90.たぶん、
朝起きてまず思うのは、家に帰りたいなぁ、だ。
帰るどころか、月香はまさに自宅で眠って起床しているのにおかしな話だ。
そうして打ち消してみても、帰りたいという思いは消えない。
自然、気持ちも爽やかとはいかない。ニュースを見ながらパンとコーヒーだけの朝食を済ませ、身支度を調える。それからスマホをいじったり本を読んだり、何だかんだとやっている内に出勤時間になる。
交通機関の利用が必要ない上、職場が近いなんて次元じゃない場所にあるのだから、つい朝がだらだらしてしまう気がする。かといって、朝からいろいろ予定を組んで無駄なく隙なく有効にと言うのはあまり好きではない。成功する人は一分も無駄にせず仕事のためになることをしているらしいが、何もしない時間やゆっくりと休む時間もとれないくらいじゃないと成功できないというのは、そもそも何をしても駄目だということではないだろうか。
そんなふうに自分を納得させながら、玄関ドアに鍵を入れて、回す。開けた時には、そこは職場だ。
「おはようございます」
「おはよう、月香」
いつもの挨拶。時々、ルドルフが加わることもある。最近、アザゼルはまたずっとこの会社にいられるようになった。もう『人質』は必要ないと、ルカとアンジュが言ってくれたからだ。
アザゼルが『人質』になっていた時は直接ルカの部屋に行っていたが、アザゼルが会社に戻れるようになってからは元のように一旦会社を通って世界を超える習慣に戻していた。直接ヴィヅにいってもいいと当初から言われているが、アザゼルを無視するようで月香は落ち着かないのだ。
「それでは、いってまいります」
そう断るのも、入社当時からのこと。アザゼルは、「うむ、いってくるのだ」などと返してくれていた。
「月香」
しかし今日は、イレギュラーケースが起きた。
「はい」
「大丈夫か?」
何がだ。
アザゼルの問いは唐突すぎて、月香は首をかしげることしかできない。
「気の流れが悪い。最近眠れているか?」
「……と、思いますが」
夜、ベッドに入って目を閉じていれば、気づけば朝になっている。夢もたぶん、見ている。覚えていないだけだろう。たぶん。
「疲れは取れているか?」
「……たぶん」
少なくとも朝になればこうして出勤できるし、昼間も動くことはできるのだから、疲れてはいないと言えるのではないか。疲れていたらきっと動けないのだろうし。
「食事はちゃんと採っているか? おいしいか?」
「……うーん」
昼はルカやアンジュと交代制で作っているが、何しろ作業をしながらだし、あまり味を気にしてはいない。それほど手の込んだものは、三人とも作らないし。夜は、こちらに戻ってきてからどこかの店で済ませるか、コンビニなどで買っている。休日は自分で作るが、自分の料理ほど味気ないものはない。
「というわけで、あまり気にしたことがないんですが」
「うーん……」
アザゼルは、顎に手を当てて唸った。
何だろう。
そろそろルカ達のところへ行かなければならないのだから、できれば早めに用件を済ませてほしい。
「月香」
なのに、アザゼルはぽんと月香の肩に手を置いて、信じられないことを口にした。
「今日から、一週間は休暇を取るのだ」
「は!?」
つい変な声が出た。
「一週間なんてとんでもないです! ルカさんに頼まれた調べ物がぜんぜん進んでないし、今並行して土壌の改良についても研究してるところで、資料を作ったりしないと――」
「月香」
アザゼルの制止は、月香がどきりとするくらい重く、鋭かった。
「仕事に熱中するのは素晴らしいが、自分を大事にして労ることも大切だ」
「大事にって……」
月香は、戸惑ってアザゼルを見返した。
仕事が忙しいのだから、休まずに働く。残業もする。当たり前のことだ。疲れたからと言ってその都度休んでいたら、仕事が滞って周りに迷惑がかかる。
どんなに嫌でも、仕事をするというのは自分を犠牲にすることだ。どんなに月香が、生活の手段でしかないものに振り回されたくないと思っていたとしても、関係ない。
月香の気持ちや考えなど、無視しなければ仕事なんてできない。
「私は大丈夫です。休みなんてそんな」
「そんな顔をして、大丈夫だなどとは思えない」
アザゼルは、どこからともなく鏡を取り出した。月香の顔が映る。
今朝、化粧をした時に確認したのとほとんど違いはない。顔色が悪く見えるのはきっとファンデーションの色が合わなくなったせいだ。目の下にくまがあるように見えるのはいつものことで、残念ながらメイクでは隠せない。でも、チークや口紅で血色がよく見えるようにはできているはずだ。
「体重も減ったのではないか?」
「ええ、三キロほど」
おかげでスカートのサイズが変わった。何よりではないか。
「最近、笑えているか?」
おかしな質問だ。
「仕事が忙しくて、笑うような状況じゃないです」
やっていることは興味深いが、笑えるようなことではない。仕事なのだから。仕事で笑うことなどあるわけがない。
いらいらしてきた。このマネージャーは、何が言いたいのだろう。
「月香」
そしてアザゼルは、おもむろに手を伸ばしてきた。
あ、と言う間もなかった。
「ちょ、何するんですか!」
「社員の健康状態に気を配るのも、マネージャーの役目だ」
繊細な指は、優美だが素早い動きで月香の首筋をかすめていった。
そこにいつも下げている、鍵の紐を絡め取って。
「向こうには私が言っておくから、今日はお休みした方がいい」
「でも!」
「何なら、その資料などは渡しておく。彼らなら、だいたいの内容は理解できるだろう。後日わからなかったところは質問してもらえばいいのだしな」
アザゼルは、鍵をポケットに隠してしまった。
「月香」
ゆっくりと彼女の名を呼んだその声は、静かで、とても重くて。
月香は、文句を言うことができなくなってしまう。
「頼むから、自分を大切にしてほしい」
ジブンヲタイセツニスル。
頭の中で、その音の連なりは言葉としての意味を纏わず、消えてしまった。




