85.お茶を一杯
昔々、アイルランドでは長い間ジャガイモばかり作っていたせいで土壌が弱り、とんでもない大飢饉が起きたそうな。
「こういうのを連作障害って言うらしいんですけど、それを防ぐためには、毎年違う作物を植えるのがいいんです」
「なるほど……。では、例えば麦のあとには何を植えれば?」
「ジャガイモとかがいいようですね。……ザークレイデスでジャガイモってあります?」
月香がの~ぱそを駆使して作ってきた資料を、ルカは目をきらきらさせながらめくっている。
「素晴らしい。大量の収穫を確保でき、且つ土を弱らせない。何という画期的な方法だ!」
感動してもらえたらしい。の~ぱそはネット接続もできるので、情報には事欠かない。まとめる方がむしろ大変だった。ExcelとWordの資格を持っていていよかったと、今回ほど実感したことはない。
「早速適切な作物を試してみましょう。ありがとうございます月香さん」
資料の束を持って、ルカは玄関へすっ飛んでいく。よほど嬉しかったようだ。昨日ホームセンターで肥料を買って持ってきたら、やはり大喜びしていた。根っからアグリカルチャーライフが性に合っているのだろう。
羨ましい。
自分に合った仕事を見つけて、それに全力を傾けられるのは。
月香はソファーに座って、ぼんやり考える。
自分はそれほどまだ社会人としての経験を積んできたわけではないけれど、やりがいを見出したことなどなかったと思う。仕事だから、給料をもらうから、ただそれだけのために毎日の業務を片付けていた。そういうものなのだと、考えていた。
よく『やりがいのある仕事をしています』と笑顔で語れる人をテレビなどで見掛けても、自分とはかけ離れた考え方の持ち主なのだとしか思えなかった。仕事というのは生活の糧を得る手段でしかなく、手段に人生を振り回されるのはまっぴらだ。どちらかというとそういう考えだった。
でも。
ルカのように、人生を捧げる意義を仕事の中に見出せるのは、きっと幸せに違いないのだろう。
「月香……」
ルカとの話し合いの最中、ずっと無言で控えていたアンジュが、おずおずと口を開いた。
「お疲れですか?」
「え? ええ、ちょっと」
ほとんど徹夜で資料を作ったせいだ。結構楽しかったので構わないが。
「お茶でも淹れますか?」
「いえ、私が――」
月香は立ち上がり、アンジュがそれを止めかけたが、そこで彼はびくりと動きを止めた。
「アンジュさん?」
今日もザークレイデスは天気が悪く部屋の中が薄暗いが、彼の顔色の悪さはそのためではないように見えた。
「私の淹れたお茶は」
「え?」
「飲みたくない、ですよね」
すみません、と。
アンジュは項垂れた。
月香は言葉を探したが、思い浮かんだものは結局薄っぺらく思えた。
後悔は、伝わってくる。月香に対して、負い目を持っているのも。それは当然だろうし、むしろ何も感じていないといわれれば腹が立つのは事実だが、でも。
月香は正直、アンジュから危害を加えられたとは思っていない。そういう実感がないのだ。毒入りのワインを飲んだのは月香が自分でしたことだし、あれだけ大勢周りに人がいるのだから、少しくらいの量なら口にしても大丈夫だろうと何となく考えていた。確かにあとで思い出すと無鉄砲だったとぞっとするが、それだけのことだ。
たぶん、アザゼル達の方で何らかの特殊な治療をしてくれたというのも影響しているのだろうが。
これらのことを話すのは簡単だ。しかし、アンジュは納得しないだろう。と言うよりも、受け入れてくれないのだと思う。
自分を責めて、責めて、それでいっぱいいっぱいになっているように見えるから。
「アンジュさん」
月香は、しばらくの沈黙のあとに思い切って切り出してみた。
言葉が無力なら、行動しかできない。
「よく考えてみたら、お茶の淹れ方、わからないんです」
アンジュが、ゆっくりと月香を見上げた。
途方に暮れた表情をしている。疲れ切った、迷子にも似た。
月香は、こわごわ微笑んでみた。笑顔は苦手だ。変な顔になっていなければいいが。
「すみませんが、お願いしてもいいですか?」
「……本当に?」
「はい」
頷いて、やっと見つけた力持つ言葉を形にする。
「アンジュさんのお茶、飲みたいです」
アンジュは、大きく目を見開いた。曇天の貧弱な光でも尚、スターサファイヤの輝きが褪せていない。
「……少し、待っていてください」
彼が立ち上がり台所へ入っていったのは、沈黙の時がかなり流れ去ってからのことだった。




