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83.手

 銀髪を空に散らしてはっと振り返ったヴィラニカは、すぐに笑みを浮かべてシディアに近づいてきた。

「入り口から入ればいいのに」

「衛兵がいる。いちいち訪問の理由を問い詰められるのは面倒だ」

 シディアが身軽に窓枠から床に降りると、すぐにヴィラニカは窓を閉めた。質のいい滑らかな硝子が、鬱陶しい曇天の湿り気を完全に部屋から追い出した。

 この国の空が、真っ青に塗り上げられる日など数えるほどしかない。シディア達の一族では、その理由を封じられた魔王の呪いだと言い伝えている。

 その真偽のほどはともかく、ザークレイデスの気候が国を貧しくする一因であることは事実だ。農作物は実らず、寒冷なために漁業や狩猟に頼るのにも限界がある。結果、国内の食糧は他国からの輸入に頼らざるを得ない。

 その対価として支払うザークレイデスの機械技術は、今はまだ諸国で珍重されている。機械を造れるのはザークレイデス人だけであり、技術のすべてが重要機密として守られているからだ。

 しかしそれもそのうち限界を迎えるだろうと考えている者達は存在する。いつかは、他国でも機械を造れるようになるだろうと。完成品を分解し、機工を研究すれば確かに学習は可能だ。

「エンディミオンはどうだった?」

 現在では少数派である憂国の士。ヴィラニカもその一人。

 緑の双眸が、好奇心と懸念で満たされているのをシディアは認めた。

「豊かな国だ。気候条件もだが、国としての組織が完成している。現在の国王は無能だが、それでも周囲に人材が揃っている」

「華乃子皇太后に、エリューシア第一王子」

「宰相もだ。何よりも、政治の中枢を司る者達に少数の愚者が混ざっていたとしても、それを補えるような機構を作り上げている」

 ザークレイデス皇国もそうだが、この大陸にある国は政策の考案・施行を国主が一人で行う場合が圧倒的に多い。国主の権限は絶対で、誰も逆らえない。だから優れた者が王となればその才覚で迅速によい施策が行われていく場合もあるのだが、逆であった場合の悲劇は計り知れない。

 だからザークレイデスでは、皇太子の選定は実力に鑑みて行われるのだ。しかしそれでも、完全に愚王の暴挙という可能性を根絶することはできない。

「兄上達は、養老院を作るのだそうだ」

 シディアがぼんやりしている間に、ヴィラニカは手ずからお茶の支度をしていた。手伝おうと進み出るのを、眼差しでやんわりと止められる。

 しかたなくシディアはその場に立ったまま、ヴィラニカの動作を見守った。

「老人達の暮らしが立ちゆかなくなってね。家族も、少しでも食い扶持は減らしたいということで、老いた親達と別々に暮らしたがる。自分で動ける身体ならまだしも、病を持っていたり身体が不自由だったらもう、死ねというようなものだ」

「それで養老院か」

「ほぼ無償で、暮らすのが困難な老人達を養うという触れ込みでね。今のところ、第一・第二皇子の人気はそれで高まっているようだ」

 かたり、とヴィラニカはポットを置いた。シディアはそれを合図に椅子へ座り、向かいに腰掛けたヴィラニカの表情をじっと観察する。

「あなたの懸念は?」

 それなりに長い付き合いだ。聞く限りではよい政策に思える養老院の建設について、ヴィラニカはすでに相当の問題点を見出しているのだということはわかった。

 そして彼の予想通り、第三皇子は美しい面に憂いを色濃く浮かべる。

「困っている人達を助ける、それは間違いなく、為政者がすべきこと。だから目的と方向性は間違いではない。問題なのは……いったい、誰が引き取った老人達の世話をするのかということだ」

「なるほど」

 シディアは頷いた。

 そもそも、自分で生活をするのが困難な者達が集まるのだ。誰か世話係がいて身の回りのことを見てやらなければ、養老院に入る意味がない。第一皇子、第二皇子は、どちらもその問題を蔑ろにしているということか。

「愚策だな」

「策ではなく、それを行う者の至らなさだよ」

 ヴィラニカは、視線を落とした。すでに湯気を立てなくなったカップに。

 かける言葉を持たないシディアは、彼の示してくれた心遣いをそっと口に運ぶ。確かに冷めてはいたけれど、十分に美味だ。

「私は、まだまだ無力だ」

 呻くような呟きが、ヴィラニカの唇から零れた。

「まだまだ……足りない。何もかも」

 テーブルの上で、華奢な手が拳の形を作る。きつく。

 ぶるぶると、震えている。

 シディアは無言で、それをしっかりと押し包んだ。ヴィラニカはゆっくりと目をあげたが、やはり沈黙したままだ。

 妹を、一族を盾にされて皇帝に従っていた数年間の中で、唯一得たもの。

 全身を血まみれにして宮殿へ帰り着いたシディアと、たまたまその回廊を通りかかったヴィラニカの出会いは本当に偶然以外の何物でもなかった。

 普通ならば、素通りしただろう。シディアの髪を見れば、どんなに汚れていてもその色からミグシャ族だと知れる。皇国の狗と成り下がった一族の者を、皇子が気に留める理由など一つもなかったはずだった。

 だが、あの時ヴィラニカは。


 ――湯浴みをするかい?――


 一瞬の驚きから冷めたあと、そう言ったのだ。

 そうして、冗談だろうと思いつつ彼の部屋を訪ねたシディアに、こともあろうに私室の風呂を支度して待っていてくれたのだ。

「ヴィラニカ」

 ゆっくりと、拳を解いていく。抵抗しないヴィラニカの手を、シディアは両掌で押し頂く。

 細い手だ。あまりにも多くのものを掴もうとして、折れそうになっている。

 穢れてしまったこの手でも、補うことができるのなら。助けられるの、なら。

「俺の忠誠は、あなたのものだ」

 少しでも、役立てるのなら。

「シディア……」

 ヴィラニカが、何かを言いかけた。

 しっとりとした温もりを両手に感じながら、シディアはそこに静かに口づけを落とした。

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