89.夜を越えて
何度目かわからないお茶の支度をして、アンジュは居間へ入っていった。ぼさぼさの髪をしたルカが、散乱した書類の中心でちょこまかと動いている。本人としては熱中して仕事をしているつもりなのかもしれないが、事実がそうであっても端から見ればその仕草は滑稽でおもしろい。
「兄上、少しお休みになってください」
脇へどけられたテーブルにお茶の道具一式を置いて、声をかける。しかしルカは作業をやめようとしない。
アンジュは溜息をついて、兄のそばまで近づいた。
「兄上」
「わっ!」
ちょっと肩を叩いただけなのに、ルカは言葉通り飛び上がった。しりもちをついて辺りをきょろきょろ見回し、やっと弟に目を向ける。
「あ、アンジュか。びっくりしたよ」
「すみません。でも、呼んでも気づいていただけないので」
ファサールカは、苦笑いを浮かべた。何かに没頭すると周囲のことに注意が向かないのは、兄の癖だ。
「昔よりひどくなっているのではないですか?」
「そうかなぁ。でもつい、ね。月香さんの作ってくれた資料があんまり面白くて」
向かい合ってお茶を飲みながら、ルカは手に持っていた紙の束を差し出してくる。くちゃくちゃになっているのは、ずっと握りしめていたからだ。
せっかく月香が作ってくれたのに、と思ったが、彼女の場合はむしろ、こんなになるまで夢中になってくれたのかと喜ぶのかもしれないとも考えた。
彼女は真面目で、実利的な女性だから。
椅子の一脚に目を向ける。ここ数日、彼女専用になっているものだ。背筋を伸ばして、時には身体を丸めて、彼女は長時間椅子の上で仕事を続ける。
「いい方だね」
不意に兄がそう言ったので、アンジュはあからさまに狼狽えてしまう。
ルカの青い目は、優しく細められていた。
「お前の連れてきてくれた巫女姫は、こちらの無体も気にかけず懸命に手伝ってくださる。本来なら、ザークレイデスが豊かになるのは困ると反抗すべきところだろうに、信じられないことをおっしゃったんだよ」
「……彼女は、何と?」
ルカは。
その瞬間を思い出したのか、微かに笑んだ。
「争いの原因は、価値観の相違でも宗教などの大義名分でもない。自分が満たされていないのに他者が幸せだと思ってしまうから、だそうだよ」
それは、また。
「独創的な意見ですね」
「でも、そうかもしれない。私の領地でもしょっちゅうなんだけれど、近隣から野盗を装った民が略奪にやってきていたんだよ。最近は、見当をつけた地方の領主に農作物のうまい作り方を教授したり、共同で畑地の開墾に取り組んだりして、収穫高の差をなくしたらそういう被害も減った」
要は貧困を解消する手段を他に見つけられないのが原因だったんだよ、とルカは言った。
「もちろん、それだけではないかもしれない。でも最多の要因と言えば、衣食住が十分でなく、心安く暮らせないことへの不満なのじゃないだろうか」
アンジュは、曲がりなりにも神官だった。祈りにくる人々の願い事が、耳に入ることも多かった。
病気が治りますように。
仕事が見つかりますように。
子供が元気に育ちますように。
そのほか、すべての願いが叶いますように。
願うというのは、裏を返せば現状に不満があるということだ。自分の力ではどうにもならないことを、超越者に叶えてもらい、安寧を手に入れたいから祈るのだ。
けれど、それでも幸福になれないときは。
「彼女の意見が正しいのかもしれませんね」
祈ることで、さらなる努力の励みとするのならば何も問題はない。そうして励んでいれば、願いが叶う日も来る。
しかし、すべての人がそうできるわけではないのだ。
自分が不幸なのは他者のせい、その原因となったものを取り除けば……。あるいは、報復すれば……。
何一つ解決しないのは何もしなかった場合と同じなのに、もっとひどい結末を招くことすらあるのに、見当違いの選択をしてしまう者だっているのだ。
「ご本人は受け売りだとおっしゃっていたけれど、やはり私も同意見だよ。おかげで、すべきことの方向が見えてきた気がする」
ルカは、書類の束を眺めた。
強い眼差しで。
「今までは、目に見えるところを豊かにすることだけを考えていた。でも、それでは一時しのぎにしかならない。私達には、いや、私達でなければできないことがあったんだ」
「兄上」
「明日、アステル王女を国立研究院へご案内することになっていたから、ちょうどいい。早速……」
ルカの言葉は、そこで中断された。
窓のガラスを叩く音で。
アンジュはルカに目配せし、素早く帳を下ろした窓へ近づいた。隙間から外をのぞき、意外な思いで帳を引き上げる。
開けた窓から、無駄のない動きで人が入ってくる。
青灰色の長い髪が、追いかけてきた風に煽られて舞った。