5.初出勤
とうとうこの日が来てしまった。
月香はとぼとぼと足を進める。
行きたくない。
不安しか感じない。
でも、もう行く他はないのだ。
あれからずっと他の職場を探し回り、履歴書を送り、ハロワに日参し、弁護士事務所に相談してみたが……全て徒労に終わった。
履歴書に返信はなかったし、ハロワにはめぼしい求人は無い。挙げ句に弁護士には何故かアポイントの予定が来月以降しか受けれ無いとか言われる始末。
なんだか、意図的に邪魔されてるような気までしてきた。
だったら採用を辞退すれば良いだろうに、せっかく掴んだ唯一のチャンスを手放すのは、どうしてもできなかったのだ。トイレは綺麗というのも抗い難い。前の職場のトイレはいつも清掃に苦情が出ていた、経費削減で清掃業者の入る日にちが少なかったから。
我ながら、なんてあさましい。
それにうっかり断って、何かしら難癖付けられても怖いし。
暗い顔で歩きながらも、先週面接で訪れたビルの部屋に着いたのは9時10分前なあたり、染み付いた習慣が悲しい月香だった。
深い重いタメイキを吐きながら、とにもかくにも腹を決めてノックをする。
「はいりたまえ」
先週と同じくハスキーアルトな声が返り、入室を促してきた。
「おはようございます」
どんなに気持ちがどんよりしていても、挨拶は明るくはきはきと。
月香にとって、それは社会人としてのモットーである。
「うむ、おはよう月香。さて、今回の君の任務だが――」
面接官は、大昔人気があった海外ドラマのボスっぽく返してきた。
テープと同じく爆発しますか、とつい突っ込みたくなったが、月香は無表情でのスルーに成功する。仕事中なのだから、しかも出勤初日なのだから、あまり馴れ馴れしくしてはいけない。
「まずは、これを渡しておこう」
心なしか、面接官はちょっと元気をなくしたようだった。突っ込みを入れてほしかったのだろうか。ともあれ月香は、手渡されたそれを掌に受け、じっと見つめた。
鍵、だった。
ごく普通の、例えば月香の自宅のような形のものではない。古ぼけた金色の長い棒に二つの突起がついた、とてもアンティークなデザイン。ペンダントトップとして、こういうデザインの物は出回っている。
「これを、必ず持ってくること。なければ職場へは入れない」
「はい」
今時こんな古風な、あまりセキュリティレベルの高くなさそうな鍵を使って施錠しているのか。
大丈夫かこの職場、と月香の胃はきりきりと痛み出した。
「あと、バイトの子がいるが、彼女の勤務時間はもちろん君より短い。学校が終わってから来る」
「わかりました」
学校ということは、高校生か。未成年を雇っているのは、果たしてちゃんとした企業の証拠か否か。まあ、何か問題があったらそのバイトの子の保護者が黙ってはいないだろうから、保険にはなるのではないか。
ちょっぴり腹黒いことを考えつつ、月香は面接官に促されるまま、扉の前に立った。
「さ、開けるのだ。今日からここが」
ノブもやはり、アンティーク風。月香が手をかけて軽く引くと、難なく開いた。
「君の生きる、もう一つの『世界』だ」
そんな言葉を、もはや月香は聞いてはいなかった。
さあっと吹き込んでくる風。空の青、空気の暖かさ。
光。
そこは――。