47.気をつけろ! シャンデリアが落ちてくるぞ!
アステルが戻ってきたので、琴音は料理が並んでいるテーブルへ突撃した。
ダンスは夢のように楽しかったし、レナードも素敵だったが、それ以上に緊張したし、お腹も空いた。配膳の美しい、時には見たこともないような食材で作られた料理は琴音をしばらく夢中にさせるのに十分だった。
周りの様子に気を配る余裕が出てきたのは、かれこれ十分ほど鳥肉らしき料理を堪能したあとだったろうか。
琴音が着ているのよりもずっと豪華でデザインも凝ったドレスを纏った女性達が、羽根扇などを片手にしずしずと歩いていたり、エスパシアであろう男性と微笑みながら何か話していたりする。そうかと思えば女性同士、男性同士で数人のグループになり、なにやら盛り上がっている様子の人達もいる。
アンジュはまだ来ないのだろうか。それなら、もう一つケーキを食べようか。
琴音が、美しい城のように盛られた淡い桃色のケーキにそっと手を伸ばした、その時だった。
ちり、と首の後ろに痛みが走った。
静電気か、棘でも刺さったのかと思い触ってみるが、何もない。何もないはずなのに、無数の針がひっきりなしに突いてくるような痛みは、掌の下でどんどんはっきりし始めた。
なんだろう。
病気だろうかと考えたのは一瞬。それよりも何よりも、琴音を圧迫しつつある感覚の名前に、彼女は戦慄した。
『恐怖』。
頭の上から抑えつけられるような気がした。重い何か。耳鳴りがする。首の痛みも鋭くなる。
駄目だ。
止めなければ。
これは、駄目だ。
ぎゅっと目をつぶる。真っ暗になったはずの視界に、曖昧な輪郭が浮かび上がる。
無数の灯を点すもの。眩くて、明るくて。大きな。
人の数十人は、容易に押しつぶす。
琴音は。
「だめ――っ!」
腹の奥から迸った叫びが光となり、彼女を中心にして螺旋状に広がっていく様を、しかし彼女は知覚していなかった。
「琴音!」
びしゃっ、と頬に痛みが走り、琴音ははっと目を開けた。
「大丈夫か? 怪我は?」
彼女を覗き込んでいるのは、エリューシアだった。必死の形相。思わず自分の頬を抑えて、琴音は彼が少々乱暴に意識を呼び起こしてくれたのを知った。
「王子様……私……」
「よくやったな。おかげで助かった」
エリューシアの大きな手が、優しく琴音の髪を撫でた。驚いて変な声が出たが、彼はそれには頓着した様子もなく、琴音を支え立ち上がる。
それでようやく、彼女も気づいた。
「これ、なんですか!?」
ついさっきまで、華やかで楽しかったはずの場所だった。
空中に光の玉が浮かんでいるのは、きっと魔法だ。パーティの最中よりずっとホールが薄暗くなっている原因は、一目瞭然だった。
シャンデリアが、なくなっていた。
高い天井からつり下げられ、堂々とした風情と美しさ、無数の光を振りまいていたあのシャンデリアは、今無残な姿を琴音の前にさらしている。
床に砕け散って。
「突然落ちてきた。真下ではダンスが始まっていたから、直撃したら大惨事になるところだった」
床は、どうやら沈んでしまっているようだ。それも当然だろう。あれだけ大きな、シャンデリアが落ちてきて。
その下に、人がいたら。
よろめいた琴音を、エリューシアの腕がしっかり支えてくれる。
「大丈夫。死者は一人もいない。怪我人はいるが、みんなかすり傷程度だ」
ゆっくりと囁かれた言葉の意味を理解できるようになるにつれ、足に力が戻ってくる。どくどくと不気味に大きく脈打っていた心臓も、鎮まってくる。
だが。
「お前のおかげだ。琴音」
「え?」
どくん、と。
驚いたせいで鼓動が一瞬、変わった。
「巫女姫の力だろう。シャンデリアが落ちてきたのを、お前から溢れた光が受け止めるのを全員が見ていた」
エリューシアは、微笑んだ。赤くなって俯いた琴音は、気のせいか腕の力が強くなったように感じた。
「お前の力は、恐らく『守護』なのだろうな」
顔は見えなかったが、エリューシアの声の中に確かな賞賛の響きがあったことに、琴音の心臓は再び忙しく動き始めた。
力強く、踊るように。
by「オペラ座の怪人」