93.アフタヌーンティー
本当に知りたいことは、決して直接尋ねない。
祖母の教えだ。
エリューシアはカウンターの隣に座った男にもう一杯酒を振る舞ってやり、話の再開を待った。
「ああ……こりゃうめぇ。上等の酒は最高だな。ええと、何を話してたんだっけな」
「第二皇子が先月実施したっていう、特別手形の」
「ああ、そうそう!」
第二皇子は、物価高騰にあえぐ民の救済と、経済の活性化のためとして、国民全員に特別手形を配布した。価値は、銀貨五枚分。庶民ならばつましく暮らせば一週間を過ごせる額だ。
「うん、あれは助かったよ。金と同じように使えるのを、何しろただでくださるって言うんだからなぁ! うちのカカアがさっさと俺の分まで取り上げようとするから、言ってやったんだよ! 『これは、この国の民一人一人が自分で使ってこそ意味があるっていうお触れなんだよ!』ってな! で、そんときゃ確か、ベルーの蒸留酒を奮発したんだったよな、親父?」
「ああ、そうだったか」
突然話を振られた酒場の主人は、グラスを手入れしながらどうでもよさげに答えた。しかしそのときには、もう男は主人の方には全く注意を向けていなかった。物欲しそうに、その後ろの棚に並ぶ酒瓶を眺めている。
エリューシアはわざと気づかないふりをして、「それで」と促した。
「その手形に関しては、みんな喜んでいたんだろうな」
「まあ、そうだろうよ。貧乏人は特にな。何にもしないで突然銀貨五枚もらえたようなもんだ。しかも、好きなことに使っていいときたらなぁ!」
あの蒸留酒は最高だったなぁ、と言いながら、男はカウンターに突っ伏した。
酔いつぶれたらしい。
「そいつはいいよ。顔なじみだから、目が覚めるまで見ていてやる」
どうしようか困っていたエリューシアに、酒場の主人がそう言った。
「あんた、旅の人だね?」
「ああ」
「なら、一つ忠告しておいてやるよ」
男が、高い鼾をかいた。それを一瞥してから、主人はやや声を潜めて続ける。
「この国の出来事、特に皇族の方についてはむやみに訊かない方がいい」
ぎぃ、と扉がきしんだ。反射的にエリューシアはそちらを振り返ったが、誰も入ってきてはいない。
風か。
「今、皇太子争いで大変なんだよ。最も民に支持され国に貢献した者、最も執政に優れていると判断された皇子でなければ皇太子には選ばれない。それで今、国策が次々と発表されたり改正されたり。国中があわただしくてぴりぴりしてるんだ」
「なるほど」
ザークレイデスは、ただでさえ国内が荒れていた。そんな中で次から次へと新たな政策を実施すれば、どのような形であれ世情は乱れる。今酔いつぶれている男のように、一時的な収入に舞い上がって散財するのもその一つだ。酒の一杯、一瓶程度ならかわいいものだが。
貨幣を媒介とした市場は、貨幣の活発な流通が大前提。だがそれも労働者の賃金が潤沢ならという条件があってこそ。収入が少ないのに無計画に手持ちの金を使い続ければ、当たり前のことだが貧しくなる。そうなると、金を使えなくなる。ひどい場合は路頭に迷う。悪い循環の道筋ができる。
それがもし、街単位、都市単位、国単位で起こってしまったら。
エリューシアは、代金を払って酒場を出た。これ以上は不必要に目立ってしまいそうだった。
都の大通りには、明かりのついた高い柱が等間隔で設置されている。これも魔法ではなく、機械技術によるものだ。人通りの多い道を明るく照らすことによって強盗や掏摸の減少に繋がり、また夜になっても人々が外へ出るから酒場や食堂などの店の売り上げは上がったのだという。
考えたのは、確か二代前の皇帝だったか。善政を布き、目立った改革はなかったが安定した時代を守ったと歴史書には記されている。
今の皇帝は、どうだろう。
自分がまさに国の様子を見て、こうして現地に足を運んでいるにも関わらず、エリューシアはその問いに答えることができない。
祖母の話によれば、ザークレイデス皇帝エドゥアルデスに会ったのはただ一度きりだという。まだ祖母が王妃ですらなく、巫女姫としての戦いが終わりに近づいたころのことだったらしい。
エドゥアルデスの父は、巫女姫の協力者の一人だった。エドゥアルデスは当時まだ幼く、悩みもあるがそれを克服して成長もしていた少年だった。
そんな大昔の、しかも一度きりの対面での印象から人となりを判断しろというのはさすがにあの祖母に対しても酷というものだろう。
長い間、人前に姿を現さない皇帝。
これといって悪政らしい悪政は行っていない。にもかかわらず、今ザークレイデスは決して安定しているとはいいがたい。為政者への自由な批判が許されないのが、何よりの証拠だ。
エリューシアは、眉をひそめた。月香は、こんな状況の国にいるのだ。
第四皇子ファサールカは、政治の中枢から離れ自分の力で民へ尽くすことを選択したという。その通りの人物であれば、彼の近くにいることで月香が危険に晒されることはないだろうが。
どこにいて、どうしているのだろう。
「おい、待て!」
考えごとをしながら歩いてたエリューシアの進路に、ばらばらと複数の影が散った。
「そう、お前だ。先ほどから見ていたが、どうにも挙動が不審だな」
軽装鎧に、槍。腰には剣。どう見ても兵士だ。一人だけ他と鎧の造りや色が違う男がいたが、居丈高に声をかけてきたのはこの男だった。
「見たところ旅人のようだから、その辺りは配慮してやろう。詰め所まで来い」
エリューシアは大人しく歩きだした。周りを兵士が囲むが、いまいち統率がとれていない。一番偉いらしい男が酒の小瓶を腰から取り上げたところや、武器も鎧も古くて傷んでいる様子から、その理由は考えるまでもなくわかる。
だらだらとした行列は、四辻にさしかかる。ゆきあった人々は兵の一段を見るなり、遠巻きにして避けていく。
エリューシアは、素早く人々の動きと位置を確認した。そして兵の歩く速さを見極めて。
「あっ!」
「な、なんだ!」
「待て! 待たんか!」
ほとんど灯りの届かない路地に飛び込み、一気に駆け抜けた。
後ろから、兵士達が追ってくる。しかし路地の細さのために混乱が起きているのが、聞こえてくる罵声から明らかだった。もちろん、それを狙ってこの道を選んだのだ。
薄暗いが、どこに何があるかくらいは確認できる。ちょうどいい扉はすぐに見つかった。
鍵を、鍵穴に差し込む。回す。開く。
どたどたという振動が複数、足の裏に伝わってきた。振り返らずに、エリューシアは扉の中に身を躍らせ、すぐに閉める。
聞こえなくなる。足音も、怒号も。
空気が変わった。
ほうと息を吐き出して、改めて顔を上げた彼だったが。
「おや、どうしたのだ王子」
暢気な声の持ち主は、優雅にカップを傾けていた。三段に皿が重ねられた奇妙な形の置物には、ケーキやパンなどがずらりと並べられていて美しい。
だがそれよりも何よりも、そこに見つけた人の姿と、こんな簡単なことに思い至らなかった自分の馬鹿さ加減に、彼は茫然と膝をついた。
「あ、だ、大丈夫ですか?」
あわてて駆け寄ってくる気配と、懐かしい声。
そう、最初からこれが一番手っ取り早かったのだ。発想を変えればよかっただけのこと。
近づいてきた人の手を、エリューシアはしっかりと掴む。短い悲鳴が上がったが、気にしない。
やっと、見つけた。会えた。
「月香」
彼女は、異なる世界の住人。けれど必ず現れる場所があり、エリューシアがその気になればいつでも来ることもできた。
アザゼルが常駐している、この部屋に。




