50.椅子よさらば
同じくらいの能力、同じくらいの経験、同じくらいの財力。そんな感じの人が二人いたとする。一方は自分の持っているものを使って他の人に何らかの利益をもたらし、それをみんなも知っている。もう一人はもしかしたら何かをしたのかもしれないが、いまいち認知されていない。
そんな二人から一人を支持しろといわれたら、当然利益を与えてくれた方に味方する。それが人情だ。
わかってはいる。わかってはいるが、気持ちが理屈について来るというのは難しいものだ。
「月香さん」
書類が机の端に置かれる。礼を言おうと顔を上げたときには、その相手と覚しき後ろ姿は立ち去っていた。
溜息をつきそうになって、やめる。気が滅入るだけだ。
月香は新しい書類を順番にめくりながら、「の~ぱそ」を使って整理していった。部屋の中は静かで、実に仕事がはかどる。
「あっ」
だがそんなありがたい静けさは、突然の素っ頓狂な誰かの声で打ち破られた。
「ほら、あれ。あれが琴音様だ」
一人が言うと、次々にざわめきが起きる。どこどこ、とか、見えないからちょっとどいてよ、とか。
全員で窓に寄って、外を見ているらしい。
そちらに視線を向けないままで、月香は黙々と作業を続ける。
「すごいよな。俺達の世代のときに巫女姫がやってくるなんて。しかも琴音様のような方が」
「殿下のお命を救ったんだって? 昨夜のパーティのも、巫女姫の奇跡だって」
「琴音様がいらっしゃれば、エンディミオンは絶対安心だよな。たとえザークレイデスが変なことしてきても」
「ああ、よかったな」
琴音の巫女姫としての力。
月香も発動の瞬間には何が何だかわからなくて、実際に何が起きたのかはよく覚えていない。だが、あの大きなシャンデリアがホールの床と調度品のいくつかを台無しにした以外の被害がまったくなかったのは事実だった。シャンデリアの真下に、その時大勢の人がいたにもかかわらず。
琴音の力がいわゆるバリアーのような働きをして、人々を守ったのだとエリューシアは言っていた。
ふと気づけば、銀のペンが動きを止めていた。月香はゆらゆらとペン先を動かしたが、すぐにそれを置いた。
異世界から、ヴィヅへ送り込まれた巫女姫はすべて、何らかの力を有している。
華乃子は、『調和と滅びの力』。
清子様は、『すべての悪しき者を見抜き、浄化する力』。
そして琴音は、恐らく強大な守りの力。
ならば。
「巫女姫には、必ず何かの力があるんだよな?」
「ああ、そう聞いたことがあるぜ」
「あたしもよ。おばあちゃんが見たことあるんだって」
ようやく窓から離れた様子の、同僚達の話し声が密やかに流れてくる。
「それなら……ねぇ」
「だけど、そういうのまったく……ねぇ」
こういう話し方が一番気に障る。
口に出すのを憚るなら最初から言わなければいいのだし、一旦口に出したなら正々堂々と最後まで明確に言い切ればいい。もちろん、そのあとどうなるかの覚悟も込みで。
ペンを持ち直す。ことさら見せつけるように、書類をめくり手を動かす。
「ほんとに巫女姫なのかな?」
だがその言葉を聞いて、とうとう平静を装えなくなった。
「私達と同じ仕事しかしてないし、それも特別なこととかじゃないし」
「そうよね。そりゃエリューシア殿下の秘書官だけど、巫女姫じゃなくてもできることだし」
「お、おい。聞こえるぞ」
あわてたような声と、忍びやかな笑い声。
月香は大きく息を吸い込み、椅子の背に手をかける。
そして次の瞬間、立ち上がりざま思い切り椅子の脚を床に叩きつけた。
その場にいた全員、そして月香自身も心臓が止まるかと思うような鈍い音が室内に爆発した。
月香は、ものの見事に短く軽くなった椅子の背もたれを横目に、少しだけ後悔していた。まさかこれくらいで、椅子がばっきり折れてしまうとは。
しかしここで狼狽えたりするわけにはいかない。開くまですべて予定の行動であったかのように振る舞わなければ。
背もたれを保ったまま、ゆっくり部屋の中を見渡す。さっきまで陰口を叩いていた女性二人、止めようとしていた優男、その他諸々の同い年くらいの同僚達が、一様に引き攣った表情で月香と視線が合うと次々俯いていく。
言いたいことはいろいろあるが、まずはこれが最重要だ。
「仕事、してください。さっさと」
思った以上にドスの利いた声が出た。しかし効果は覿面で、彼らはがたがたと席へ戻り慌ただしく手を動かし始める。
昨日の騒ぎの興奮で、今朝から全員気もそぞろだった。おかげで予定の半分も作業工程がはかどっていない。
今から全力でやれば、なんとか巻き返せるだろう。月香はふんと鼻息をつき、椅子の残骸を抱えて静かに部屋を出た。
新しい、もっと丈夫な椅子をもらってくるために。




