっきは彼女に見えなかったのに、今ではどこからどう見ても、彼女の顔立ち、彼女の姿だ。どうしてさっきは、彼女に見えなかったんだろう。
「どうして、ここにいるの……?」
俺を見ながら、彼女が混乱した口調で呟いた。顔がどんどん青ざめていく。
その青さで、彼女が、現実ではどういう状況にあるのか思い出した。
そうだよ、彼女は自殺未遂していて、まだ意識は戻っていなかったのだ。それなのに、どうして俺は彼女と話せているんだろう? ここはどこだ?
「俺は、まず、ここがどこか教えてほしいんだけど」
首を傾げて、俺は彼女に聞いた。
「ここは……」
そういうなり、彼女は絶句してしまって、口を開かない。少しの間、辛抱強く待ってみたが、彼女は口を歪めて目を背けるばかり。俺はため息をついた。でもまあ、彼女もいることだし(理由は分からないけれども)、危険なところではないんだろう。
彼女は、震えている。現実の季節とは違って、こんな暖かな日差しの中なのに、寒そうに両腕を抱えて、身を震わせている。それでもにこりと笑って、俺に口を開いた。
「こんなとこ来ても、つまんないでしょ? 海以外に、何もない」
「……いや、別に」
来ようとして来たわけでもないんだが。
「だったら、いいけど」
そう言って、彼女は砂浜にぺたりと座る。俺もその隣に、静かに座り込んだ。
ちらりと彼女を見る。彼女は薄く笑っている。まるで、落ちない泥の様な笑顔。そして俯いていて、身体を丸めている。決して、こちらを見ようとはしなかった。
「……綺麗な海だな」
本当は、彼女に自殺しようとした理由を聞きたい。俺の告白の、返事を聞きたい。でも俺は、こんな顔をして下を向く彼女に対して、何も言い出せないのだ。本筋に関わることは、何も。
そんなことを言って、まだ穏やかそうに、表面上だけでも笑っている彼女との空気を壊すような、度胸はない。
何よりも、膝を抱えている彼女の態度は、俺と話すのを拒んでいるようだった。俺のことが嫌いなのだろうか? 何か、気に障ったんだろうか? そうやって、話し出すのをためらってしまう。
情けないくらい、彼女の気持ちが、分からなかった。教室にいて、笑って話している時は、あんなにも彼女の気持ちを理解して、話していた気分になっていたのに。あれは、思い違いだったのだろうか。俺は彼女のことを、露ほども理解していなかったのか?
しかし彼女は、俺の当たり障りのない言葉に顔を上げて、海を見つめた。光を乱反射させて、痛いほどに輝く、その海を。
「……うん。綺麗だよね。こんな海、好き」
「日本には、ないだろーな」
「そうだね。ヨーロッパ辺りに行かないとなさそう」
「ヨーロッパな。それよかオーストラリアとか?」
「サンゴ礁がいっぱいありそうだね」
俺は、今、彼女と、本当に「会話」をしているのだろうか。こんな軽口。こんな蛇足。違うだろう。今、彼女と話さないといけないことは、そんなことじゃないだろう。
彼女は、伸びをするように手を前に突き出して、はぁーと、
長く息を吐いた。
「ほんとに、いいね……」
「……泳いだら、気持ちよさそうだな」
「ん。んー……、泳ぎたいとは、思わないけれど」
「あ、そうなのか? てっきりシュノーケルとか、そういうのしたいのかって思ったんだけど」
「うーん、こうやって座って、見つめてるだけで、十分かな」
「ちょっと暇そうだな。きっと、一緒に来た友達は泳いでるだろうよ」
ははっ、と笑って彼女を見る。彼女は愛想笑いのつもりだろうか、辛そうな、厳しそうな笑みを浮かべている。
「そうだね……」
分からない。彼女が、今の俺の言葉を聞いて、愛想笑いをした理由が、分からない。絶対、この子は、俺の言葉に納得してない。社交辞令のように、反応しているだけだ。それだけは分かる。でも、何に対して? 何に対して、彼女は納得していないんだろう。そんな特殊な言葉を、言ったつもりはないのに。
もしかしたら、俺の事、嫌いだから? 何を言っても、反感を覚えるしかないから?
いつも笑っていた彼女。どんな言葉にも頷いて、笑って、同意して。
それも全て、社交辞令だったとしたら?
「……あのさ、俺の事、嫌い?」
気が付いたら、そんなことを言ってしまっていた。
彼女はびっくりした顔で、俺を、いや、俺の体育座りしている膝辺りを、見る。
顔を、見ない。
「なんか、会話、辛そうだし。嫌いだったら、はっきり言ってくれよ」
嫌いということを考えると、心臓が裂けそうだ。でも、そうやって愛想笑いをされる方がずっと嫌だ。それならはっきり言ってくれた方がいい。
だから――。
しかし、彼女は口をぽかんと開けて、小刻みに首を横に振った。
「嫌いじゃないよ。そんなわけない」
「ほんとか? それならなんで」
なんで、そんなにも会話をすることが、辛そうなんだ。
彼女を見る。彼女はまた、あの半笑いを浮かべている。しかし、何も言おうとしない。
口を閉ざしたままの、市場に出回った貝殻のようだ。
何か辛いのかもしれない。嫌なことがあるのかもしれない。しかし俺は、「かもしれない」と思えるだけで、彼女の気持ちがちゃんと分からなかった。
彼女は何も言わず、ただただ半笑いを浮かべている。
どうして、はっきり言わないんだよ。
瞬間、小規模な噴火が心の中で起きたかのように、苛立ちがつのった。
「……ねえ、どうして、ずっと笑ってんの」
低い声で言ってしまった。彼女が、え、という顔で俺を見る。半笑い。奇妙に歪んだ、目の端。
俺が原因ではないのなら、君は、どうして、今、笑っていないの。
何が辛いのか、言ってくれないと何も分からないじゃないか。
「……わ、たし」
彼女が掠れた声で言う。俺を見ようと、目を上げている。
「楽しいから、笑ってる。楽しいの」
見え透いた嘘を。
「今、楽しいの」
「……」
黙り込んでしまう。こういうところが、彼女は正直だ。
正直なのに、話してくれない。
「でも、笑えるから」
そう言って、また笑う。回数を重ねるごとに、どんどん卑屈になっていく笑顔。
辛そうに見えるけれど、なんだか彼女の心までも卑屈になっているのが目に見えるようで、苛立ちが溜まっていく。
「無理して笑わなくて、いいんだよ」
そう言うと、より一層彼女の顔が歪んだ。足元で、大きく波が打ち寄せる。
「……でも、でも笑わないと」
「なんで、そんな義務みたいに」
そんな、義務の様な君の笑顔など、見たくないのに。
「だって、じゃないと、無表情になる」
返ってきた言葉が予想外のもので、苛立ちが一瞬で消えた。
見ると、彼女はもう笑っていない。口の端は、微妙に上がっているけれど、目は、穴が開いたように、ぽっかりと黒くて、ここが明るい海岸など、嘘のような色をしていた。
意味が分からなくて、何も、言えなかった。
愛想笑いをしていないと無表情になるから、愛想笑いをする? 無表情になるなんて、そんな訳ないじゃないか。話していて、真剣なことだったら目は鋭くなるし、楽しい話だったら、自然に笑える。辛い話だったら、顔は歪む。
無表情って、なんだ。
「なんで、無表情になるの?」
聞くと、はっきりと彼女は口をつぐんだ。目が大きく見開かれる。開いた大穴が、広がって、彼女を引きずりこもうとしている。まるで泣く寸前のような、叫び出す寸前の様な――。
しかし、それが、一瞬で変わった。
いきなり口角が、くいっと上がり、笑っているように見せようとする。目からはさっきまでの狂気のような感情が見えなくなり、ただ虚無のように、何を見ているのか分からない目になった。
「だって、私、人の話、真面目に聞けないんだもん」
「聞けないって、そんなこと」
「感情移入、出来ないんだよ」
おかしいでしょ、と彼女は笑う。笑顔って楽しいもののはずなのに、彼女の浮かべる笑みは、なんというか、張りぼてのようだった。
なんで笑うんだ。
どうしてここで笑うんだ。
「感情移入って、そんなこと、ないだろ。だって君は、いつも人の話をちゃんと聞いて」
「そんな偉くないんだよ。私。やめて、そういう言葉」
笑っているけれど、俺を見ていない。目線を合わせたくないのだろうか。そっぽを向いて、笑っている。
「偉くないとか、そういうのじゃなくてさ」
「……」
「そこまで、自分を否定することないだろ」
「どうして」
「何がどうしてなんだよ」
「どうして否定しちゃいけないの」
「どうしてって……」
だって、否定したって、そんなのねじ曲がった自己分析の表れなんだから、やらない方がいいに決まっている。
彼女が俺を見ている。
まるで衝立を挟んで向かい合っているようだ。
「私、ねぇ、この際だから言うけどさ、人の話ちゃんと聞けないの。話せないのっ。話したくもないのっ!」
言葉に諸刃の剣が入り込んでいるようだった。真っ青な顔をしてた彼女は息を吐き、吐き出して、
「……おかしいでしょう」
そう言った。
俺は、彼女が少し怖かった。
自分のことを、貶めることに、なんの違和感も持っていない彼女。人と話すのが辛いという彼女。
何よりも、それを苦しい顔をせず、笑いながら言っていることが、不思議でしょうがなかった。
俺には、彼女の感覚が分からない。人と一緒にいたくない、と叫ぶ彼女の気持ちが分からない。
だって、人といることなんて、当たり前のことじゃないのか? そんなことに、苦痛を感じるのか? 見知らぬ人に対して苦痛を感じるのならば、まだ分かる。しかし、彼女はどんな人との会話でも、苦痛を感じているようだった。それだとしたら、余計に、なぜだろう?
だって俺は、例えば彼女と話していて楽しい。彼女が廊下をぶらりと歩いていたら、もちろん声をかけるだろう。
彼女にとって、その行為すら、普通の事ではないのか?
苦痛を感じる、行為なのか?
「あのね」
彼女は、そう言って立ち上がる。海の方へ一歩、足を進める。
「あなたが告白してくれた時さ。とってもとっても嬉しかったの。そう思った自分がいたの。でもね、私は、人を愛せないの。好きになれないの」
唐突な告白に戸惑う俺の前から、また一歩、彼女は離れる。
「そんな自分がさ、告白されたことに喜んでさ、舞い上がってさ。それはダメでしょ? 自分では与えられないものを、人から貰って喜ぶことは、いけないことでしょ? 違わない?」
それは、告白には答えられないということだろうか。
それでも、俺は、見返りがあると願って告白したわけじゃない。好きだから告白したんだっ。
「別に、見返りなんて求めていないさ!」
思わず膝立ちをして、叫ぶ。彼女はちょっと振り向いただけで、また足を進める。
もう、膝まで浸かっている。まるでその姿は、映画のワンシーンのようで、これから彼女が、死に向かうようで。
俺は慌てて立ち上がって、海の中へ足を踏み入れた。途端、足を止める。こんなにもキラキラ光っている海が、氷が浮いているかのような冷たさをしているとは、思わなかった。
思わず震えはじめる身体を抱きしめながら前を向くと、彼女はいつのまにか、もっと先へ進んでいた。
行かせてはいけない。
止めないと。
震える身体が、進むことを拒む。でも拒んでもいられない。俺は身体を引きずるようにして、彼女に近づいて手を掴んだ。既に彼女の手は、氷のように冷たくなっている。
「戻ろう、浜に、戻ろう」
「そうだね、人は見返りを求めていない。気付いているよ、そんなこと。でも私が納得いかないの。人と同じように、愛情を渡せない自分が、嫌で嫌でしょうがないの」
話を聞いてくれない。
本心から、これはまずいと思った。
「そんなことで自己嫌悪するなよ。なあ」
「そんなこと?」
彼女のたった一言に、俺は思わず言葉を止めてしまった。
有無を言わせない、はっきりとした言葉だった。
「そんなこと? そんなことって言った? そんなことじゃない。そんなことじゃないわっ、おかしいでしょ、ねぇ、あなたも私のこと、おかしいと思っているんでしょう!」
「違う、それは違う!」
「やめて、やめてやめて! どうせあなたも私を内心で嘲笑っているのよ! あ、ごめんなさい、叫んでごめんなさいっ。ほら、謝ってないと私気が済まないの。小心者なの。悪い子なのよ、悪い子なの、あは、あはははは」
狂ったような、彼女の笑い声。真っ黒な目は、海を見ている。変な目の色で、見ている。波が、ざぶんと跳ねて腰に当たり、身体中を濡らしていった。身体ががたがたと、震えてくる。
まずい、まずい、まずい。
「なあ、戻ろう。お願いだから」
このままでは、彼女がどうにかなってしまいそうだ。いや、今でさえどうにかなっているというのに。
彼女は動かない。下を向いて、動かない。
いつのまにか、日が雲に隠れてしまった。波がどんどん高くなる。さっきまでは膝までしか水が来ていなかったのに、今では海の中に、腰まで浸かっている。
「ねえ、分かったでしょう」
「何が」
「私が、最悪だって」
「は?」
どうして、そうなる。そんな話はしていない。彼女が一人で勝手に考え込んでいるだけじゃないか。訳が分からない。どうしてそんなに自己嫌悪するんだ。
彼女は、彼女の腕を掴んでいる俺の手に、ひたりと手を乗せた。
「お願い、離して」
「なんで」
「……私なんかに、触らないで。汚いから」
「嫌だ」
「離してよ」
「嫌だったら」
「離して、いいから、離して! もう死なせてよ!」
「嫌だって言ってんだろ!」
二人して、怒鳴って、弾けたように黙り込んだ。
何を自分の中で完結して、死のうとしているんだ。なんで、勝手に死のうと!
肩を掴んで、揺さぶる。彼女は肩を震わせるも、下を向いたまま。
「……なんで、死にたいなんて、そんなこと思うんだよ」
「当たり前じゃない。考えない方がおかしい」
「生きていたいって、思わないのかよ」
「思わないよ」
口調はわざとらしいくらい平坦で。
それがまた、とてもとても辛そうで。
彼女が、ごつごつと硬い、言葉の固まりを吐き出す。
「何も出来ないんだよ。私なんて、何も。するべきことも満足に出来ない、頼まれたことも忘れる。挙句の果てには、皆に迷惑をかけた」
「人間だから、失敗があるのは当たり前だろ」
「私は改善してないの。何度も失敗しているのっ。だから、だから、もうっ」
昼休み、放課後、夏休み。彼女の教室でも姿が思い浮かぶ。
いつもいつも、いつも頑張っていた。
とても、真面目だった。
それが、何も出来ないだって?
ふざけんなよ。
そんなに自分を、責めるなよ。
どうして、どうして認めないんだよ。どうして、そこまで自分を、蔑ろにするんだよ。
君は頑張っているじゃないかっ。
あまりの自己嫌悪は、他人から見ても、痛くて、辛い。そして、嫌悪感を生む。
俺はいつのまにか、嗚咽交じりの声になっていた。
「君は考えすぎだっ、自分に完璧を求めすぎなんだ! あんなに、どこでも頑張ってるじゃないか! お前が中途半端なんて、何も出来ないなんて、俺は思わない。そんなに自分を責めるなよ!」
お願いだから、そんなに、自分を責め立てないでくれよ。
そんなことしたら、君が壊れる。
壊れてしまう。
「……そんなに背負い込まないでくれよ。人を頼ってくれよ。いつでも相談に乗るからさ。辛いことがあったら、言っていいから」
だから、そんなに、自分の心に、爪を立てないで。
その時の彼女の顔は、今までに見たことがない、彼女らしくない顔をしていた。
ひどい驚きと、どこか気の抜けたような目の色。
薄く開いた口。そのまま動かない、表情。
背中に金属の棒でも突っ込まれたように、俺は二の句を告げなくなった。
何秒、何分たっただろうか。
彼女は、ぎこちなく、笑った。
目を細めて。口元を震わせて。
「……ありがとう」
その声も、震えている。
「人に、そこまで言われたの、初めて」
「みんなこれくらい、君のこと思っているよ」
彼女の中で、何か起こっている。きっと、彼女は生きようと思ってくれたはずだ。その、感動の震えなんだろう。
良かった、これなら、
そう思った瞬間だった。
ざぶん。
耳に、いきなり水が流れ込んできたかと思うと、その瞬間、俺らは波に押し潰されていた。
強い勢いで、身体を引っ張られる。もみくちゃにされる。
当然、彼女から、手が離れてしまった。
今、離したら、どうなるか分からない。
一瞬にして心が真っ青になって、俺は慌てて海面から顔を出そうとした。けれど、出ない。どうしてこんなにも海が荒れているんだ。身体が、ぐちゃぐちゃと引っ掻き回される。
どうにか一瞬、海の中で目を開けた。そこで見えたのは、真っ暗な底に沈もうとする、彼女の背中。
青く縮こまる心が、がたがたと震え出す。
まずい。
まずい。
待ってくれ、行かないでくれ!
「まっ……!」
がぶりと、水を飲んだ。急にくらくらと目眩がする。
それどころじゃないんだ。目、開いてくれよっ。彼女が沈んでいく、沈んでいく!
そう思えば思うほど、水を飲み、酸素が無駄に吐き出される。次第に意識が朦朧としてきた。もう一度、もう一度と、目を開けた時には、彼女の姿がどこにもない。
行かないで、行かないでくれ!
そして、そこで俺の意識は、ぶつりと途切れた。
ここまで読んでくださりありがとうございました。雉野です。
配分を間違えて、今回は8000字超えてしまいました……。
あと一話で終わります。お付き合いいただければ幸いです。