62.贖罪
その知らせを受けてから、自分がいったいどんな風に行動していたのか、アンジュは憶えていない。
ようやく我に返ったときは、昏々と眠り続ける月香の傍らに座っていた。
薄暗く落としてあるランプの明かりの下でも、顔色の尋常でない悪さは覆うべくもない。息をしているのか不安になって、アンジュは彼女の顔の上に手を翳した。
微かに、ふわりとした吐息を感じた。
――生きている。
腕を下ろし、椅子の背に凭れる。いつの間にか額に汗が滲んでいるのに気づいて、ハンカチを探した。
「無茶をする」
後ろから声がして、跳び上がりそうになる。いや、実際彼は腰を浮かせ、素早く振り返っていた。ドアは閉まっていたはずだし、開閉の音も聞こえなかった。
空気の流れすら、感じなかったはずなのに。
「解毒は済ませたのか?」
なのに、その少年は確かにそこに立っていた。黒い髪を無造作にかきむしり、金の双眸でアンジュを真っ直ぐ見つめて。
「……どなたですか?」
「そこで眠っている娘に、責任のある者だ」
質問にも、納得いく答えを返す様子はない。
年齢は、十五、六といったところか。体つきも華奢で、特筆すべきはそのずば抜けた美貌。しかしアンジュが少年から威圧感を覚えるのは、完璧すぎるほど整ったに畏怖したせいばかりではない。
なんだろう。この気配は。
足が震えてくる。
立っているのが辛い。
「うん、毒は抜けているな。もともと、あまりたくさん飲まなかったようだ」
少年は、アンジュのことになど見向きもせずに月香の顔を覗き込んでいる。ほっそりした手が彼女の前髪を整えていた。優しい仕草。
「まだ治療中です。すぐに出て行ってください」
苛立ちが後押しして、ようやく口から言葉が飛び出した。
「無断で部屋に入ってきたというだけで、あなたを衛兵に引き渡すには十分な理由になります。少しだけなら待ちますから、騒ぎを起こしたくないなら速やかに退出を」
「俺がこの王宮のどこへ行こうと、誰も咎めやしないし、そんなことは不可能だ」
効果があるはずの通告に、少年は皮肉な笑みを浮かべただけだった。
「華乃子にも話は通してある。まあ、そこの扉から入る手間を省いたのは、礼を失していたかもしれないが」
少年は、扉の方へ歩き出す。取っ手に手をかける直前、ようやく肩越しに振り向いた。
「これだけは言っておこう」
金の瞳。
なんという色だろう。
アンジュは、生唾を飲み下す。
「巫女姫二人に、危害を加えることは許さない。二度目はないと思え」
扉が、開く。二つの太陽がアンジュを解放する。
「わかっているはずだな? わかっているなら、償うがいい」
少年は。
重い音を立ててしまった、扉の向こうへ姿を消した。
よろめいた身体を椅子の背に掴まって支え、アンジュは大きく息を吐き出した。
じっとりと、汗ばんでいた。額だけではなく、掌も、背中も。
髪を掻き上げ、視線を寝台へ移動させる。
横たわる月香が、見える。
心なしか、顔色がよくなっているようだった。
あの少年が何かしていったのだろうか。魔法が発動したような気配は感じなかったが、もしそうであっても不思議ではないようにも思える。
音を立てないように注意して、月香の枕元へ忍び寄る。静かな寝息が微かに聞こえる。眠っている顔に、苦悶の陰はない。
知らず知らず微笑んでいた自分に、アンジュは気づいて愕然とした。
安堵する資格など、そもそもない。自分に許されているのは。
「……月香」
掛布の端に、そっと触れる。固いものに当たってびくりとした。彼女の手のようだ。
少し躊躇ってから、彼はその盛り上がりをおずおずと指先で辿った。
「すみませんでした、月香……」
こんなことを、口にできる立場でもない。けれど、他に言える言葉もない。
「償い……」
償え、と言った。あの少年は。
「そうですね……少なくとも、あなたに対しては償いをしなければ」
彼女がこんな目に遭わなければならない理由など、一つとしてなかったのだから。
眠り続ける巫女姫の枕頭で、彼はじっと座り続けた。
空が色を変え、窓から光が差し込む頃、月香が小さくうめき声を上げた。
彼は静かに部屋を出て、恐らく一睡もしていないであろう王子達に、彼女の目覚めが近いことを知らせに行った。