80.中華粥と蠣油生菜
「異世界でひたすら何かを食べるのがはやっているそうな」
その朝、月香がルカの部屋につながる扉を開くと、仁王立ちで待っていたマネージャーの声と一緒に香ばしいコンソメの香りが凶悪な勢いで襲いかかってきた。何しろ、ちょっと寝坊して朝ご飯を食べ損ねていたのだから。
「どんなはやりですか……ってか、どこ調べですか」
「巷の噂で聞いたのだ」
巷ってどこだ。常に噂の発信源というのは謎で、どんな根拠からそんな噂になったのかもわからないまま終わるのが常だ。
突っ込みを入れなかったのは、空腹すぎて力が出なかったのと、ちょうどアンジュが皿を数枚両手に持って台所から出てきたからだ。
「おはようございます」
「……おはようございます」
アンジュは目を伏せて軽く会釈すると、皿を食堂兼居間へ運んでいく。
「さ、月香。荷物を置いてくるといい。ちなみに、今日の朝食は?」
何とも絶妙のタイミングで、マネージャーは素晴らしい質問をしてくれた。
「実は食べ損ねました」
「うむ、もしかしてと思ったのだ。突っ込みに切れがないからな」
月香は思わず吹き出した。
「たくさん作ってあるから大丈夫。遠慮なく食べるといい」
手を洗っておいでと促され、月香は荷物をマネージャーに預かってもらい、洗面所へ行った。
勝手知ったる他人の家で、もう一週間もこの部屋でひがな一日暮らしているも同然なものだから、洗面所には月香用のフェイスタオルも置いてある。日帰りだからいいものの、人質の間はここで生活しろと言われていたら、洗面道具や化粧道具一式も運びこまなければならなかった。マネージャーに感謝である。
突然現れたあの日、マネージャーは自己紹介もそこそこにアンジュ達と交渉を始め、月香が家に帰れるように取りはからってくれた。その間マネージャーが代わりに人質をやってくれると言われたときはさすがに反対した月香だが、別にアンジュもルカも悪い人ではないし、マネージャーの口八丁手八丁に丸め込まれてしまった形で、現在に至っている。
「月香さん、おはようございます」
食堂へ入ると、すでに全員が席に着いていた。わざわざ立ち上がり月香の椅子を引いてくれたルカに恐縮しつつ座り、静かな朝食が始まる。
月香はいつもパンと果物とコーヒーで朝をすませるのだが、マネージャー作の朝ご飯はなんだか豪華だった。お粥が大きな深皿に一杯、炒め野菜、ピータン……要するに中華風である。水餃子も大皿に盛りつけられていた。
「……朝からすごいですね」
「オムレツに失敗したので、中華風にしたのだ」
なにをどう失敗すればそうなるのか、月香の頭では理解できそうにない。
「だが、朝たくさん食べてどんどん少なくするのが健康的なのだ」
「それは聞いたことがありますね」
しかし、朝から炒め物はちょっときつい。
月香はお粥を自分の器によそって、マネージャーがおすすめする黒酢を少し垂らして食べてみた。
お米から作るお粥は、甘みが出てとてもおいしい。ほとんどが水分なので、それでは物足りない人にはひとたらしの黒酢がいいアクセントとなる。米酢と違ってこくがありまろやかで、程良い酸味がお粥のおいしさを引き立て、食欲をそそる。こうばしい香りもいい。
月香はあっと言う間に、一杯目のお粥を食べ終えてしまった。
「お粥にピータンを入れてもおいしいのだ。あと、この野菜はレタスなのだが、ごま油でニンニクと一緒に炒めたのちオイスターソースで味付けしてある。ヘルシーなのに食べごたえ十分で、奥様方の人気メニューなのだ」
どこの奥様方のことだかは不明だが、この炒め物は確かにおいしかった。レタスはサラダにするばかりだったが、火を通してもおいしいとは意外だ。淡泊なレタスにごま油の風味とニンニクの香ばしさが組み合わさって、くどさがまったくなくどんどん食べられる。オイスターソースのこってりとしたうま味も、いいアクセントだ。
たくさん食べても野菜だし、ニンニクや調味料で栄養も満点。寒くて生野菜のサラダがあまり食べたくないときには、こんな風に食べてみたらいいだろう。白菜でもおいしいとマネージャーは言っていた。
「これらは、あなた方のお国の料理なのですか?」
おとなしい風貌に似合わず健啖家らしいルカは、お粥の三杯目を食べ終えてレンゲを置いた。もちろん、ほかのおかず類もかなり食べている。
「厳密には、隣の国の料理だ。年中どちらかというと水不足で乾燥しているので、野菜の育ちがあまりよくない地方がほとんどだから、こうして調味料で味を付けたり、あまり水を使わない調理法が多いようだ」
そうなのか、と月香はピータンを口に入れながら思った。中国に行ったことはないが、中華料理は確かに煮物や汁物が少ない気がする。日本は水が豊富だというが、他の国では違うのかもしれない。
「この、穀物を水で炊くという料理は素晴らしいですね。水が多いから、一度に使う穀物を少なく抑えられます。飢饉の時にとても役立つ」
「うむ。だが、穀類ならどれでもいいということではない。ザークレイデスでは、確か小麦が主食では?」
「ええ」
「なら、お粥ではなくオートミールが理想だが、牛乳を食品として摂取する習慣は?」
「牛なら食肉ですが、何しろ高価な家畜で……」
いつの間にか、マネージャーとルカはマニアックな会話に突入していった。土壌はどうとか、水質はどうとか。
食事をしながら何となく聞いた限りでは、ザークレイデスの庶民層では主に小麦が主食で、パンにして食べるらしい。副菜はスープ、だいたい生か茹でたりして野菜を摂取し、肉は卵も手に入ると言うことで鶏やアヒル、がちょうなどのもの。
ただし、裕福な王侯貴族になると、パンがなければお菓子を食べればいいじゃない的な勢いで、とにかく何でも手に入るらしい。最近のトレンディーは羊肉で、香辛料でしっかり味付けしたのをシンプルに焼いたのを食べるのがステイタスだとか何とか。ちなみに羊はザークレイデス国内での飼育はされておらず、つまりわざわざ輸入しているのでコストがかかり、そんな高い肉を食べられるんだぜ、というところで自慢になるらしい。
金持ちまじふざけんな。怒りにまかせて剥いたゆで卵が、殻ごと中身も破損した。
「……お先に失礼します」
盛り上がる兄達に、ひっそりと声をかけてアンジュが立ち上がった。
自分の使った食器を台所へ下げに行き、しばらくがちゃがちゃと洗っていたが、そのまま食堂へは戻ってこなかった。
月香は、テーブルに並べられた料理を眺めた。まだ結構残っているが、マネージャーとルカとで平らげられない量ではない。もうお腹もいっぱいだ。
食器を重ねて、月香も台所へ向かう。手早く洗い物を済ませると、まず廊下に出た。居間と玄関、どちらだろうか。
しばらく考えて、月香は居間を選んだ。がらんとしていたが、探していた人の後ろ姿は見つかった。
大きな窓の向こう側、ベランダに。
レタスのオイスターソース炒めは、実在の料理です。中国の家庭料理。




