48.追跡
何が起きたのかわからない。
まさに、そのときの月香はそんな状態だった。
「大丈夫ですか!?」
耳元で大きな声で話しかけられ、我に返る。それと同時に、自分の状態を把握して跳び上がりそうになった。
アンジュの腕がしっかりと月香を抱きすくめていた。
「あ、何が……?」
「シャンデリアが落ちてきたんです。怪我はありませんか?」
月香を起き上がらせて、アンジュは視線でそちらの方向を示した。まだ自分を支えている彼の腕に戸惑いながら、月香はそちらに目をやって。
血の気が引いた。
部屋の中は、さっきよりも薄暗くなっていた。所々に、明るい玉が浮かんでいるので辛うじて室内は見渡せる。
その、少ない照明の中にあってもなお、美しい絨毯が敷き詰められた床を無残に抉った巨大な硝子細工のかたまりは異様な存在感を放っていた。
あんなものの下に、誰かがいたら……。
「月香」
ふらついた身体は、アンジュが抱き留めてくれた。自分でもバランスを保とうとして、手が彼に触れた。
固い、肩に。
滑らかな布地の手触りよりも、ごつごつとした感触の方が強く主張してくる。
男、なのだ。
この人は。
「向こうに殿下がいらっしゃいます。そちらへ行きましょう」
月香の手と肩が、包み込まれている。温もりに。
頬も、温かい。
右の耳が、感じている。彼の鼓動を。
こんな時なのに。
月香は、両足に力を入れた。こんなことを考えている場合ではない。エリューシアは今、しなければならないことがたくさんある。それを手伝わなければ。
深呼吸して、目を上げる。大丈夫、立てる。
歩き出そうと、月香は一歩を踏み出して。
視界の端に何かがよぎったのは、その時だった。
何が見えたのだろうと、頭を廻らせる。目に留まったものがあった。
ホールから出て行こうとする、誰かの後ろ姿。
「月香?」
ついてこない彼女を不審に思ったらしいアンジュが、彼女を呼ぶ。だが促す響きを感じていても、月香は従わなかった。
動いていた。身体は。
「月香!」
アンジュの声を置き去りにして、月香は走り出していた。邪魔なダンス靴はそこに脱ぎ捨てて。
廊下へ出ると、ホールの張りつめたざわめきが一気に遠ざかる。壁の両側には魔法の明かりが灯されて、追うべき相手の後ろ姿を見失うおそれはなさそうだった。
月香はドレスの裾をからげて、ひたすら走った。靴を脱いできたのは正解だった。裸足だからほとんど足音が立たず、相手は追跡に気づいた様子がない。
不審な人影は、何度も廊下を曲がった。そのためにそれほど速度は出ておらず、月香も徐々に距離を詰めていく。近づくにつれ、どうやら相手は男だと月香は判断した。背が高いし、骨格ががっしりしている。
服装は、黒のシャツとズボン。靴まで黒いし、ご丁寧に黒い布で頭を包んでいる。
いったい誰だ。こんな怪しい風体で、しかも騒ぎの起きた場所から逃げ出したということは、シャンデリアの落下はこいつの仕業だろうか。
そうだとしても、いったい何のために。
考えごとに気を取られて、月香はそれを見逃した。
見えていたはずなのに、その意味を理解するのが遅れたのだ。
前を行く男が、立ち止まると同時に振り返った。
月香が気づいたときには、男は跳躍していた。
まっすぐ彼女に向かって、その手には何かをきらめかせて。
背筋が、肌が、ぞわりと毛羽立った。
走っていた勢いの慣性を、両足を踏ん張って殺す。そのままさらに、後ろへ飛んだ。男がふるった右腕は直前まで月香のいた場所を横凪ぎにした。
短剣。
そう月香が認識するのと、二度目の攻撃はどちらが先だったろう。
かろうじてそれもかわし後ろへ跳躍すると、やっと十分な間合いが取れた。
どうするべきか。
ホールの騒ぎのためか、近くに人の気配は全くない。見回りの衛兵も後始末と、必要ならば救助活動のためにかり出されてしまったのかもしれない。
そうだとしたら、助けは期待できない。
月香は迷わず、逃げる選択をした。
問題は、この敵がそれを許してくれるかどうか。
男は、距離を置いて月香と向き合い、動こうとしない。しかしまったく隙がない。
月香の合気道は本当に護身程度のものだし、そもそも合気道というのはどちらかというと相手の力を利用して勝つことを目指す戦い方だ。向かってきた勢いを利用して投げ飛ばすくらいはできるかもしれないが、もし相手の動きの速さと実戦経験が月香より上なら、それも無理だ。
いや。
『もし』ではない。『確実に』力量は相手が上だ。
汗ばんだ肌が、じわじわと冷えていくのを感じる。
どうしよう。
いつまでも、膠着状態は続かない。
「月香!」
だが。
救いは、背後からやってきた。
「伏せて!」
その叫びが命じるままに、月香はがばっと床に体を倒し。
聞き取れない不思議な音律が、そばを駆け抜けざまに何かの力を帯びた気配だけを感じ取った。
男は、大きくのけぞった。それだけではなく、廊下の相当向こうまで弾き飛ばされていく。
「無茶をしないでください!」
背後から強く腕を引かれ、気づけば広い背中にかばわれていた。
「アンジュさん……」
「衛兵に知らせました。後は任せて、戻りましょう」
振り返ったアンジュは、強ばった顔をしていた。
「本当に、あなたは……」
心配、なのか。怒り、なのか。
彼はとても、複雑な表情をしていた。
「……すみません」
だから月香は、素直に頭を下げた。
アンジュは何も言わず、月香の背中を押して歩みを促した。




