77.現れ出でし者
巫女姫の鍵を、先代の女子高生達は二人ともこちらの世界へ置きっぱなしにしていったらしい。
その内の一つは、アンジュがエンディミオンの王宮に残していった。そしてもう一つは、未だに彼の手元にある。
「便利ですからね。遠方の物資が急遽必要になっても、すぐに調達しに行ける」
首から紐でぶら下げた、乳白色の不透明な石が嵌まった鍵を提げて見せて、アンジュは言った。ルカが申し訳なさそうな表情をするのを目に留めて、月香はまず一番気になっていることから訊くことにした。
「あの教会を、ずっと見張ってたんですか?」
「正確に言うと、少し違います。あなたの気配を探っていたんです」
月香は、目を見開いた。
「エンディミオンからずっと?」
だとしたら、いったいどうやってそんなことをやってのけたのか。
それに、そもそも何のために。
「巫女姫を、このザークレイデスへ連れてきたかったんです」
鍵を服の中に戻しながら、アンジュは続けた。
「もっとも国を出たときは、まったくそんなことは考えてもいなかった。ただここにいたくなくて、一番遠いエンディミオンを目的地に選んだ。身元がはっきりしなくても受け入れてくれるから、他の選択肢よりはましだと思って神殿に入っただけです。信仰など、まったくありませんでした」
巫女姫が来るという託宣を受けて、自分達を迎えに来てくれたアンジュ。途中、降りてくる人達がみんな親しげに彼に声をかけていた。
登りきってぐったりしていた月香達に、自分は修行でいつも登るから慣れていると、彼は笑っていた。赤ん坊を負ぶって、月香の靴も持ってくれて。
「巫女姫を迎えに行けと命じられたときは、耳を疑いました。忘れかけていた母の愚痴が蘇った。巫女姫のせいで、自分は不幸になったと。国が滅んで、隣国の好色爺の慰み者になって、生みたくもない子供を産むことになったと、母は――」
「アンジュ」
辛い言葉の奔流を止めたのは、ルカだった。
アンジュの肩を抱き、軽く何度も叩きながら、ルカは茫然としていた月香に目配せを送ってくる。
「巫女姫。弟が無体をして本当に申し訳ありません」
アンジュほどの美貌ではないが、心根の優しさが溢れるような穏やかな面差しの青年は、静かに頭を下げる。
「アンジュは、私のことを気遣ってくれたのです。そして、この国のことも」
兄に抱かれたまま、アンジュは少しだけ顔を上げた。
スターサファイヤの瞳。
黒髪に遮られて見えない。
「ザークレイデスは、不安定です。ご存知かどうか、この国の穀物の生産量は決して多くはなく、気候も厳しい。けれど民を守るべき責任と力を持つはずの皇族や貴族達は、己の欲を満たすことしか頭にない。ますますこの国は、痩せ細る一方なのです」
月香は、無言のまま続きを待った。
まだわからない。アンジュやルカの現状と、ザークレイデスの事情、そして月香の誘拐がいったいどう繋がるのか。
わからないから、下手に口を挟まない方が賢明だと思った。
「私は皇位継承権を放棄し、与えられた領地を何とか豊かにしようと尽力してきました。けれどもともと土地がよくないせいで、中央に納めるどころか領民の食料となる分の麦すらろくに収穫できない。様々な文献で、寒冷な地でも丈夫でよく育つ作物を研究してきましたが、それもやはり駄目で。アンジュは、私の試行錯誤のために必要とあれば、先ほどの不思議な鍵を使って協力してくれました」
ルカは、そこでアンジュに視線を向けた。温かい眼差しだった。それに気づいたのかどうか、アンジュはやっと真っ直ぐに兄を見返した。
同じ、スターサファイヤの瞳が互いの光を反射している。
「ええと、もしかして……」
何となく、話が見えてきたような気がする。
アンジュとルカは、仲のいい兄弟。アンジュはルカの力になるべく、これまでもいろいろやってきた。そしてアンジュは、ルカと月香を会わせて、話を聞かせている。
そうなると、月香がここへ連れてこられた理由というのは。
「巫女姫として、ルカさんに協力してザークレイデスを何とかしてくれって事ですか?」
「……察しがいい方で助かります」
あっさりと肯定されて、月香はソファーの背もたれに倒れ込んだ。
なんだか、力が一気に抜けた。
「普通に口で頼むんじゃ駄目だったんですか?」
「聞いてもらえるかどうか、わからなかったので。事情が込み入っていますしね」
「そりゃそうですけど」
まあ確かに、アンジュの身分からして衝撃の事実だったし、月香としてもいきなり打ち明けられたとしたら信じたかどうかは不明だ。
「それに、たとえあなたや琴音が聞き入れてくれたとしても、エリューシア皇子殿下や皇太后殿下が好意的に考えるかどうかは別問題です。自分の国のために巫女姫を貸してくれと言われて、簡単に許すとは思えません」
それもまた、事実だった。
皇太后や清子、琴音の持つ巫女姫の力はどれも強大だ。ザークレイデス皇国はエンディミオンにとっての仮想敵国だから、強力な武器ともなる巫女姫をほいほい渡せるわけはない。やはりエリューシアも華乃子も賛成はしなかっただろうと思う。
まだ知り合って三日しか経っていないが、ルカは誠実で優しい人だと判断していいだろう。アンジュが悪い人間ではないことは、もうよくわかっている。月香としては、彼らに何か協力できるなら手伝ってもいいかという気持ちだ。
しかし。
「アンジュさん、巫女姫の『力』がほしいんですよね? でも私は……」
「まだ覚醒していないだけですよ。あなたは間違いなく巫女姫です」
俯きそうになった月香を、アンジュの声音の力強さが押し留めた。
「その時が来れば、あなたの『力』も必ず目覚めます。あなたの心に相応しい『力』が、きっと」
自分に相応しい『力』。
それはいったい、どんなものだろう。
「その通りだ!」
ぱりーん、と。
何かが割れたような気がした。
恐らくそれは、シリアスな空気だったのだろう。
「はっはっはっはっは。驚いたか諸君」
昔のアニメや特撮の悪役めいた台詞を棒読みで垂れ流しながら、その人物は廊下へ繋がるドアからいきなり飛び込んできた。
「月香、無事で何よりだ。さすがに三日も帰ってこないからサナも心配していたのだ。いったい何があった?」
月香は、攫われたときも肌身離さず持っていたバッグに素早く手を突っ込んだ。
どれほどこのときを待ちわびていただろう。準備は常に万端だったのに。
手が、迷いなくそれを探り当てる。
握る。
手を引き出した勢いのまま、大きく振りかぶる。
そして。
「雰囲気ぶちこわしじゃああああ!」
ぱしーん!
折りたたみ式お手製ハリセンは、呼んでもいないのに飛び出てジャジャジャーンしたマネージャーの美貌を惜しげもありがたみもなく直撃し、吹き飛ばしたのだった。