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谷野にとって山村のその一言は驚きであった。まさか、教師でもない人間に部活動の指導者ならまだしも、しかも監督を願い出ることがあっていいものであろうか。
「か…監督ですか」
「君の恩師から聞いたぞ、君は野球をできなくなってから指導者を目指して教員免許を取得しておると。そして、毎年教員採用試験を受けているそうじゃないか」
「まあ、毎年苦手な勉強で落ちていますが…」
「そうかそうか、しかし、その受け続ける信念こそ、教職を目指すものとして大事なことだ!どうだ、ひとつここは、まだ試合にも出れる人数じゃない野球部だが監督を引き受けてくれんかね」
谷野は悩んだ。昨日は自分に好意的であった柚木世奈に向けて、調子に乗った形でコーチになることを宣言してしまったが、まさか学校から頼まれることになるとは考えてもいなかった。野球部は柚木世奈一人だと思い、1人を教えるくらいだったら何も問題はないだろうと考えていた。
「引き受ければいいじゃないですか」
横から口を挟んできたのは、富岡であった。
「今日、谷野さんがやったことはいけないことですよ」
「はい、反省します…」
「しかし、学校のお墨付きであれば、いくらでも教えていいんです。柚木さんだけではなくて、今日いた仁科さんたちにも。彼女たちはまだ退部届を出していないので」
「出してないんですか?」
「だから、あなたが野球部の外部指導者を快諾すれば、いくらでも指導できます!」
谷野は再び考え込む。実情、野球部は柚木世奈しか練習には来ていないが、実際に部員は柚木世奈以外もいるということである。もしかしたら、谷野が卒業した思い入れのある野球部は、修復可能かもしれない。
「谷野君…」
「はい、山村先生」
「私は、何としてでも、ここの野球部がもう一回試合に出る姿を見たい。指導できる先生が来ず、生徒たちはボーイズリーグなどの硬式野球に流れ、部員が減った。現在、5人」
「5人て、柚木世奈が約束したとか言う…」
「そういえば、柚木さんはまだあきらめていませよね。校長」
「そうだ、彼女はあきらめていない。しかし、他の4人も心のどこかで、あきらめていないと思う。毎日毎日、柚木さんが一人で練習しているところを隠れてみているからな。谷野くん、今日君がノックを打っているのを見て、夢を見ているような気分だったよ!神様がかなえてくれたチャンスだと思ったね」
谷野の心が動き始めていた。自分はもう野球はできないが、野球をしたいと願っている子どもたちがいる。なんとか、彼女たちの約束をかなえてやりたいと思うようになった。
「分かりました…やります」
「ありがとう」
その後、谷野は校長としっかり握手を交わした。
学校を出る時、正門まで富岡が見送りについてきた。もう夜になり、谷野には暗くてよく分からなかったが、富岡はなんだかうれしそうな顔をしているように思えた。
「谷野さん、ありがとうございます。校長、今日あなたを見た時から、このチャンスを逃してたまるかって言ってたんです」
「そうですか」
正門前に来ると、富岡は「谷野さん」と谷野を呼び止め、こう話しだした。
「私は、富岡友菜です。野球部の顧問ですので、これからよろしくお願いします」
「あなたが、顧問なんですね!」
それから、いくつか言葉を交わし、二人は挨拶をして別れた。谷野は、久々にいい人と出会ったと思い、通学路の長い階段を下った。