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75.ファサールカ

 上へ行く釦を押そうとしたとき、つい詠唱しかけてアンジュは苦笑した。長年の習慣とは恐ろしいものだ。

 ザークレイデスの昇降機は、機械じかけで動く。魔法が使えなくても、誰でも自由に使うことができる。だからザークレイデスでは、あまり魔法の研究は盛んではない。

 アンジュとて、この国から出ずに生きていればきっと縁がないままだったろう。

 昇降機が止まったのは、現在彼が住む高層住宅の中程の階。その気になれば無償で最も高額の最上階にも住めるが、同居人がそれを喜ばない。そもそも、この住宅に住むことも何とか説得してようやく叶ったことなのだ。

 部屋の硝子扉を叩くと、二重構造になった内側の鉄製扉がまず開き、透明な外扉ごしにその同居人の穏やかな笑顔が見えた。

「お帰り、アンジュレイン」

 アンジュとそう年齢は変わらないが、同じ青い色の瞳はずっと老成した光をたたえている。幼い頃から、アンジュはこの人の目が好きだった。

「ただいま戻りました、兄上」

 それはこの人が身分と継承権を捨て、ファサールカ・エドアルド大公となった今でも変わらない。鋼鉄で造られたこの冷たい国で、唯一アンジュを温めてくれたのが彼だった。

「宮殿はどうだった?」

 温かな木の廊下を居間に向かって進みながら、兄が尋ねる。

「相変わらずです。よそよそしくて、それでいて身勝手な欲ばかりが熱を持って。皇帝が結局お姿をお見せにならなかったのは、それを厭ったためかあるいは一人御寝所で自らの権謀術数を楽しんでいられるからか」

「……それでは、私の母上にも会えなかったのだね?」

「ええ。しかしルカ兄上の御伝言は、侍女に預けて参りました」

 そう言うと、ルカの憂いがゆっくりと晴れたので、アンジュはほっと安堵の笑みを浮かべた。

第三妃クルトノア殿下は、ご健勝であらせられるそうです。第一妃カトノア第二妃ノルトノアは、相変わらずだと」

「そうか……。だが、母上がお元気ならば何よりだ」

 台所に入っていくルカについて、アンジュは久しぶりに足を踏み入れた宮殿の近況を話し続けた。

 第一妃と第一皇子は、ここ数年の天災被害の対策及び国民への救済政策に尽力している。だが決して民のためだけを思った結果ではなく、そうして支持を集めて実績としようという思惑の方が強いだろう。正式に皇太子が決定される時期は、皇帝の胸先三寸で左右される。その時のための布石の一つで敷かない行為だ。

 エンディミオンにいる間にも、噂で三人の異母兄達が醜い権力闘争を繰り返している事は聞いていた。シディアが密偵となってからは彼経由でより詳細な情報が入ってきたが、詳しく説明されるほどの意味を感じない内容ばかりだった。要するに彼らとその母親達は日々競争者達の足を引っ張ろうと様々な小細工を仕掛けており、そのどれもが互いにとって特に有利にも不利にもならずにいて、結局未だに皇太子の地位は空いたままなのだ。

 こんな状況で、宮殿内が安全なはずはない。貴族達も自らの権力と金を増やすための労力を惜しまず、互いに互いを踏み台にしようという努力を怠らない。そんな打算の結果実行に移される政策が本当に民のためになるわけはなく、結果国内は未だ荒廃から脱する気配は微塵もない。

 唯一の例外が、第四皇子であるルカとその母である第三妃だ。

 第三妃は第二妃の侍女だった女性で、ザークレイデスの下級貴族の娘として育ってきたためか万事において控えめな性格である。我の強い妃を持っていた皇帝にとってそこが新鮮だったのか、それとも本当にそんな彼女を愛したのかは今となってはわからないが、ともかく彼女はある日を境に妃となった。最初に生んだのは女児で、長く皇子を授からなかったが、それが少しのちに第四妃が誕生しますます苛烈さを増した皇太子争いから第三妃を守ることともなった。

 結局第四妃は身体の弱い皇女一人を産んだだけで身罷り、政争を疎んじ我が子を守ることを第一と考えた第三妃の思いは、姉弟にも受け継がれた。アンジュにとっても異母姉にあたる皇女は隣国の辺境貴族のもとへ潔く嫁いでいき、ルカは継承権を放棄してザークレイデスの民に混じって生きることを選んだ。

「ねえ、アンジュ」

 香ばしい匂いのお茶を淹れながら、ルカはふっと溜息をついた。

「本当にこれでいいの?」

「兄上」

 アンジュは苦笑した。これでもう三度目の同じ問いだ。

「何も、危害を加えるわけではありません。国ではなく、皇子としてでもなく、個人的な取引です。喩えそれが何かしらの功績となったとしても、今更この程度のことで私や兄上が皇太子争いの候補者として数えられることもないでしょう」

「アンジュ」

「野に下り民の本当の声を聞き、行動している兄上のお力になりたいのです。この国の中枢にいる者で、国を想っている人間など誰一人存在しないのだから」

 ルカは大公位を与えられてはいるが、決して領主の館に閉じこもってはいない。毎日自ら農具を振るい、少しでも農作物を多く実らせようと腐心している。館の中ですることと言えば、どうすれば痩せた土地を豊かにすることができるか、災害に強い作物を作ることができるかという研究ばかり。貧しい民に積極的に援助してきたため、最初にあった財産はもう何年も前に消えた。

 壁には皹、屋根は雨が漏り窓の硝子は破れたままという館から、この新しい住み処へルカを引っ張ってくるのは本当に大変だった。自分が留守にすれば研究が送れる、畑の水やりも人手が足りないなどと主張する彼のため、アンジュは密かに人足を募り自身の蓄えから給金を出すことにして、ようやくルカを連れ出すことに成功したのだった。

 この皇都でなければできないことがたくさんある。そしてルカが自分のそばにいるのが、これからやろうとしていることには不可欠なのだ。

「アンジュ。お茶が入ったよ」

 兄がポットを置いたのと同時に、アンジュはカップを載せた盆を取り上げる。ルカは奥ゆかしいし優しいから、ぼうっとしていると何でも一人でやってしまおうとする。

「彼女は、今日はいかがでしたか?」

 居間へ通じるドアの前で、アンジュはルカを振り返る。扉を開けてくれながら、ルカは苦笑して首を振った。

「変わらずご機嫌は悪いよ。当たり前だけれどね」

「ええ。しかたがありません」

 静かに扉をくぐる。宮殿以外では恐らくここでしか見られないであろう、歪みが少なく強度の高い硝子がはめ込まれた大きな窓が、陰鬱に曇る皇都を一幅の絵のように見せている。

 それを背景にしていた彼女が、アンジュ達を振り返る。不機嫌を隠そうともしていない。

 アンジュは彼女から目を逸らし、背の低いテーブルに盆を置いた。

「……今日こそは、事情を説明してくれるんですよね?」

 ぶっきらぼうな声と一緒に、衣擦れの音がした。ソファーに座り直したらしい。

 アンジュは、ゆっくり視線を上げた。

 短めの黒髪は結えなかったから、宝石のついたピンを一つつけているだけ。今流行りの襟ぐりの大きく開いたドレスではなく、エンディミオンの巫女のように手首から足首までしっかり包み込む簡素な服を着ている。

 質素で華やぎなどどこにもない装いなのに、彼女の瞳が何より強い存在感を主張している。それだけできっと誰もが目を離せなくなり、鮮烈な印象を抱くだろう。

「巫女姫」

 言葉を探すアンジュに代わって、後ろからルカが束の間の沈黙を破った。

「申し訳ありません。弟のしたことについては、私からもお詫びをさせていただきます。もし、すぐにでもお帰りになりたいのであれば――」

「兄上」

 あわててアンジュは遮った。この兄は、まったく善良に過ぎる。

 そして意を決して、真っ直ぐに彼女を見つめた。

「月香」

 久しぶりに、呼ぶような気がした。

 彼女の名前は、こんなに優しく響いただろうか。

 けれど、そんな感傷は刹那のこと。

「手段の乱暴さはお詫びいたします。でもどうしても、あなたに聞いていただきたい話があります」

 未だ目覚めざる巫女姫は、ほんの少しだけ表情を和らげる。

「……できれば、そういうのは三日前にしてほしかったんですけど」

 三日前。アンジュが、彼女と再会した日。

 ここへ連れてくるために、いささか乱暴で性急な手段をとらざるを得なかった日。

「そうですね。本当に申し訳ありませんでした」

 素直に頭を下げる。

 心なしか、その瞬間空気が軽くなったように思えた。

「わかりました」

 きっと、月香が笑ったからだ。

「あの、お兄さんもどうぞお座りください。アンジュさんも」

 言いながら、月香は盆の上のカップをてきぱきと配る。ルカも微笑んで、彼女の隣のソファーに腰掛けた。

 彼女は、相変わらずのようだ。てきぱきとして実際的で、強い。

 この人なら。

 アンジュはもう一つのソファーに座り、深く呼吸した。

 何から話そう。どう伝えよう。

 でもその前に、何よりも。

「ありがとう、月香」

 まずこう言わなければ、何も始まらない。

 月香は軽く目を瞠って、それからゆっくりと、もう一度笑みを見せた。

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