91.魂が器に集約する
ソファーにぐったりとしているヴィラニカに、シディアは急いで駆け寄って抱き起こした。
ことんともたれ掛かった白い頬は、いつもと変わりなく見える。晴れの日が少ないザークレイデスに暮らしている上、ほぼ屋内で過ごすことが多い皇族だ。透けるような肌はむしろ当たり前である。
脈も、異常はない。首筋に当てた指先から、規則正しい動きを感じる。
呼吸は、深く、ゆっくり。
そこまで確かめてからようやく、シディアはヴィラニカを抱き上げて寝室までそっと運んだ。上着と靴だけ脱がせ、広い寝台に横たえる。びしりと整ったシーツから、案の定昨夜は眠らなかったのだという裏付けを得た。
徹夜してそのまま執務をこなし、昼食の時間がそろそろという今になって疲労の度合いが限界を迎えたということだろう。力つきてソファーに沈んでいるところに、シディアは帰ってきてしまったのだ。
起こさないよう細心の注意を払い、掛布をかけてやる。銀の髪が白い頬にかかるのを、そっと指ですくった。
ザークレイデス皇国を構成しているのは、征服されたかつての異国人も含めたいくつかの民族だが、皇族をはじめとするスニア族が最も人口が多い。色素の濃い髪と目を顕著な特徴とする者達だが、ヴィラニカはその一員であることが信じられないほど淡い色で造られている。
母は、サレの王族出身だ。白金の髪と緑の目をした、たいそう美しい姫君だったという。けれど妃であれば何の問題もなかったそれらの美も、皇子という立場のヴィラニカにはあまり有利に働いていない。
ザークレイデスの皇族に求められるのは美しい容姿ではなく奸智、そして保身も含めた貪欲さ。ほっそりと優美なヴィラニカの外見からは、そのようなものを見出すのが困難だ。
シディアは、眠るヴィラニカをしばしじっと見つめていた。
穏やかな寝息。悪夢にうなされている様子もない。
掛布を少しめくり、露わになった手をそっと取る。起こさないように。
その甲と指先に、静かに口づけを落とした。
唇で、軽くついばむ。上質の絹のような、うっとりするほどの滑らかさのあとに、強靱さが接吻を押し返してくる。手の輪郭を辿り、指の付け根へ、ひときわ柔らかなところに口づけると、ふるふると震えた。
手入れが施されているが、鍛えられた者だけが持つ堅さを唇に感じる。こうしてそれを確かめるのが、好きだ。
この手を、守りたいのだ。雪のように白いままで。
自分のように、汚したくない。
何度かの接吻の後、彼の手をもとのように掛布の中に戻してやる。そしてシディアは、滑るように寝室を出た。
寝室と居間の間の扉を閉め、さてどうしようかと考える。ヴィラニカとはしばらく話せそうにない。報告することはたくさんあるから、彼の体調と頭の動きが平常に戻ってから改めて出直そうか。
逡巡していたシディアの目は、テーブルに散乱していた書類の一枚にふと引き寄せられた。
『魔王の山』
斜めに押しつぶしたような、独特の流麗な筆跡はヴィラニカのものだ。ざっと眺めただけだが、取り留めのない走り書きのようだった。考えをまとめるために、頭に浮かぶことを片端から書き連ねていったものか。
読むつもりはなかった。手を触れることすら、最初から考えなかった。ヴィラニカは優しい主だが、自分のものに勝手に触れられることを嫌うから。
シディアが手をのばさざるを得なかったのは、どういった偶然が働いたためか、その紙がテーブルからひらりと滑り落ちたからだ。
床に散った他の紙とともに、シディアはそれを拾い上げてまとめた。書類の位置が変わっていたらヴィラニカはいやな気持ちになるだろうと、せめてと思いきちんとそろえた書類は裏返しにしてテーブルに伏せた。
耳をそばだてる。隣の寝室は静まり返っていて、身じろぎの気配もない。
やはり、出直した方がよさそうだ。
シディアは入ってきた窓から身を踊らせ、魔法を詠唱した。目に見えない固まりが彼を包み、ゆっくりと下へ下へと導いていく。
滑空の魔法。自在に飛ぶことはできないが、こうして空を滑っての移動が可能だ。低い場所から高いところへ昇ることもできるので、ヴィラニカのもとを訪ねるときはいつもこの方法を使って窓から出入りしている。
空中をじりじりと滑りながら、シディアの思考はまだヴィラニカの部屋に取り残されている。
見るつもりはなかった。もちろん、読むつもりも。
けれど、目に飛び込んできてしまうのはどうしようもできなかった。
魔王の山、と記された下の部分に書かれていた言葉も、同時に記憶に焼き付いてしまった。
『魂が器に集約する』




