68.扉を、閉めて
巫女姫の鍵は、それを使う者が一度行ったことのある場所、あるいは強く鮮明に思い浮かべることができる場所ならばどこへでも入り口を創り出してくれる。特に何も考えずに使えば、最後にその鍵で扉を開けた場所へ繋がる。
「それを利用すれば、確かに王宮を拠点にして捜索ができますね」
月香の言葉に、華乃子は軽く頷いた。
「そうだね。時間を決めて戻るようにすれば、日々の業務にも支障がない。少なくとも、物理的な移動よりずっと楽だ」
皇太后は、首から提げて服の中に隠していた鍵を引っ張り出し、宙で軽く振った。無色透明の石が嵌まった、燻し銀の鍵が大小二つ。
マネージャー曰く、石はそれぞれのイメージカラーで選んでいるらしいが、確かに華乃子には水晶のような石が相応しいと思う。何よりも強く輝くからだ。
今はエリューシアが持っている紫の石がついた鍵の持ち主は、いったいどんな少女だったのだろう。考えようとして、やめる。もう彼女はこの世界にもこの一件にも何の関係もないし、関係してくることもないのだから。
アンジュを探そう、という琴音の提案は、レナードや皇太后達も交えた席で相談の結果、実行に移されることになったのだ。巫女姫の鍵を使えば自由自在にどこへでも行き来できるし、兵を派遣するよりも遙かにザークレイデス皇国側に気づかれる可能性が低くなる。アンジュは国王と宰相の暗殺未遂の犯人であり、王達の証言によれば彼に唆されたことで不和が広がったということでもあるらしい。放置しておくことはできないと、皇太后が判断したのだった。
「では、今日は私が参ります」
「気をつけて。何かあったらオーブで連絡を」
「はい」
エリューシアは、袋をちらりと見やった。粗末なリュックのような形の、いわゆる背嚢というものだ。遠方と通信できるオーブは、エリューシアと月香それぞれが携帯している。緑色の卵のような形をしていて、あらかじめ波長を合わせたオーブ同士なら、中央に三つ並んだ石を押すことで通信したい相手を選ぶことができるのだそうだ。月香は説明を受けたとき、子供に持たせる携帯電話のようだと思った。
「気をつけろ」
レナードが、エリューシアを真っ直ぐ見つめて言う。言葉の少なさとは裏腹に、できることなら同行したいという思いが全身から発散されている。そんな彼とエリューシアの様子を見守るアステルが目を爛々と輝かせている理由を、月香は最近になって理解した。できることなら、一生気づかずにいたかった。
「月香さん……」
不意に、袖を引かれた。
「琴音ちゃん?」
「気をつけてくださいね」
琴音が、泣き出しそうな顔で月香のそれをぎゅっと掴んでいる。しわになる素材なのにどうしよう、と一瞬思ったが、月香は笑顔でそんな彼女の肩をぽんと叩いた。
「大丈夫。勤務時間内に戻ってくるし、気楽に待ってて」
「私、バイトだから先に上がっちゃいます」
「あ、そうか」
琴音はますますしょんぼりと項垂れてしまった。どう言葉をかけていいか、月香は悩む。
毒殺未遂事件以来、琴音は目に見えて落ち込んでいる。仕事中なのにあからさまにそれを表に出すのはどうか、と月香としてはつい身についた習慣で気になるのだが、ここはそもそも普通の会社じゃないのだし、あまり神経質になることもないのかもしれない。
それに、いつもあんなに元気だったこの少女がいつまでも元気がない方が心配だ。病気ではなさそうだが。
「琴音ちゃん」
可能な限り優しい口調で、月香は言った。
「心配してくれるのは嬉しいけど、それだけじゃ駄目なのよ」
「え?」
不思議そうな顔で自分を見返してくる少女に、月香は続ける。
「心配だ心配だって思っているだけじゃ、何も変わらないし何も解決しない。何かできることを考えて、一つずつやってみる方がずっと気持ちも落ち着くし、問題が片付く可能性があるでしょ。だから、心配することしかできないときは、何も考えない方がいいの」
琴音は唇を噛み、再び俯いてしまう。逆効果だっただろうか。
「月香、そろそろ」
だが次の言葉を考えているうちに、エリューシアに呼ばれる。月香は逡巡した後、琴音に「じゃあ」と告げて踵を返す。
「もし」
背中に、琴音の声が追いすがってきた。
「もし、いっぱい一生懸命考えても、何もできないってわかったときは……どうしたらいいんですか?」
月香は、息を呑んで立ち尽くす。
振り返った先で、少女は目に涙をためていた。
「私、いつも何もできることがなくて……考えても考えても、なにをしても駄目で……。そんなときは、どうしたらいいんですか……?」
最後の方は、ほとんど啜り泣きになっていた。
「琴音?」
異変に気づいたエリューシアが、開こうとしていた扉の方から戻ってくる。レナードも琴音の背後へ寄り添うようにして立ち、震える背中にそっと掌を置いた。
「役に立ちたいのに……巫女姫の力があるのに、何もできなくて……ごめんなさい……」
とうとう、琴音は本格的に泣き出した。エリューシアとレナードが、おろおろしながら慰めているが、一向に効果がない。
月香は、しばらく天井を見上げていた。そしておもむろに視線を琴音に戻し、勢いよくその手を振り下ろす。
「ぴ!」
脳天に一撃。
手加減したつもりだったが、割と手が痛かった。しかし琴音の方のダメージはさほどではなかったようで、きょとんと両手で頭を抱えているだけだ。もちろん、もう泣き止んでいる。
「役に立とう役に立とうなんて考えるから、空回りするのよ」
まだじんじんするのを手首を振ってごまかしながら、月香は真っ直ぐ琴音を見つめた。
「そういうのはまず、言われたことをそれ以上にこなせるくらいの経験と知識を身につけてから考えなさい。経験も知識も、できないとか考える前にやってみないと身につかないけどね」
同じ思いで苦しんだことは、月香にだってあるのだ。これでも、ベテラン派遣社員だ。
「月香さん……」
「琴音ちゃんの力は、守護の力。だったらここにいて、何があっても守り抜きなさい」
彼女の力は少なくとも、大勢の人間の命を救っている。国王と宰相、貴族達、そしてエリューシア。
胸を張って誇るのに、何の問題もない。
「さ、行きましょう殿下」
「あ、ああ」
琴音を振り返らずに、月香はエリューシアを引きずって扉の前まで進む。エリューシアが扉を押し開ければ、見慣れない薄暗い路地が広がっていた。どこかの街の片隅だろう。
「月香さん!」
乾いた砂利の感触を靴裏に感じるのと同時に、琴音の声が追いかけてきた。
「ありがとう! 私――」
月香はしかし振り返らず、静かに扉を閉めた。