57.恋は気まぐれな小鳥
遊び疲れて眠ってしまったレマをベッドに入れてやり、琴音はそっと続き部屋で待っているアステル達のところへ戻った。
「ぐっすり眠っていますの?」
「はい、しばらく起きないと思います」
アステルは、くすくすと笑いながらおもちゃを片付け始めた。あわてて琴音も手伝う。
「かわいらしいこと。聞き分けもいいしおとなしいし、いい子ですわ」
「はい、レマちゃんはかわいいです」
愛らしい赤子は、王宮でのアイドルになりつつある。女官達も、なんだか偉そうなおじさん達も、若いお役人達も、レマがにっこり笑うとほんわか和んでいる。
小さい子がいると場が明るくなるというのは本当らしい。
「そういえば、琴音様。月香さんとアンジュレイン殿の様子に気づきまして?」
「え?」
おもちゃを片付けて二人でテーブルに戻ったとき、アステルがそう切り出した。
「最近、月香さんもお茶の時間にいらっしゃるでしょう? 昨日は琴音がアンジュレイン殿を一緒に連れてきましたけど、どうもお二人のご様子がおかしい気がして」
「おかしいって、どんな風に?」
琴音は、別に何も気づかなかったが。
アステルは優雅に顎に手を当てて、秘密を囁くように唇の端を引き上げる。
「お二人、お互いを意識し合っているように見えましたの」
「ええっ!?」
思わず、琴音は立ち上がっていた。椅子ががたんと音を立てたが、辛うじて倒れずにすむ。
「ま、まじですか!?」
「まじですわ! これでもわたくし、注意力と観察力には自信がありますの!」
古今東西、女子の興味は恋愛にあり。
二人の少女は目を爛々と輝かせて、きゃあきゃあとしばらく意味のない言葉を続けた。
「でもでも、結構お似合いかも! アンジュさん優しそうだし、頭よさそうだし、月香さんにぴったり!」
「そうですわね! 個人的にはお兄様にもうちょっとアプローチしていただきたかったですが、しかたないですわ! 鬼畜攻めとか下克上攻めとかいろいろ考えてましたのに!」
待てや、妹。
心の中では突っ込んだが、口に出すタイミングは逸してしまった。琴音のツッコミスキルは月香ほど高くない。
「月香さんはあまりこういうことが得意ではなさそうですし、いざとなったらお手伝いして差し上げないとね」
「ですね! わあ、なんかどきどきしてきた!」
「琴音のことももちろん、応援しましてよ」
はしゃいでいた琴音は、ひたりと動きを止める。
顔だけで振り返ると、アステルはとても優しい表情をしていた。
「レナード様の事、気になってらっしゃるんでしょう?」
否定も肯定もできないうちに、ぼっと頬が熱くなるのを感じた。
「見ていればわかりますわ。個人的には、お兄様とレナード様に幸せになっていただきたいけれど、まあそれは願望に過ぎませんもの」
兄と従兄を妄想の餌食にする王女様の笑顔は、しかし紛れもない琴音への慈愛と労りに満ちていた。
「で、どうなんですの? レナード様も琴音様のことを気にかけてらっしゃるようですし、望み薄ではないと思いますわ」
「……そんなこと……」
楽しい気持ちが、ぐんぐんしぼむ。
つまんないよね、という言葉が、耳の奥からわんわんとせり上がってくる。
そう言ったのは、四月になって初めて同じクラスになった少年だった。
野球部のエースだとか、サッカー部のホープだとか、そういう華々しい肩書きはなかったけれど、図書委員として真面目に活動し、授業態度もよく、勉強もできるといういわゆる優等生だった。
琴音の高校では、五月に初めて大きな学校行事がある。球技大会だ。種目は学年ごとに二つ、基本的に全員どちらかの競技に参加しなければならない。琴音たちの学年はバスケットとサッカーだった。
運動もそこそこの琴音は、どちらが楽そうかという点で考えてバスケットに参加したのだが、彼も男子バスケの補欠選手だった。
競技の時間はだいたい同じで、選手は必然的に一緒に体育館で出番を待つことになる。そのとき少し会話しただけで、琴音は彼に好意を持った。
漫画を読む方が多かった琴音が、足しげく学校図書室に通い始めたのは、球技大会直後からだ。何とか会話しようと、わざわざ彼におすすめ図書を聞いてそれを借りた。薦められるのはなかなか難しい本ばかりで、何とか最後のページを閉じても内容を理解できていたことはまれだった。それでもがんばって、返却時に彼に本の感想と薦めてくれたお礼を言った。
でも……。
「私、つまらない性格みたいだから」
言ってから、自分でその言葉を口にするのは初めてだと気づいた。
同じことを言った彼の声は、ふとした瞬間に胸の中から響いていたのに。
「つまらない?」
「そう言われたんです。好きだった人から」
視界が歪んで、あわてて瞬きする。何とか涙はこぼれずにすんだが、とてもそれ以上を話す気力はなかった。
「……失恋、したんですのね」
アステルがそばへきて、優しい仕草で琴音を座らせた。そのまま彼女の温もりが寄り添っていてくれるのを、琴音は力強く感じた。
気持ちが、少しだけ上を向く。
「同じクラスの……ええと、一緒の場所で勉強している人だったんですけど、頭が良くて、かっこよくて、スポーツはできないけど、でもかっこよくて」
「二回言いましたわよ」
「大事なことですから」
くすくす、と、そこで二人は同時に笑った。
「思い切って告白したんです。でも、私はつまらないからって、振られちゃって。同じクラスだから毎日顔を合わせなきゃならなくてつらくて、そしたら友達がアルバイトの面接に行ってみたらって勧めてくれたんです。もしバイトできるようになったら忙しくて気も紛れるだろうし、今よりはましなんじゃないかって」
そして、気づけば毎日王宮で忙しくしている。確かに気持ちは紛らわせられたし、毎日教室で彼を見ても胸が締め付けられることはあまりなくなっている。
なのに、ふとしたときにあの瞬間を思い出してしまったときの痛みや悲しみは、どうして消えてくれないのだろう。
「琴音様」
アステルは、ぽんぽんと琴音の頭をなでた。
「苦しいのは、それだけ琴音が一生懸命その人を好きになっていたということですわ。だから、胸をお張りなさい」
「王女様……」
「そのことを忘れずにいれば、きっとその人以上のすばらしい人を、もっともっと深く愛することができますわ。自信を持って」
両手を、ぎゅっと握りしめられる。すべすべでよく手入れされた、爪の先までぴかぴかの美しい白い手の、しっとりとした温もりが琴音にゆっくり染み入ってくる。
「ありがとう。王女様」
琴音は、自然に笑うことができた。
「レナード様は、いい方ですわ」
アステルも笑顔になり、明るい口調でそう言った。
「優しいし、思慮深いし。何しろお兄様のお世話を何年もしてくださってるんですものね。もし琴音様が望むなら、いくらでもいろいろ取りはからいますわ」
「あはは……」
苦笑するしかできなかった。残念ながら。
レナードは本当に素敵だし、好意は持っている。でもそれ以上の特別な感情かというと、まだ自分でもよくわからない。そばで見ていて、ときめいて幸せな気持ちになるだけだ。そして、それだけでも十分なのだ。
たどたどしい言葉ながらそう伝えると、アステルはふむふむと顎をなでた。
「あこがれている段階ということでしょうね。でも、そういうのも楽しいものですわ。あ、じゃあ、もしかしたらお兄様に……ってこともありえるんですの?」
「えっ!」
エリューシア。初対面の時からずがーんと衝撃を受けるほどの超美形。顔を合わせる度に、確かにちょっぴり舞い上がった。今は免疫ができてきたためか最初の頃ほどではないが、それでも間近で話すと緊張する。
何しろ美形だから。
「な、ない……の、かなぁ……どうなんだろ……」
「意識したこともないですの?」
「ええ……王子様かっこいいから、どきどきはしますけど……」
もじもじする琴音に、アステルはまたしてもふむふむと頷いた。
「今のところ、差し迫ったことはないということですわね。まあそれはそれで……。でももし、差し迫ったら遠慮なく相談してくださいね」
「は、はい」
「あなたは、私の大切な友人ですから」
え、と琴音が思うよりも早く、アステルは再び彼女の手を取っていた。
「お友達の役に立ちたいと思うのは、当然のことですわ。私、こういう立場ですから、本当に親しくしてくださる友人なんて、今までおりませんでしたの」
ちくん、と胸が痛んだ。けれどそれはほんの一瞬で、そんな痛みなんて幻にしてしまうほど優しい切なさが押し寄せてくる。
「ありがとう、王女様。……アステル、様」
呼び捨てにしそうになったが、『様』はつけてみる。彼女が偉い人である事実は変わらない。
しかしアステルは、大きく目を見張ったあとすぐに首を振り、ぎゅっと手に力を込めてきた。
「『様』なんていりませんわ」
美しい緑の瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「嬉しい。ありがとう、琴音」