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81.裁き

「アンジュさん」

 バルコニーに出てきた月香に呼ばれ、アンジュは肩越しに振り返った。

「天気悪いし、寒いですよ」

「……少し、外に出てみたくなって」

 我ながら、まったく答えとして意味をなしていないと思った。月香も同様だったようで、不思議そうな顔でアンジュを見つめたまま立ち去る気配はない。

 真っ直ぐな眼差し。

 アンジュはいたたまれなくて、顔の位置を元へ戻す。

 この建物に住むのは貴族や商人などの資産持ちばかりだが、建っている区画の住民達はそうではない。彼の足下の道を忙しく行き来する人々は、遠目にも貧しい身分だとわかる。

「危ないですよ」

 ふと、腕がふんわりと温もりを感じた。

 いつの間にか月香が傍らにいて、しっかりとアンジュの二の腕を両手で掴んでいた。

「どう、したんですか?」

 動揺が、言葉を一瞬途切れさせる。

 月香は手を離さず、ぐいと彼を後ろへ引いた。

「そんなに乗り出したら、危ないですよ。ここ確か一四階ですよね?」

 心配してくれたのか。

 ようやく合点がいって、アンジュはバルコニーの柵から離れた。ひょっとしたら月香は、彼が無分別を起こす可能性を考えてここへ出てきたのかもしれない。

 大丈夫だと言おうとして。

 アンジュは、月香の姿に釘付けになった。

 あの夜は、その場にふさわしいドレスを着ていた。どれほど綺麗だっただろうと思ったが、彼が見たのは鮮やかな夜に包まれた彼女ではなく。

 ぐったりと力なく倒れ、蒼白な。

 閉ざした瞼が、二度と開くことはないのかもしれないと。

 ぞ、と腹が痛んだ。寒気で。

 冷たかった。動かなくて。人ではないようにも感じた。また動くのか信じられなくて、動いてほしくて。

 氷のようだった、彼女の指。

 今触れているのと、同じ。

「……申し訳ありません、月香」

 呻きと同時に、膝が崩れていた。

「アンジュさん!」

 受け止められる。次いで月香が大声で部屋の中の兄たちを呼ぶ声が聞こえて、アンジュは急いで彼女の手首を掴んで止めた。

 掌に容易に収まる細さ。柔らかいと感じるのは女性だからか、彼女だからか。

「だ、大丈夫ですか?」

 気遣う言葉。はきはきとして、耳に心地よい。

 失われるところ、だったのだ。

 掌が今感じているものも、この声も。

 この、温かい存在を。

「ごめんなさい……!」

 幼子のような、つたない謝罪が口から転がり落ちた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、月香……!」

 この人を。

 自分は。

 間違いなく、この自分が。

「アンジュさん、落ち着いて」

「どうしたのだ?」

 彼女の言葉の上に、音楽的な声が重なった。アザゼルと名乗った佳人。騒ぎに気づいてやってきたようだ。

「アンジュ、どうしたの?」

 ルカの声も聞こえる。兄には心配をかけたくなかったのに。

 いや、違う。

 知られたくなかった、のに。

「月香、何があった?」

「具合が悪いみたいで……。部屋に運んだ方が」

 強い手で、立ち上がらされる。月香ではない。けれど、彼女がまだ近くにいるのはわかった。

 目が眩んで、よく周りが見えない。そんな自分の標ででもあるように、月香は彼の手に触れてくれている。

 恐れて、逃げてもいいはずなのに。

「寝室はどこだったか」

「ご案内します」

 足の裏が、固い木に降りる。部屋の中を通って、廊下へ。

 周囲の光が弱まって、ようやくあたりが見えるようになる。

「どうしたの? 少し横になっているといいよ」

 優しいルカ。

「大丈夫ですか? お水、いりますか?」

 月香。

 気丈な娘。

 なぜ。

 どうして、彼女は。

「どうして、あなたは私を責めないのですか?」

 沸き上がった疑問は、彼にその意味を噛みしめさせる時間も与えてくれなかった。

 身体を運んでいた力の流れが止まる。ルカは、廊下の先に立って半身でアンジュを振り返っていた。その顔には、訝しげな色しか見て取れない。

「責めるって――」

「私のせいで、あなたは……死ぬところだった」

 言葉にした瞬間、世界が消えた。

 聞こえない。

 見えない。

 感じない。

 だが恐怖で叫ぶより先に、消えたはずの世界が揺れた。

「責められれば、赦された気持ちになるのだろう?」

 目が。

 ゆっくりと、光を取り戻していく。

 最初に見えたのは、緑色。

「月香の癒やしを行ったのは、彼女の守り手の一人だ。身体だけではない、心ももちろんな。だから、本来なら苦しむはずだった恐怖による記憶も緩和されている」

 アザゼルだった。

「彼女のためだ。だから、お前への裁きは彼女からは与えられない」

 恐らく彼の頬を打ったのであろう、たおやかな二つの手が離れていくのを視界の端で追いかける。

「お前を裁くのは、お前だ」

 無様にへたり込んだ彼の前で、佳人はゆっくりと立ち上がる。

「それが、罰と心得よ」

 冷たい言葉が、重く落ちてくる。

 それこそが罰のようだと感じたが、所詮は錯覚なのだ。

 甘美で都合のいい、願望。

「……はい」

 倒れそうになった身体を、アンジュは辛うじて両腕で支えた。

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