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92.ここから

 王立研究院という施設は、琴音の感覚でいうと博物館のような雰囲気だった。広いエントランスがあり、それからいろいろな展示ごとの部屋が左右に続く。博物館と異なるのは、部屋にあるのが展示品ではなく研究者と実験器具、資料などであるということだ。

「ここは主に植物学を研究しています。ザークレイデスの厳しい気候でも、収穫を望めるような作物を作り出すことが目的です」

 ファサールカ皇子が、丁寧に説明してくれる。アステルとレナードはそれにうなずきながら時折質問を挟んだりもしていたが、だんだん難しい会話になってきて琴音はうっかりすると半分くらい聞き逃すこともあった。

 今日の琴音は黒いロングワンピースに髪留めも兼ねた帽子をつけ、きちんとした侍女の服装をしている。実際、アステルに着いてきた侍女という触れ込みなのだ。身分の高い女性は、身の回りのことをすべて侍女にさせるもの。だから琴音がいても誰も不自然に思わない。実際、王立研究院に入る前も入ったあとも、誰からも不審の眼差しなどを向けられることはなかった。

 まずは、第一段階成功。部屋の出入り口のそばに控えていた琴音はそわそわと指を組みそうになり、あわてて「気をつけ」の姿勢を取った。

 王立研究院は、宮殿の外にある。しかも、首都のわりと中心部に位置している。これはチャンスだとアステルは昨夜言っていた。

『一度鍵を使って、お兄様をこちらへ来させてしまえば解決なんですもの』

 何とか隙を見て、研究院のどこかの扉とエリューシアのいる場所を繋いでしまおうという作戦だ。その役目が琴音に与えられたのは、もちろん一番適任だからだ。 

 アステルは異国からの貴賓、つまり主役である。レナードは彼女の付き添い兼護衛、常にそばにつき従っているべき立場だ。

 しかし琴音は、表向きアステルの侍女ということになっている。言い換えれば、主人の命令で知らない場所のあっちへ行ったりこっちへ行ったりしても不自然ではないということだ。万一とがめられても、アステルが口添えすればだいたいどうにかなる。

 アステルはそう説明した後、琴音の手をしっかりと握りしめた。

『あなたにしかお願いできないの。どうか、お兄様をこちらへつれてきて』

 エリューシアなら、たとえ単独で異国の街を探査するのも支障はない。趣味でしょっちゅう市井へ降りていたのだから。それに彼も巫女姫の鍵を持っているから、逃げ道も確保しやすい。

『お兄様ならきっと、月香さんとアンジュレイン皇子を見つけられる。おそらく、ファサールカ皇子の住んでいるところに匿われているだろうということですが、いくら身分を捨てたといっても皇族なのですから、人の噂を辿ればきっと突き止められるとお兄様はお考えなの』

 もちろん、他にもいろいろな手段を使うらしいのだが、アステルは詳しく教えてはくれなかった。聞いても、琴音に理解できたかどうかは自信がない。

 ともかく、と、琴音は唇を引き結んだ。

 自分の役目は、エリューシアを連れてくること。宮殿の外へつながる出入り口を彼が確保するための、手伝いをすることだ。

 そのあとのことは、どうなるかわからない。琴音にはきっと、何もできないだろう。

 確かなのは、エリューシアが月香を見つけてくれれば、また会えるということだ。

 マネージャーのアザゼルから、元気だとは聞いている。ザークレイデスで仕事をしているというのも。でも、それだけでは足りないのだ。

 顔が見たい。

 また、話がしたい。

 この目で、無事を確かめたい。

「ちょっと」

 廊下に出てしばらく進んだ時、アステルが琴音に声をかけた。

 はっとする。これは、合図だ。

 アステルは手にしていた羽根付きの扇を開き、その陰で琴音に耳打ちする――ふりをする。身分の高い女性がトイレに行きたくなった時、侍女は先にトイレの場所を探したり、誰かが使用中でないかを確認したりするのだそうだ。そういう場合に周りに他に人がいたら、さりげなく耳打ちするのが作法に適ったやり方。というか、人前でトイレの場所を訊いたりする貴婦人ははしたないものとされているらしい。

 アステルはそれを利用して、この建物を自由に歩き回る権利と理由を琴音に与えたわけだ。もし誰かに見咎められたら、「我が主のための花を探しているところです」と答えれば見逃してもらえるという。

「お願いね」

 扇に隠れて、アステルが囁く。周りにも聞こえているだろうが、不自然には受け取られない。

 そして琴音には、もう一つの意味が正しく伝わる。

「かしこまりました」

 昨日の夜何度も練習した礼をしてから、琴音は小走りに駆け出した。

 ワンピースの裾が足に絡まりそうになり、少しつまみ上げる。フリルやレースが着いていて結構かわいい服だが、琴音の感覚ではあまり機能的ではない。本物の侍女は、よくこれを着て仕事ができるものだ。

 何度か頭のよさそうな人達とすれ違う。全員同じローブを纏っていた。きっと職員なのだ。いや、研究者というべきか。

 彼らは一様に無関心で、琴音にはまったく視線すら向けなかった。手にした本を読んだまま琴音に突き進んでくる者もいて、『学者バカって世界を超えても同じなんだなぁ』などとつい思ってしまう。けれど今は、それがありがたかった。

 やっと見つけた玄関に近いドアを鍵で開け、そこへ琴音が滑り込んでもやはり誰一人注意を払わなかったから。

「王子様」

「来たか」

 エリューシアの部屋で間違いなかった。しかしソファーから立ち上がった人がエリューシアだと、一瞬わからなかった。

「王子様、その髪……」

「ザークレイデスは栗色の髪が多いからな。目立たないようにした」

 エリューシアの美しい金髪は、今は鳶色になっていた。髪の色が変わっただけで別人のようだ。

「すぐに行ける。出る先はどんな場所だ?」

「え? あ、研究院の、玄関の近くです……」

 つい見入っていた琴音は、あわてて答えた。

「研究者の人がいますけど、あんまり周りに興味ないみたいです。ぱぱっと出れば見つからないんじゃないかと思います」

「そうか。いいところに出口を作ったな」

 エリューシアは微笑んだ。改めて見ると、服装がとても質素だった。庶民仕様にしたということだろうか。

 ザークレイデスの街中に、溶け込めるように。

「王子様」

 琴音は、ぎゅっとスカートを握りしめた。

「月香さんを、見つけてください」

 大丈夫、と思えた。

 この人なら。

「ああ、必ず」

 そしてエリューシアは。

 俯く琴音の肩に手を置いて、しっかりと頷いた。

 扉に、手をかける。

 開かれていくその向こう側に、彼は何の躊躇いもなく足を踏み出した。

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