43.ルーベウス王国
皇太后が帰国するという知らせは、パーティの一週間前に届いた。魔法を用いた最速の移動手段でも、エンディミオン王国からザークレイデス皇国までは一週間かかる。出発したのは相当前だが、まさか交渉に今までかかっていたわけではない。ついでにエンディミオン国内の視察と、二国間にある二つの国との外交も済ませてきたということだ。
ザークレイデスとの交渉結果までは、まだエリューシア王子も知らされていないらしい。
「当然だな」
シディアは、短くそう言っただけだった。アンジュはそのまま黙り込んで、大陸地図を眺める。
大雑把に表現すると、この大陸は楕円形をしている。最北にエンディミオン、その南には二つの小国、ルカニオン王国とサレ王国がある。昔、華乃子皇太后が巫女姫だった時代にいろいろ諍いがあった結果、今の規模まで小さくなったそうだ。そしてそのかなり後、二代目の巫女姫たちが降臨した時代には。
「この辺りだったか」
シディアの指が、サレとザークレイデスの国境付近へとんと降りた。
今はサレの領土。しかしかつて、その場所には別の名前があった。
「ルーベウス王国。史上最悪の滅び方をしたという国があった場所だな」
「ええ。エンディミオンの歴史でも、嘲笑を以て学ばれ、語り継がれる国ですね」
唇が皮肉な形に歪むのを、止められなかった。止めようとも、思わなかった。
「どんな女性だったのでしょうね。二代目巫女姫というのは」
奇しくもアンジュは、四人の巫女姫と知り合うこととなった。琴音だけは例外だが、他三人はどちらかというと自我が強く、自分の求めるところをはっきりと見定められる性質のようだ。そしてそれは面白いことに、共通して色恋沙汰とは遠いところに向いている。
「華乃子皇太后や、清子様……彼女達のような巫女姫であったなら、ルーベウス王国は滅ぶことはなかったのでしょうか」
名前を口にしなかったもう一人の面影を、アンジュは努めて頭の中から閉め出した。
シディアの不思議な色の瞳が細められたのを、なぜか居心地悪く感じる。
「ルーベウスの第一王子と第二王子は、それぞれ異なる方面に秀でていた優秀な人材だった」
やがて歌うように、シディアの声がそんなことを吟じ始める。
「武名も高かった二人の王子は、当然のように世の平穏を取り戻すための特別な使命を与えられた。二人のかりそめの主となったのは、異世界より遣わされた美しい二人の巫女姫。神秘の力を使いこなす少女たちは、群衆だけでなく二人の王子をも魅了した。しかしそれが悲劇の引き金となり――」
「シディア」
思った以上に、強い声が飛び出していた。シディアはぴたりと口を噤み、アンジュは気まずく横を向いた。
「……詩人としては大成できそうにありませんね」
「そうだな。もとよりそのつもりもない」
くつくつという小さな笑いが、不快だった。
ルーベウスの末路は、アンジュもよく知っている。サレとザークレイデスに挟まれていた小国は、王子達の功績により隣国の脅威から守られるようになるはずだった。「世界を安定に導いた王子」と、「強大な力を持つ巫女姫」の存在によって。
だが、結果は。
「二人の優秀な王子が消え、その隙に乗じてザークレイデス皇国はルーベウス王国を侵攻した。王族達は皆殺しになった。末の姫を除いて。あまりにも美しい王女をザークレイデスの皇帝が見初めたのだったな」
「ええ……。処刑を命じたその口で求愛し、姫の親兄弟を斬り殺したその腕で彼女を抱いた……」
――忌まわしい。
耳の奥で、じわりとそんな言葉が滲む。
「巫女姫達が、王子二人とともに姿を消したから。しかもどうやら、巫女姫達の世界へともに連れて行ってしまったらしいという話は、あとから噂となって流れた」
「間違いのない話なのだろうか」
「どうでしょうね。どちらにしても、もう関係のないことです」
ルーベウスは滅びた。それから今までの数十年で、何もかもが変わった。この大陸の人々は、本当の意味であの国を憶えていることはないのだろう。
たった一人を除いて。
「そう、皇王の側室となったルーベウスの姫は、未だ健在なのだったな」
「ええ」
マグノリア・カァン・ピア・ルーベウス。今の名は、マグノリア・カァン・トラストノア。
皇王の囲い者になってから数年後、皇子を産み落としたことから、五番目の妃と呼ばれている。