79.アザゼル
ザークレイデスの第四皇子に、エリューシアは会ったことがない。同じくらいの年頃で、かなり前に継承権を放棄したという情報以外には、まったく予備知識がないに等しい相手だ。
だから、妹がその謎の皇子と対面したいという話を祖母経由で聞いたときは、即座に反対しそうになった。それを実行しなかったのは、アステルと華乃子の間ではすでに結論が出ているらしいことを視線のやりとりで見て取ったからだ。
「……出発はいつだ?」
口から出たのが力ない質問に変わったのは、そういう経緯のためだった。アステルは明らかにほっとした様子で微笑んだ。反対を予想して、身構えていたようだ。
「遅くとも一週間後にはと考えております。護衛として、レナード様も着いてきてくださると。それでお兄様、琴音も一緒に来たいと言っているのですが……」
「琴音か」
エリューシアは、祖母を伺った。華乃子は表情を変えることはなかったが、微かに頷きかけてきた。
つまり、わざわざこうしてエリューシアに相談しに来た本題は、そのことなのだろう。
琴音は巫女姫で、それも今のエンディミオンにとっては切り札として最強だ。彼女の力を持ってすれば、どんな致命的な事態も事前に察知し、防ぐことができるのだから。
国王と宰相の暗殺未遂及び、二人を不仲にすることで宮廷に亀裂を入れようとしたアンジュの計画を阻止できたのも、琴音の力に寄るところが大きい。直接の手柄は月香のものだが、彼女が行動できたのも琴音がワインに入った毒に気づいたからこそだ。
アンジュは逃亡し、今のところ不穏な動きは宮廷内にも街中にも見られない。アンジュは単独で動いているようだと華乃子もエリューシアも考えてはいるが、それも絶対とは言い切れない。ザークレイデスの指先でアンジュが操られている可能性を、排除するための材料がないからだ。
こんな状況で、琴音を国外に出すのは正直なところ痛い。だが、仮想敵国の喉元へ飛び込んでいく妹の身も案じられる。
「清子が同行するという手もあるがね。私としては、それを推したいよ。だが琴音が、月香のことが心配だというので可哀想になってね」
華乃子が、鷹揚な口ぶりで言った。
「月香は、無事なのですよね?」
「ああ。アザゼルが説明しただろう?」
アザゼル。
その名前とともに、昨日のとんでもない出来事がエリューシアの脳裏に蘇った。
黒い髪と緑の瞳の佳人は、エリューシアが執務室に入った直後に扉から入ってきた。その細い姿の向こう側にあるのが見慣れた廊下ではなく何度か足を踏み入れたことのある内装の部屋だったので、異界から扉を繋げてきたのだと瞬時に理解した。
初対面ではなかったが、エリューシアは今までこの性別不詳の美しい人の名前を知らなかったのだ。いつも『マネージャー』と名乗っていたから。
「おはよう、王子」
「ああ……。まあ入れよ。扉を一度閉めないと、廊下から入ろうとする私の部下達が困るのだろう?」
「うむ」
扉を通じて別な空間同士を繋げている間、本来の空間では扉を開けることができないという状況になっているらしい。マネージャーは無造作に扉を閉めたあと、勝手に部屋を横切って手近な椅子にどっかり座った。
「私はアザゼル。月香達――遡れば君のお祖母様の現役時代も、巫女姫達の就業環境を安全に守るのが役目だった。というわけで、今の月香の置かれた状況について、少し王子に説明しておきたいのだ」
「エリューシアでいい。月香は無事なのか?」
椅子をアザゼルの前に引き寄せてきて座りながら、エリューシアは急き込んで尋ねた。何よりまずそれが心配だった。
「無事だ。アンジュレインとその兄はなかなか紳士だ」
「兄?」
「うむ。しかし、無事なのは無事だとしても、困った事になっている」
「どんな?」
「月香は鍵を奪われていて、家に帰れないのだ」
確かに、月香に鍵を持たせていると、隙を見て空間を繋ぎ逃げてくることが可能だ。アンジュがそれに気づかないわけがなく、早々に取り上げていたに違いない。
「家の者達が心配しているだろうな」
「幸い一人暮らしだ。しかし、郵便物が溜まっていると近所が不要な騒ぎを起こすかもしれない。都会は人間関係が希薄だが、自分の近くで事件があったら然るべきところに通報する」
具体的にはどうなるのかはわからなかったが、彼女がもとの世界で姿を消したと周囲に思われれば厄介なことになるというのは理解できた。
「というわけで、私は昨日月香達のところへ行って、交渉してきたのだ」
「交渉?」
「うむ、月香を定時にはきちんともとの世界に返すようにと。琴音にはお泊まり会を許可したことがあったが、そういう例外以外の場合は残業代を支払わなければならないし、労働基準法とかに引っかかってしまうのだ」
「……?」
「向こうの世界の偉い人に怒られるのだ」
「……そうか」
ものすごく単純に言い直されても、エリューシアにはそう答えることしかできなかった。
つまり、状況を整理すると。
「月香は、自分の世界へ定期的に戻ることはできる。しかし、エンディミオンへ来ることはできない。とうことか?」
「そうだ。出勤の際は直接、アンジュ達のところへ出向くようにしている」
「鍵の管理は誰が?」
「月香だ。時間の流れが向こうとこちらでは異なっているから、正規の出勤時間と退勤時間の管理は向こうの世界基準で定めている」
「鍵は月香が持っているって事か?」
エリューシアは首を傾げる。
それなら、おかしな事になる。鍵を持っていて自由にどこへでも行けるのであれば、月香は素直にアンジュ達の元にいる必要はない。なのになぜ、エンディミオンへ逃げてこないのだろう。
その疑問を予測していたのか、アザゼルがすかさず答えをくれた。
「私が、保険となるようにしたのだ。月香が向こうへ帰るときは私がアンジュ達のもとに残り、月香が出勤してきたときに私が事務所へ戻る。言ってみれば人質だな」




