96.銀
「お前に任せる」
せっかく一日かけて清書して完成させた書類を、第二皇子カレイドはぱらぱらとめくっただけで机の上に放り出した。紐で綴じてあったため、床に散乱しなかったのがせめてもの救いだった。
ヴィラニカは直立不動で、眉一つ動かさずに「わかりました」と答えた。
「本当に、お前はよくできた弟だ。俺が即位した暁には、それなりの地位に便宜を図ってやるからな」
「ありがたきお言葉です、兄上」
ヴィラニカは目を伏せて、書類の束を持ち上げ脇に抱えた。
カレイドとヴィラニカは、母も同じ第二妃なのに少しも似通ったところがない。身も心も蛇を彷彿とさせる兄と並ぶと、ヴィラニカはいっそう清らかで繊細に見える。もっとも、ヴィラニカが望むものから彼を遠ざける一因となっているのがその容姿なのだから、皮肉なものだ。
「ヴィラニカ、一刻も早くその計画を実行に移しなさい。お前の兄上のために」
部屋の奥のテーブルについて優雅にお茶を飲んでいた第二妃が、鷹揚を装った口調で言った。ヴィラニカがかいつまんで説明した書類の概要すら、彼女に理解できたかどうかは疑わしい。
「では、母上、兄上。仕事にかかりますので、これで失礼いたします」
ヴィラニカは一礼し、書類を抱えて退出した。終始表情を氷のように凍てつかせたままだった。
血の繋がった、実の親子であるはずなのに。
シディアは主の姿が人気のない廊下の一角へ入るのを見計らい、魔法を解除した。
『隠密』という、気配と姿を消す魔法だ。かなり消耗するので長時間は使えないが、世ほどのことがない限り見破られない。さすがに皇族の私室に忍び込むのは困難だが、この魔法を使えば堂々と一緒に部屋に入りそばで警護することができる。
ついていくと言ったときヴィラニカは苦笑していたが、反対はしなかった。だからシディアは、母子水入らずの対面に同行したのだが。
「シディア、ご苦労様」
振り返ったヴィラニカが、微笑んでシディアを手招いた。並んでゆっくり歩きながら、彼は大げさに溜息をついてみせる。
「いつも肩が凝って仕方がないよ。小難しい話を切り出せば向こうから終わりにしてくれるから、そこはありがたいけれど」
「……少しも難しくはないと思ったが」
「あの方々にとっては、ということだ」
ヴィラニカは笑っていたが、シディアはほとほと呆れ果てて次の言葉も思いつけずにいた。
ヴィラニカが書類にまとめ、母と兄の元へ持ち込んだ案件というのは、他ならぬ彼らが推し進めようとしている養老院の計画の具体案だったのだから。
年間の費用を算出し、国税と個人の負担額をそれぞれ決定する。受け入れる人々がどのような病を抱えているか、日常生活にどの程度の手助けが必要とされるかなどの可能性を挙げ、それらへの対処法を考案する。そして導き出された結論を元に、養老院で老人たちの世話をする者達をどれくらい雇うかを決める。もちろん、彼らの給金についても考えなければならない。
大まかな点でもこれだけのことを考え、決めなければならない。なのに第二妃もカレイド皇子も、養老院という案を出しただけですべてのことをヴィラニカや家臣達に投げ出したのだ。
それだけならば、まだシディアにとっても想定内だった。最悪だったのは、家臣達も何をどうすればいいかわからず始終ヴィラニカに相談しにくるので、まったく仕事がはかどらなかったことだ。
「結局、計画のすべてを建てたのはヴィラニカではないか」
「そうだよ」
くすくすと彼は笑った。低く。
「でも、何よりじゃないか。おかげで隅から隅まで思い通りにできた。それに、たった今兄上から白紙委任状を頂戴したから、今後もすべて私が取り仕切っていける」
連日の徹夜でおもやつれし、目の下に色濃い影を宿しながらも、彼は明るい声で話すのだ。
何もかも、彼の思い通りに進んでいる。それはシディアにもわかっているから、この場では沈黙を以て同意するしかない。
「うまくいきすぎて、怖いくらいだな」
小脇に挟んだ書類を大切そうになでながら、彼は言った。
「誰も邪魔しない。横槍すら入れてこない。逆に不安になるよ」
「あなたの邪魔をできるような者は、ここには一人もいないだろう」
この宮殿に人間はたくさんいるが、能力も気概もヴィラニカには遠く及ばない。野心すらも。
どんなたぐいのものであれ、力がなければ何一つ為せないのだから。
「そうだね……残念ながら。もし、私の前に立ちはだかることができるとすれば、それはたった一人だろう」
シディアの見つめる横顔の、煌めく翡翠の眼差しがきゅっと細められた。
「ファサールカ」
彼と同い年の弟。
「彼は今、農地改革を進めているのだったかな?」
「ああ。巫女姫の入れ知恵で、ずいぶんと変わった方策を練ったようだ。小麦の育成をしばらくやめ、豆を育てるのだそうだ」
「へぇ。どんな意味があるのかな? 我が国では、豆類はあまり食べる習慣がないけれど」
それはシディアも探ったが、痩せ細った土地にとってそうすることがいいらしい。理屈はわからないが、ファサールカ皇子達はその前提で計画を進めているようだった。
「巫女姫は、農業にもお詳しいのか。素晴らしいね」
シディアは、曖昧に頷いた。
まさかアンジュレイン皇子が、巫女姫月香を強引に連れ去るとは思いも寄らなかった。力は目覚めていないといっても、彼女には異世界の知識がある。それがどの程度ファサールカに有益だったかはもうしばらく様子を見なければわからないが、少なくとも何一つ成果が得られないなどということはないだろう。
「私も会ってみたかったな。巫女姫に」
もし対面が適うのであれば、月香はヴィラニカにとっても何かをもたらすのだろうか。彼が抱える書類の束に視線をやる。彼が持てる時間のほぼすべてを費やしてきたことは、こんな量の紙では到底記しきれないほどだ。言葉通り寝る間も惜しみ、食事も碌にとらず、足を向ける場所といえばたいていが図書室で、彼が休んでいる姿をシディアはほとんど見たことがない。遊興に至っては、言わずもがなだ。
巫女姫の持つ異世界の知識や知恵は、そんな彼に休息をもたらしてくれるのだろうか。
「おや」
ヴィラニカが、唐突に足を止めた。
彼が見ているものを素早く認め、シディアは魔法を詠唱する。
『隠密』。
シディアの姿が完全に失せたのを確かめてから、ヴィラニカは再び歩き出す。
宮殿の廊下は、ここから庭を回る通廊になっている。欄干に凭れてぼんやりしている青年は、無視して通り過ぎることのできない相手だった。そしてシディアにとっては、決して見つかってはならない相手。
「どうかなさったのですか? レナード殿」
気さくに話しかけたヴィラニカを、レナードは勢いよく振り返った。
「ご気分が優れないのですか?」
「いや……。ぼんやりしていただけです」
否定したものの、レナードがうち沈んだ気分でいることはシディアの目にもはっきりしていた。エンディミオンにいた頃ほとんど関わりは持たなかったが、必ずと言っていいほどエリューシア王子のそばにいた姿は記憶している。
片時も離れたくない、とでもいうようだったから。
「三日後には、お戻りになるとか。その時までどうぞ、お身体の調子を崩されませぬように」
「ええ……ありがとうございます」
レナードは会釈し、ファサールカも礼を返して彼の傍らを通り過ぎた。
姿を隠したまま、シディアもそれに倣う。
その一瞬が、なぜか心に引っかかった。
レナードの視線の向く先が、ヴィラニカの背中だったからだろうか。
あるいは、銀の髪の煌めきだったのかもしれないけれど。




