狐の嫁入り
雨の匂い
偽りの花嫁
空は明るかった。雲の隙間から太陽の光が差し込み、彼女は思わず顔を上げて目を細める。
それでも、と息をつく。
今日は、雨の日だ。
それを「狐の嫁入り」と呼び始めたのは誰だったか。いつだったかも、その理由さえもう思い出せないほど昔のことだ。
それでも、この神社で婚礼を挙げる男女がいるたび、彼女は30分ほどの細かな雨を降らす。それがその村の人々にとっての「幸せ」であり「今後の結婚生活への吉兆」であるとされているようだ。
もう間もなく、今日も婚礼を挙げる一族がやってくる。彼女が雨を降らせるのは、決まって彼らが境内をくぐる前後だ。「嫁入りの雨」を浴びた花嫁と花婿は幸せな家庭を築く、そんな伝承がここにはあるのだ。
人々の幸せな顔が見られれば良い、彼女は思う。
そもそも人に見られない存在である彼女に、結婚や幸せのことばは身に合わないのである。
さて、今日も花嫁一族と花婿一族が到着したようだ。彼女は腰を上げかけた。
「やっと見つけた」
そのときだった。彼が柔らかな笑顔を見せたのは。
「今日ね、兄さんの結婚式なんだ」
チャペルで挙げることだってできるけど、やっぱりここの神社がよかったんだってさ。
少年はただただ話す。まるで誰かがそばにいるかのような口ぶりで。
もしかしてここに他に人間がいるのやも、と彼女は辺りを見回すが、彼は「何きょろきょろしてるの、きみのことだよ」とさもおかしそうに笑った。
15,6ほどの少年だろうか。ひょろりとした体に、浮世離れしたような、ふわりと空を浮くような表情だ、と彼女は思う。
「きみのおかげなんでしょう」
「…なんの、ことだ」
やっとしゃべってくれた、と彼は顔をほころばせると、ことばを紡ぐ。
「きみがいつも雨を降らせてくれるから、村の人たちはみんな幸せな結婚式を挙げられるんだよ」
ありがとう、少年は笑った。
「おまえ、花婿の弟だと言うのなら、列に並ばなくていいのか」
「んん…なんか、面倒臭くて。それだったら、村の伝説の"おきつねさま"を探してみようと思ってね」
そしたら、きみに会えた。
雲間に差し込む光のようだ、と彼女は思った。
「ねえ、もうすぐ兄さんたち来るよ。雨、降らせないの?」
少年は顔を輝かせる。
「見せてほしいな、って言ったらばちが当たるかなあ」
「見たい、のか?」
ただ雨が降るだけだぞ、と彼女は目を丸くする。うん、見たいな、ひょろりと彼は笑った。
「待っていろ」
とうとう彼女は立ち上がって彼の頭をひと撫ですると、すっと目を閉じた。
雨の匂いが、ふわり。
光さす雲間と、雨。
ちぐはぐなようで、でもそんなところがきれいだ、と彼は思った。
秋の群青に浮かぶ雲がきれいで、そこから差し込む光がきれいで、降る雨はきらきらと光っていて。
だけどそれだけではない。
ただ黙って目を閉じ立つ彼女がきれいだ、と。
茂みの向こうで、驚きの歓声が上がる。
誰もが、兄と義姉の幸せを喜ぶ、そんなささやかながら幸せなひと時が訪れた。
やがて彼らは神楽殿に入り、滞りなく婚儀は始まったようだ。
「ありがとう」
少年はまた笑った。降り続く小雨で自身が濡れるのも構わずに、その雨粒さえも光に輝かせて。
「わたしはいつものことをしただけだ」
「うん、でも、ありがとう」
きれいだった、と感想をもらす。
「ねえ、おきつねさま」
きゅう、と彼は彼女の手を握った。その手のあたたかさと、対照的に自分の手の冷たさに思わず身じろぐ。
「僕の花嫁さんになってよ」
「…なにを、言う」
「ああでも僕はまだ16だから結婚できないな…じゃあ"ふり"でいいか、今だけは」
「そういう問題では」
彼はぺらぺらとことばを紡ぐ。
「おきつねさまも、幸せになろうよ。僕はきみと一緒なら幸せになれるよ」
「いや…」
そもそも彼女は見られない存在で、成長する彼らとは別次元の存在で、相入れることなどできもしなくて…。
そんな言い訳は浮かんでは消える。
–––おきつねさまも、幸せになろうよ。
そんなことばが頭をちらつく。
本来彼女に「婚儀」「生活の幸せ」はありえないものである。
それでも、いまだけ。いまだけでも、「幸せ」を感じてもいいだろうか。
偽りでもいい、花嫁に、なれるだろうか。
「なれるよ」
彼女の意を汲むように、彼は手を差し伸べた。
「花嫁さんは一人じゃなれないけど、花婿さんがいれば誰だってなれるよ。だから僕が花婿なんだから、きみだって花嫁だよ」
ね、雨が上がらないうちに、と彼は差し伸べた手を軽く振った。おいで、と言うように。
それならば、と彼女はそっとその手を差し出した。
ひと時の過ぎ去る幸せでも。
いつか、彼の他の人との幸せを願うときがくるとしても。
いまだけは、偽りでも彼の花嫁になりたい。彼女はそっと微笑んだ。
おまけの数年後。
「おまえはいい加減嫁を探さなくていいのか」
「だから、16のときから僕のお嫁さんはきみなんだけど?」
へらり、彼は笑う。
「親御殿が心配なさっているころだろう」
「いや、実は最近ようやく兄さん夫婦に子供が生まれてね。二人とも孫がかわいくて仕方がないから、大丈夫でしょ」
「…そういう問題ではないと思うのだが」
「とにかく、きみの心配することじゃありません。僕は幸せなんだから」
呆れた、と言いながら彼女は笑う。
素敵な花嫁を見つけたなあ、と微笑む彼は、きっとしばらくの間彼女の腕の中で、幸せを感じるのだろう。
そして彼を抱く彼女もまた、幸せを感じているのだ。